隋書卷八十四 北狄傳 突厥・西突厥・鐵勒・奚・契丹・室韋

突厥――狼祖伝説から阿史那氏の勃興

  • 突厥の祖は平涼の雑胡、姓は阿史那氏。北魏太武帝が沮渠氏を滅ぼした際、阿史那は500家で茹茹(柔然)に逃れ金山に住み鍛冶を業とした。金山の形が兜鍪(かぶと)に似ることから「突厥」と呼ばれ、これが国名となったという。
  • 別伝では、祖先の国が西海の上にあり隣国に滅ぼされ皆殺しにされた中、一人の子供だけが手足を切られ大沢に捨てられたが牝狼に養われて生き延び、狼と交わって身ごもらせた。追手が子を殺そうとした際、神のような力で狼は海東の高昌西北の山へ逃れ、そこの洞穴で十人の男子を産んだ。うち最も賢い阿史那氏の子が君長となり、牙門に狼頭の旗を立てて由来を示したという。
  • 阿賢設という者が部落を率い洞穴を出て茹茹に臣従した。大葉護の代に勢力を伸ばし、北魏末の伊利可汗は鉄勒を撃破して5万余家を降し、茹茹に婚姻を求めたが主の阿那瓌に罵倒され、伊利は使者を斬り茹茹を破った。伊利の死後、弟の逸可汗も茹茹を破った。逸可汗は病没に際し子の摂図を退け弟の俟斗(木杆可汗)を立てた。木杆は勇猛で智略に富み、茹茹を滅ぼし、西は挹怛を破り東は契丹を走らせ北方の戎狄を従え中華と対峙、西魏軍と共に東魏へ侵攻し太原にまで至った。
  • 突厥は牧畜を業とし水草を追って移動し、穹廬氈帳に住み被髪左衽、肉食酪飲、老を賤しみ壮を貴ぶ。官制は葉護以下28等が世襲される。角弓・鳴鏑・甲・矟・刀剣を用い騎射に長け性は残忍。文字はなく木を刻んで契約とする。月が満ちる頃に略奪を行う。謀反や殺人は死罪、姦通は去勢の上腰斬、目を傷つければ女で償い、なければ財で贖う、手足を折れば馬で贖い、盗みは十倍の賠償。死者は帳中に安置され親族が牛馬を殺して祭り、帳を回って号泣し顔を刀で傷つけ血涙を流す作法を七度繰り返す。吉日を選び屍を馬に乗せて焼き灰を埋葬、木を立てて塋とし屋を建て死者の姿や戦歴を描く。殺した敵の数だけ石を立て千百に及ぶ例もある。父兄の死後、子弟が継母や兄嫂を娶る風習がある。五月に羊馬を多く殺し天を祭る。男は樗蒲、女は蹴鞠を好み、馬乳酒で酔い歌い合う。鬼神を敬い巫を信じ、戦死を重んじ病死を恥とする点は匈奴に似る。

突厥――可汗の内訌と隋への服属

  • 木杆は在位20年で没し、子の大邏便を退け弟の佗鉢可汗が立った。佗鉢は摂図を爾伏可汗として東面を、弟の子を歩離可汗として西方を統べさせた。佗鉢は数十万の兵を擁し、北周・北斉は競って姻戚関係を結び財を尽くして事えた。佗鉢は驕り「南の二人の子(周斉)が孝順なら貧しさの心配はない」と語った。北斉の僧・恵琳が仏法の功徳を説くと佗鉢は帰依し伽藍を建て仏典を求め、自ら斎戒を修め「中華に生まれなかったことが悔やまれる」とまで語った。
  • 佗鉢は病没に際し子の菴羅に「兄が子を親しまず国を我に委ねた以上、私が死ねば大邏便に位を避けよ」と遺言した。しかし大邏便は母の身分が低く衆望を得られず、菴羅の母が高貴で重んじられていたため、摂図が「菴羅を立てるなら兄弟として仕えるが、大邏便を立てるなら国境で刃を交える」と表明し、菴羅が跡を継いだ。大邏便は不服従を貫き菴羅を辱め続けたため、菴羅は国を摂図に譲った。国中の議論で「四可汗の子の中で摂図が最も賢い」とされ、摂図は伊利倶盧設莫何始波羅可汗(沙鉢略)として立ち都斤山を治めた。菴羅は独洛水に降り第二可汗と称した。大邏便は沙鉢略に対等の地位を求めたが受け入れられず、阿波可汗として旧領に戻された。
  • 沙鉢略は勇猛で人望があり北夷が皆帰服したが、高祖受禅後は待遇が薄く北夷は大いに恨んだ。営州刺史高宝寧の反乱に呼応し臨渝鎮を陥落させ、上は辺境の防備を固めるよう命じた。沙鉢略の妻・宇文氏の千金公主は北周滅亡を悲しみ復讐を促し続け、沙鉢略は40万の兵で侵攻、隋の柱国馮昱・叱李長叉・李崇・達奚長儒はいずれも敗れ、武威・天水・安定・金城・上郡・弘化・延安の家畜が奪われた。天子は激怒し、周斉の混乱に乗じた突厥の悪行と、これを正すための出兵の大義を説く長文の詔を発した。

