隋唐演義第九十一回 延秋門で君臣は逃げ惑い、馬嵬駅で兄妹は誅に伏す (延秋門君臣奔竄  馬嵬驛兄妹伏誅)

潼関陥落と蜀行の決定

(詞:かつての栄華が今や山河の残骸となり、寵愛も人心も失われたことを悔いる歌)

潼関の敗報に玄宗は動揺し、群臣の意見も割れる中、楊国忠は蜀への行幸を主張した(自らの地盤である蜀に予め蓄えを用意していたためであった)。秦国楨は郭子儀・李光弼らの奮戦を挙げ蜀行に反対したが、楊国忠は虢国夫人・韓国夫人を通じて楊貴妃を動かし、玄宗を説得させた。玄宗は表向き親征の詔を出しつつ密かに西へ出発することとした。

延秋門からの脱出

玄宗一行は明け方に延秋門から密かに出発し、梅妃や在京の王族の多くは同行を許されなかった。都では宮門が開くと同時に混乱が広がり、庶民が宮殿や官邸を略奪する騒ぎとなった(杜甫「哀王孫」に詠まれる惨状)。玄宗は道中、左蔵の財貨を焼こうとした楊国忠を諫めて留めさせ、便橋を焼こうとした企ても撲滅させるなど、民を思う言動を見せた。咸陽望賢宮では老翁郭従謹が安禄山の危険性を早くから見抜いていたにもかかわらず諫言が届かなかったことを訴え、玄宗は過ちを悔いた。

馬嵬の変

馬嵬駅に至り、疲弊し憤る将士たちは、陳元礼の扇動もあって楊国忠を反乱の元凶として殺害し、韓国夫人や虢国夫人一族も次々と誅殺された。しかし将士は「賊の根がまだ残っている」として楊貴妃の処分も要求し、玄宗はやむなく涙ながらに楊貴妃を仏堂で自縊させた(享年三十八、天宝十五載六月)。高力士が遺体を将士に見せて確認させ、ようやく騒動は収まった。

その後届いた茘枝を見て玄宗は楊貴妃を偲び号泣し、かつて楊貴妃が見た不吉な夢(火事・黒龍・鬼の予言)が今回の顛末と符合していたことを高力士と語り合い、術士李遐周のかつての詩がこの事件を予言していたことも回想される。

評語

冒頭の詞と地の文で、賢君賢后が慎みを持たねば天怒人怨を招き、権臣・寵妃の専横が国家を傾け、結局は自らも誅戮を免れず万民を塗炭に苦しめる結果になると戒めている。