隋唐演義第九十二回 霊武にとどまり儲君は即位し、長安は陥落し逆賊が凶を恣にする (留靈武儲君即位  陷長安逆賊肆凶)

太子の分離と靈武への道

(詞:西へ逃れた大駕と、朔方で光を放った皇太子。人事は天意に従うが、肉親を顧みなかった悔いを詠む)

馬嵬の変後、進路をめぐり議論が割れる中、韋諤の進言で扶風へ向かうこととなった。出発時、父老たちが引き止め、玄宗は太子に慰撫を命じるが、建寧王倓・広平王俶の進言もあり、民衆・将士の支持を受けた太子は玄宗と別れて留まることを決意する。玄宗はこれを天意として受け入れ、兵馬を分け与え、太子への譲位を仄めかした。

太子は建寧王の進言により朔方へ向かうことを決め、途上で敗残兵と誤って交戦するなど苦難を経て、兵力を大きく減らしながら新平に至った。一方、玄宗の一行も扶風で将士の不満が高まったが、玄宗自ら情理を尽くして諭し、蜀からの貢納品を分け与えたことで動揺は収まった。

玄宗の入蜀と粛宗の即位

玄宗は成都に入り、かつて神僧一行に予言された「万里橋」の名を見て、自らの延命を確信する。一方、太子は靈武に至り、裴冕らの勧めにより即位して粛宗となり(至德元載、玄宗を上皇天帝と遙尊)、玄宗もこれを追認して政務を全て粛宗に委ねる詔を発した。作者は、粛宗の即位そのものは已むを得ぬ措置として擁護しつつ、即位した年のうちに改元したことは行き過ぎであったと評している。

長安の惨状

安禄山は潼関陥落後、しばらく追撃を怠ったため玄宗一行は無事に蜀へ、太子も無事に朔方へ逃れることができた。安禄山配下の孫孝哲が長安に入り略奪を恣にする中、安禄山は馬嵬で楊貴妃・韓国夫人・虢国夫人が殺されたことを知り激怒、在京の皇族を皆殺しにし、息子安慶宗の霊前に心臓を捧げて祭ろうとしたが、突如の雷雨によって果たせなかった。楊国忠の妨害で皇族が同行できなかったことが、皮肉にもこの惨事を招いた一因として語られる。

梅妃は難を逃れ、後に玄宗との再会を果たすことになる伏線が示される。降伏した官員(崔光遠、陳希烈、張均・張垍ら)が偽政権に仕える様も描かれ、安禄山自身は長安より東京・范陽への執着から西京統治に興味を示さず、賊軍もまた略奪に耽り西進の勢いを失っていく。