突厥――隋の反攻と分裂

  • 河間王弘・豆盧勣・竇栄定・高熲・虞慶則らを元帥として出撃させると、沙鉢略はアポ・貪汗の両可汗と共に迎撃したが敗走した。突厥は飢餓に苦しみ骨を砕いて糧とするほどで疫病により多くの死者を出した。
  • 沙鉢略は勇猛なアポ可汗を疎み、その留守を襲って母を殺した。アポは西の達頭可汗(玷厥、沙鉢略の従父)のもとへ逃れ、達頭は激怒しアポに東征させ約10万騎が従った。貪汗可汗もアポと親しかったため沙鉢略に部衆を奪われ廃され達頭に奔った。従弟の地勤察も沙鉢略と不仲でアポに帰した。両陣営は互いに隋へ和睦と援助を求めたが上はいずれも許さなかった。
  • 千金公主の上書を機に高祖は使者徐平和を派遣した。晋王広はこの機に乗じることを進言したが上は許さなかった。沙鉢略と高祖の間で「舅と婿」の関係を確認する書簡が交わされ、大臣虞慶則が使者として赴いた際、沙鉢略は当初拝礼を拒んだが、公主の助言と長孫晟の説得で璽書を頭に戴いて受け取った。慶則が臣従の言葉を求めると沙鉢略は「大隋天子の奴となれるのは慶則の力」と述べ、慶則に馬千匹と従妹を贈った。
  • 沙鉢略は達頭に圧され契丹も恐れて漠南への移住を願い出て許され、晋王広が援助した。沙鉢略はアポを西征し捕らえたが、その隙にアポの妻子が阿抜国に掠奪され、隋軍がこれを撃退して沙鉢略に返還した。喜んだ沙鉢略は磧を境と定め臣従の上表を行った。高祖はこれを大いに喜び、千金公主を楊氏の姓に改め大義公主として遇し、使者窟含真を柱国・安国公とした。以後、沙鉢略は歳ごとに朝貢した。
  • 開皇七年、沙鉢略は狩猟の許可を受け一日に鹿18頭を仕留めるほど盛んだったが、帰路の紫河鎮で牙帳が火災に遭い、これを凶兆として憂え間もなく病没した。上は三日間廃朝し弔祭させ物五千段を贈った。

