繹史天地開闢の始め(開闢原始)
天地開闢以前の宇宙生成論、三皇(天皇・地皇・人皇)と十紀の伝承、有巣氏・燧人氏の事跡を集めた篇。太古の伝承は出典によって食い違いが大きく、馬驌はこれらを併記したうえで、末尾に自らの見解を長く述べている。
天地開闢の宇宙論
- (列子より)天地が生まれる前は太易・太初・太始・太素の段階を経たとする。太易は気もまだ無い段階、太初は気の始まり、太始は形の始まり、太素は質の始まりで、この四者が渾然一体(渾淪)となっていた状態から、清く軽いものが天となり、濁り重いものが地となったと説く。
- (淮南子より)天地がまだ形をなさない状態(馮馮翼翼・洞洞灟灟)から「大昭」と呼び、道は虚霩に始まり、虚霩が宇宙を生み、宇宙が気を生み、気の澄んだものが天、濁ったものが地となった。陰陽の精が四時を、四時の精が万物を生み、陽の熱気が火・日を、陰の寒気が水・月を生んだとする。
盤古神話
- (五運歴年記より)混沌とした元気からまず天地・乾坤が分かれ、その中に人が生まれた。最初に生まれたのが盤古で、死に際してその身体が風雲・雷霆・日月・山岳・河川・草木・金石・雨露などに変じ、身についていた虫は人民になったと説く。
- (述異記より、割注)盤古を天地万物の祖とする異伝が地域ごとに複数あり、頭が東岳、腹が中岳になったとする説や、盤古の夫婦が陰陽の始まりとする呉楚地方の伝承、南海に伝わる盤古の墓の言い伝えなどを紹介する。
- (三五歴記より、割注)天地は鶏の卵のような混沌状態で、その中に盤古が生まれ一万八千年をかけて天地が開き、盤古自身も一日ごとに変化しながら一丈ずつ成長し、天地の極まる高さ・深さに応じて長大化したという。
- (編者按)盤古の名は後世の雑書に始まる荒唐無稽な説であり、史書がこれを三才の初代の君主として扱うのはおかしいと指摘する。
三皇(天皇・地皇・人皇)
- (真源賦より)盤古の後、天皇十三人、地皇十一人、人皇九人の兄弟が相次いで立ち、人皇の時代に結縄・刻木の政が四万五千六百年続いたとする。
- (始學篇より)天皇十三頭は「天霊」と号し一万八千年治め、柱州崑崙山のふもとに跡を残したとされ、地皇十一頭は熊耳・龍門山に興ったとする。人皇九頭は各三百歳、山川の地勢に応じて天下を九州に分けて統治したとされる。
- (易通卦験・春秋保乾圖・春秋命厯序より)天皇氏は木徳、地皇氏は火徳に基づき統治を始めたとする象徴的な記述。
- (淮南子より、編者按付き)「泰古二皇」が道を体得し中央にあって四方を治めたとする記述を引きつつ、これを俗に伏羲・神農と解する説は誤りであり、天皇・地皇こそが「二霊」=泰古二皇であると馬驌は注記する。
- (文子より)「九皇の制」として、君主・臣下の身分秩序と天との対応関係が定められていたと説く。割注では、秦の博士が言う天皇・地皇・泰皇のうち泰皇が最も貴く、これが人皇(また九皇とも)に当たるとする説を添える。
十紀の説
- (春秋元命苞より)天地開闢から春秋の獲麟の年まで二百二十六万七千年を、九頭紀・五龍紀・攝提紀・合雒紀・連通紀・敘命紀・循蜚紀・因提紀・禪通紀・疏仡紀の十紀に分けるとする伝承を紹介する。各紀の姓の数や、循蜚紀の鉅霊氏以下二十二氏、因提紀の蜀山氏以下十三氏、禪通紀の倉頡・柏皇・軒轅・神農ら八十九世(伏羲・神農を含め十八氏)、疏仡紀(黄帝から周まで)といった内訳が割注に列挙される。
- (三墳より)別系統の伝承として、合雄紀(三男三女が始祖)→敘命紀→連逋紀→五姓紀→居方氏(九頭に分立)→提挺氏→通姓氏という展開を記す。これは元命苞の記述とは順序が逆になっており、馬驌は割注でその違いを指摘する。また『荘子』の冉相氏・渾沌氏・狶韋氏、『鶡冠子』の成鳩氏、『春秋命厯序』の黄神氏・&KR2629;神氏・辰放氏・離光氏、『洛書』の次民氏など、諸書に見える異名の原初君主も併せて紹介する。
- (編者按)これら諸氏のうち、有巣氏・燧人氏だけは民への功徳が実際に伝わっており、他の空想的な人物名とは性質が異なるとして、以下に採録する方針を示す。
有巣氏・燧人氏
- (始學篇・三墳より)上古の人々は穴居していたが、聖人が現れて巣居を教えたため大巣氏(有巣氏)と呼ばれた。琅邪の石楼山がその遺跡とされる。
- (古史考より)人々がまだ生肉や木の実を食していた頃、聖人が火の徳をもって鑽燧により火を起こし、調理と製鉄を教えたため燧人氏と呼ばれた。(拾遺記の割注では、遂明国の巨木を鳥がついばんで火花が出たのを見て聖人が火を起こす方法を学んだという異伝を伝える。)
- (尸子より)燧人氏は星辰の運行と五種の木を観察して火を起こす方法を編み出し、水害の多い時代に漁法も教えたとする。
- (論語摘輔象・易通卦験より)燧人氏には四人の補佐役がいたとする伝承を紹介する。
編者按
- 楊朱や屈原でさえ「太古のことは滅んで伝わらない」と嘆いたように、文字も史官もなかった時代の政教の実態を後世が正確に知ることはできない。
- 盤古以前に君主がいたか、天皇以下の君主が実際に数えられる人数かは、いずれも確証がない。人の寿命は今も昔も大差ないのに、黄帝が百年在位したとされる一方で、九頭・五龍の時代の君主が一族で一万八千年も治めたとするのは不自然である。
- 「十紀二百二十六万余年」を十紀に割ると一紀約二十万年になるが、因提紀六十八世・禅通紀九十余世という世代数と釣り合わず、逆に疏仡紀は黄帝から獲麟までわずか二千年ほどしかなく、時代ごとの長さの配分に矛盾がある。
- 泰山での封禅の跡すら孔子が全ては知り得なかったように、書契以前や孔子が削除した伝承は、政治にも学問にも資するところがない。諸子・讖緯の雑説を妄信して太古の氏号を遠く求めるのは、奇を好む者の行き過ぎである。
- 以上により、史論を立てる者はまず庖犧氏(伏羲)から書き起こすのが妥当である、と結論する。