突厥――処羅侯・都藍・啓民の抗争

  • 摂図(沙鉢略)は子の雍虞閭が惰弱として弟の処羅侯への継承を遺言したが、処羅侯は先祖の兄弟継承の慣例が秩序を乱したとして辞退し続け、雍虞閭も先父の遺命を理由に固辞したため、五、六度の譲り合いの末、処羅侯が葉護可汗として立ち雍虞閭は葉護とされた。上は鼓吹幡旗を賜った。
  • 処羅侯は勇略に優れ、隋から賜った旗鼓を用いてアポを西征、隋の援助を得たとみた敵が次々降りアポを生け捕った。アポの処遇について高熲が「肉親の殺し合いは害悪、寛大に養うべき」と進言し上も同意、殊勲を寿いだ。
  • 処羅侯はその後も西征を続けたが流れ矢に当たり没し、雍虞閭が頡伽施多那都藍可汗として立った。都藍は歳ごとに朝貢したが、流人楊欽が彭国公劉昶の謀反を口実に大義公主に辺境を騒がせるよう仕向けた事件があり、都藍は楊欽を捕らえ隋に献上した。都藍は勢力を伸ばした弟の欽羽設を忌んで討ち、母弟の褥但特勤に于闐の玉杖を献じさせ柱国・康国公とした。突厥は隋との交易市場の設置を求め許された。
  • 陳平定後、上は陳叔宝の屏風を大義公主に賜ったが、公主は陳の滅亡に自らを重ねる詩を屏風に書き付け、上はこれを不快に思い待遇を薄くした。公主が西面突厥の泥利可汗と結んだことも警戒され、さらに公主の胡人との私通が発覚し廃黜が命じられた。沙鉢略の子・突利可汗(染干)が求婚したことから、上は「大義公主を殺せば婚姻を許す」と裴矩を通じて伝え、突利がこれを都藍に讒言、都藍は激怒し公主を帳内で殺害した。都藍と達頭可汗は不仲で度々争ったが、上が仲裁し互いに兵を引かせた。

突厥――啓民可汗の帰順と煬帝の厚遇

  • 開皇十七年、突利は上の宗女・安義公主を娶り、上は北夷の離間を図って厚遇し、突厥からの使者は前後370回に及んだ。突利は北方から度斤旧鎮に南遷し優遇されたが、雍虞閭(都藍)は「大可汗である自分が染干(突利)に劣るのか」と怒り朝貢を絶ち侵犯を繰り返した。上は蜀王秀、漢王諒らを派遣し討伐にあたらせた。都藍と玷厥(達頭)は突利を攻め兄弟子姪を皆殺しにし、突利は僅か五騎で隋使長孫晟と共に帰順した。上は突利の言い分の正しさを確認し厚遇、都藍の弟・都速六も帰順した。
  • 高熲・楊素が玷厥を大破すると、上は染干(突利)を意利珍豆啓民可汗(「意智健」の意)に封じ、朔州に大利城を築いて住まわせ、亡くなった安義公主に代え宗女の義成公主を娶らせた。帰順する部落が相次いだが都藍が攻撃を続けたため、啓民は塞内へ移された。都藍が侵掠を続けると河南(夏・勝二州の間)に遷し、数百里の塹壕を掘って啓民の放牧地とした。楊素・史万歳らが都藍討伐に向かったが、出発前に都藍は部下に殺され、達頭が歩迦可汗として自立し国は大乱に陥った。史万歳が大斤山で達頭を破り、晋王広の出撃で達頭は逃走。俟利伐(達頭の弟の子)が啓民を攻めたが隋の援軍で退けられ、啓民は感謝の上表で隋の恩を称えた。

突厥――煬帝の巡幸と啓民の朝貢

  • 仁寿元年、代州総管韓洪が恒安で敗れ庶人とされ、楊素が雲州道行軍元帥として啓民と北征した。啓民に服していた斛薛らの諸姓が離反し突厥阿勿思力俟斤らが啓民の民6千口・家畜20余万を掠めたが、楊素は追撃し大破、奪還した。柱国張定和・劉昇の別働隊も戦果を上げ、その後の掠奪も撃退した。この年、泥利可汗と葉護は鉄勒に敗れ、歩迦(達頭)も大乱に陥り奚・霫の五部が内附、歩迦は吐谷渾に逃れ、啓民がその衆を併せて歳ごとに朝貢した。
  • 大業三年、煬帝は榆林に行幸し啓民・義成公主が朝見、馬三千匹を献じ帝は物一万二千段を賜った。啓民は隋の恩を切々と述べ「至尊の慈しみは以前の聖人先帝(高祖)と変わらず、突厥百姓を養い育ててくれた」とし、華夏の服飾に一同倣いたいと上表した。帝は公卿の賛同にもかかわらず「夷夏で風俗が異なるのは自然の理」として改衣を強要せず、璽書で「まだ磧北が定まらぬ以上、心が孝順であれば服装を変える必要はない」と答えた。
  • 帝は千人大帳に啓民と部落酋長3500人を招き物二十万段を賜い、啓民の忠誠を称える詔を発し、路車・乗馬・鼓吹・幡旗を賜い諸侯王の上位に位置づけた。帝は雲内から金河を遡って啓民の居所を巡幸し、啓民は跪いて杯を捧げ、帝は「鹿塞鴻旗駐…」の詩を賦し感激を表した。金甕や衣服を賜い、高麗が密かに啓民と通じていた件も啓民は隠さず報告し、帝は牛弘を通じ高麗王への警告を伝えた。

突厥――始畢可汗の代と隋の衰退

  • 翌年、啓民は東都に朝じたがその年に没し、上は三日廃朝、子の咄吉世が始畢可汗として立った。大業十一年、始畢は東都に朝じたが、その年、帝が汾陽宮で避暑中、始畢は部落を率い侵入し帝を雁門で包囲した。各郡の援軍が到着すると始畢は退いたが、以後朝貢は絶えた。翌年、馬邑への侵犯を唐公(李淵)が撃退した。
  • 隋末の混乱で中国人の帰順者が相次ぎ突厥は強盛となり中華を凌ぐ勢いとなった。蕭皇后を迎え定襄に置き、薛挙・竇建徳・王世充・劉武周・梁師都・李軌・高開道らは僭称しつつも突厥に臣従し可汗の号を受けた。

西突厥――大邏便から処羅可汗まで

  • 西突厥は木杆可汗の子・大邏便に始まる。沙鉢略と不仲となり東西に分裂、次第に強盛となり東は都斤、西は金山を越え、亀茲・鉄勒・伊吾・西域諸胡が服属した。大邏便は処羅侯に捕らえられ、国は鞅素特勤の子を泥利可汗として立てた。その死後、子の達漫が泥撅処羅可汗として立った。母の向氏は中国人で、泥利の死後、弟の婆実特勤に再嫁した。開皇末、婆実と向氏は入朝の途上で達頭の乱に遭い長安に留まり鴻臚寺に滞在した。処羅可汗は定住せず烏孫故地に多く、石国北と亀茲北(応娑)に二人の小可汗を置き諸国を統べた。官制は俟発・閻洪達などが国事を評議し、5月8日に神を祭る。
  • 大業初め、処羅可汗の失政で国内が離反し鉄勒との抗争に大敗した。裴矩は処羅が母を慕う心を知り、これを機に司朝謁者崔君肅を派遣した。処羅は当初傲慢だったが、君肅の弁舌――啓民との対抗上、天子の力を借りて処羅を滅ぼす計画が進んでいること、母の向氏が助命を懇願していること――を聞き涙を流して詔を受けた。君肅はさらに「吐谷渾は啓民の子の外戚であり隋への朝貢を怠っている、処羅がこれを討てば忠節を示せ、母にも会えよう」と説き、処羅は喜んで朝貢を再開した。

西突厥――射匱可汗との内紛と隋への服属

  • 大業六年、帝が西方巡幸に際し処羅を召したが、国人の反対で処羅は応じなかった。帝は怒ったが、折しも射匱(達頭の孫)が婚姻を求めてきたため、裴矩の献策で射匱を大可汗に立て処羅と対抗させる策を採った。帝は桃竹の白羽箭を射匱に賜い迅速な挙兵を促し、射匱は処羅を急襲し大破、処羅は妻子を捨て数千騎で東走、高昌東の時羅漫山に逃れた。高昌王麹伯雅の報告を受け、帝は裴矩に向氏を伴わせ晋昌城へ派遣し処羅を説諭させ、処羅はついに入朝したが不満げであった。
  • 大業七年冬、処羅は臨朔宮で帝に謁見し謝罪、帝は「今や四海は清まり一家同然、太陽が一つであるべきように天子は一人」と諭し和解した。翌年の元会で処羅は「聖人可汗こそ大日」と寿ぎ、帝は処羅の弱った部衆一万余口を留め、弟の達度闕に会寧郡で牧畜させた。
  • 処羅は高麗遠征に従軍し曷薩那可汗の号を賜り、大業十年正月に信義公主を娶った。帝は旧領回復を意図したが遼東の役で実現しなかった。処羅は帝に常に随行し、江都の変では宇文化及に従い河北に至ったが、化及の敗勢に長安へ逃げる途中、北蕃突厥に殺された。

鐵勒――諸部族の分布と処羅可汗の粛清

  • 鉄勒の祖は匈奴の末裔とされ種類は多い。西海の東、山谷に依り点在する。独洛河北の僕骨・同羅・韋紇・抜也古・覆羅(俟斤と号す)、蒙陳・吐如紇・斯結・渾・斛薛らは勝兵約2万。伊吾以西、焉耆の北、白山沿いの契弊・薄落職・乙咥・蘇婆・那曷・烏讙・紇骨・也咥・於尼讙らも約2万。金山西南の薛延陀・咥勒児・十槃・達契らは約1万。康国北のアダ水沿いの訶咥・曷嶻・撥忽・比干・具海・曷比悉・何嵯蘇・抜也未渇達らは約3万。得嶷海東西の蘇路羯・三索咽・蔑促・隆忽らは8千余。払菻(東ローマ)東の恩屈・阿蘭・北褥九離・伏嗢昏らは約2万。北海南の都波ら。姓氏は各別だが総称して鉄勒と呼ばれ、君長を持たず東西突厥に分属する。定住せず水草を追い、凶暴で騎射に長け貪婪、略奪を生業とする。西方に近い部族は農耕もし牛羊は多いが馬は少ない。突厥建国以来、東西の征討に利用された。
  • 開皇末、晋王広の北征で啓民が帰順し歩迦可汗を破ると鉄勒は分散した。大業元年、処羅可汗は鉄勒諸部を重税で搾取し薛延陀らを疑い数百人の首領を集めて誅殺した。これにより諸部は一斉に離反し、俟利発俟斤契弊歌楞を易勿真莫何可汗として貪汗山に立て、薛延陀の内俟斤・也咥を小可汗とした。処羅可汗が敗れると莫何可汗が台頭し勇武で人望を集め、伊吾・高昌・焉耆諸国も服属した。
  • 風俗は突厥とほぼ同じだが、男子は婚姻後に妻の家で子が生まれるまで暮らし、その後に自宅へ戻る点、死者を埋葬(殯を経ず)する点が異なる。大業三年に朝貢し、以後絶えなかった。

奚――五部からなる小勢力

  • 奚はもと庫莫奚と称し東部胡の一種。慕容氏に破れた残党が松漠の間に潜んだ。不潔な風俗だが狩猟に長け略奪を好んだ。当初は突厥に服属したが次第に強盛となり五部(辱紇王・莫賀弗・契箇・木昆・室得)に分かれ、各部に俟斤一人が長として統べた。水草を追い突厥に似た暮らしをする。阿会氏が五部中最も盛んで諸部が従った。契丹と度々戦い財畜を得て褒賞を受けた。死者は葦の簀で包み樹に懸ける。突厥への臣従後は隋にも朝貢したが通絶を繰り返し最も信を置けない存在とされた。大業年間は歳ごとに朝貢した。

契丹――松漠の間から遼西へ

  • 契丹の祖は庫莫奚と異種同類で、共に慕容氏に破れ松漠の間に逃れた。後に勢力を伸ばし黄龍の北数百里に居住、風俗は靺鞨に似て略奪を好む。父母の死を悲しんで泣くのは不勇とされ、遺体を山の樹上に置き三年後に骨を集めて焼き、「冬は日向で食べ、狩りでは猪鹿を多く得させよ」と祝う風習があり、その無礼粗野さは諸夷の中でも際立つ。
  • 北魏の代、高麗に侵され部落一万余口が白貔河に内附を求めた。後に突厥に圧迫され一万家が高麗に身を寄せた。開皇四年、諸莫賀弗が朝見し、五年には全部族が塞に帰順、高祖はこれを受け入れ旧地への居住を許した。六年、諸部の内紛や突厥との衝突が続き、高祖の叱責で謝罪させた。別部の出伏らは高麗に背き内附し、渇奚那頡の北に安置された。開皇末、別部四千余家が突厥に背いて降ったが、上は突厥との和好を重んじ本国へ返す糧食を与えたところ、彼らは頑として動かず、部落は次第に増え遼西正北二百里の紇臣水沿いに移り、東西500里・南北300里の地に十部(兵力は各3千〜千余)を構え、水草を追い牧畜、征伐時は酋帥の合議と符契で動員した。突厥沙鉢略可汗が吐屯潘垤を派遣し統轄させた。

室韋――契丹と同系の五部族

  • 室韋は契丹の同系で、南は契丹、北は室韋と呼ばれ、南室韋・北室韋・鉢室韋・深末怛室韋・大室韋の五部に分かれ統一されず、突厥が三吐屯で統轄した。
  • 南室韋は契丹の北三千里、低湿地で夏は西北の貸勃・欠対山へ移動、草木・禽獣が豊富だが蚊が多く巣居で防ぐ。25部に分かれ各部に余莫弗瞞咄(酋長)を置き、死後は子弟が継ぎ絶えれば賢者を選ぶ。被髪の男、槃髪の女、契丹に似た衣服。牛車や籧篨の家屋、皮舟での渡河、草で作った馬鞍などの風習がある。婚姻は互いの同意後に婿が妻を盗んで連れ去り、後に牛馬を娉として送り改めて連れ帰る。妊娠を待って共に戻る。婦人は再婚しない。死者は棚に安置し三年の喪で年四回だけ哭く。鉄がなく高麗から調達する。貂が多い。
  • 北室韋は南室韋の北11日、九部落が吐紇山を囲んで住み、渠帥は乞引莫賀咄、各部に莫何弗3人を副える。極寒で雪が馬を没するほど深く、冬は山中の土穴に住み家畜が凍死する。麞鹿が豊富で狩猟を業とし、氷に穴を開けて漁もする。深雪の陥穽を避け木橇で移動、貂を捕り狐貉の帽子・魚皮の衣を用いる。
  • さらに北千里の鉢室韋は胡布山に依り北室韋より人口が多いが部落数不明、樺皮の屋根を用いる他は北室韋と同じ。
  • 鉢室韋から西南4日の深末怛室韋は水名を国号とし、冬は太陰の気を避け穴居する。
  • さらに西北数千里の大室韋は道が険しく言語が通じず、貂や青鼠が特に多い。
  • 北室韋のみ時に朝貢し、他は至らなかった。

史論

  • 史臣曰く、北狄が中国の患いとなって久しく、獯粥(五帝の代)・獫狁(三代)・匈奴(両漢)・烏丸鮮卑(魏晋)・蠕蠕突厥(北魏北周)と、その酋豪が代々君長を継いできた。皆牧畜を業とし侵略を資とし、雲や鳥のように現れては去った。和親を説く廟堂の智謀の士と、辺境で撃退を論じる将とがあったが、その盛衰・向背は常に強弱による。衰えれば頭を下げ、盛んになれば弓を引いて略奪する。信義を顧みない存在として、これまでの史書も詳しく論じてきたためここでは繰り返さない。
  • 蠕蠕の衰退後、突厥が興り木杆可汗の代に朔野を制し、東は東胡の旧境、西は烏孫の地に至り、数十万の兵で代陰に陣し周・斉を圧迫、両国とも抗せず和親を求めた。周と結んで斉を滅ぼし、高祖の受禅後も強大さを恃み侵攻を図ったが、内紛により達頭は逃れ啓民は塞下に帰順した。隋はこれを助けて旧地に戻し衰えた勢力の再興を助けたことで啓民の勢力は強まり、仁寿から始畢の代まで臣礼を欠かなかった。しかし煬帝の統御が道を失い雁門の包囲を招き、群盗の蜂起の中でさらに強盛となり、隋末の群雄も皆突厥に和を求め臣礼を取るという、古来まれな屈辱的状況となった。
  • 唐の太宗が天下を平定した後もなお抵抗を続け亭鄣を破り雲・代を荒らし太原を脅かし涇陽を侵し渭水で馬を飲ませるに至ったが、唐の奇謀により百世にわたり制御できなかった北狄を一挙に滅ぼし、瀚海・龍庭の地を九州に組み込み、辺境の民を戸籍に編入するという、帝王の事績も及ばぬ偉業を成し遂げた。これは天道の盛衰のみならず人事の巧拙による。しかも成果を誇らず所有に固執しない姿は天地の包容力、陰陽の化育の働きに等しく、大道の実践として言葉に尽くせぬものがある。