楊玄感の下での謀略
- 字は法主、真郷公李衍の従孫。祖耀は周邢国公、父寛は名将として柱国・蒲山郡公。籌算に長け文武を兼ね、開皇中父の爵を襲い家産を散じて賢士を養った。楊玄感と刎頸の交わりを結び、後に学問に転じ包愷に『史記』『漢書』を学んだ。
- 楊玄感の挙兵に応じ謀主となり、上計・中計・下計の三策を献じた(上計:薊を衝いて煬帝の帰路を断つ、中計:関中の要害を制する、下計:東都を攻める)が、玄感は下計を採用し密の献策は退けられた。韋福嗣の登用にも密は反対したが容れられず、福嗣は後に東都へ逃亡した。李子雄が玄感に早期の称帝を勧めた際も密は陳勝・魏武の故事を引いて時期尚早と諫めた。西進の際も密の献策(元弘嗣謀反説を用いた欺瞞策)が採られたが、弘農宮攻めを止める諫言は容れられず敗因となった。
流浪と翟譲への合流
- 玄感敗死後、密は関中に潜伏したが密告され投獄、煬帝への護送中、五言詩「金風蕩初節…」を作り自ら計を案じて脱走、諸所を流浪し姓名を変えて教授として身を隠したが露見し再び逃亡、妹婿丘君明を頼るも密告され、君明は連座して死んだ。東郡の賊帥翟譲に身を投じ、殺害の勧めもあったが王伯当の口添えで信任を得た。滎陽攻略・張須陀撃破(伏兵策)を献策し成功、翟譲は李密に独立の指揮権(建牙)を与えた。
魏公即位と洛口・回洛倉の攻防
- 密は翟譲に興洛倉急襲を献策し、大業十三年春、精兵七千で興洛倉を奪取、貧民に開放して食糧を分与し民心を得た。越王侗の討伐軍を破り、翟譲は密を主に推戴、洛口に城を築き「魏公」の号を上(翟譲らの推挙による)、元年と称して房彦藻・邴元真を左右長史等の官属を置いた。裴仁基の帰順、回洛倉の攻防(一時奪取するも東都軍に敗退)、東都軍との激戦を経て回洛倉を再確保した。
- 柴孝和の関中攻略策(西進して長安を制圧する上策)を密は理に適うとしつつ、麾下が山東出身者で西進に従わないことを懸念し実行を見送った結果、東都攻防が長引き、密自身も流矢を受け、回洛倉を再び失う敗北を喫した。柴孝和は洛水で溺死した。
王世充との対峙と翟譲誅殺
- 王世充との対陣中、元宝蔵・李文相・張昇・趙君德・郝孝德らが相次ぎ帰順し黎陽倉を得た。翟譲配下王儒信が翟譲に大冢宰を勧め密の権力を奪おうとし、翟譲の兄寛も「天子は自ら作るもの」と扇動したため、密は翟譲を宴に招き伏兵で謀殺、その兄寛・王儒信も殺害した。徐世勣は乱兵に傷を負ったが密が止めて助命、単雄信らも赦し、翟譲の旧軍を徐世勣・単雄信・王伯当に分統させた。
宇文化及との戦いと世充への敗北
- 王世充の夜襲・浮橋渡河による総攻撃を撃退し数万を斬獲、多くの隋の将が戦死、世充は河陽へ逃走した。密は金墉城に拠り三十余万を擁したが、宇文化及の反乱に際し越王侗から太尉・尚書令等を授かり化及討伐を命じられた。化及との対陣で兵糧の少なさを突いて交戦を避け、退路を断ち、水を隔てて化及を「匈奴の奴隷の出でありながら国恩を受け、主君を弑して簒奪を図った逆賊」と痛罵し、化及は言葉に窮した。倉城攻防・軽騎による攻具焼き討ちを経て化及軍は糧が尽き、密は偽りの和睦で敵を油断させ、童山の戦いで密自身も矢傷を負ったが化及を大敗させた。化及の部将陳智略・張童仁らが帰順、輜重を守っていた王軌も投降し滑州総管に任じられた。しかし東都では王世充が元文都・盧楚を殺して権を奪っており、密は帰還した。
邴元真の裏切りと世充への大敗、大唐への帰順
- 世充は将士を厚遇し士気を高めたが、密の軍は衣食に窮し、糧食交易を巡って邴元真ら諸将の私利により民心が離れた。興洛倉守将邴元真は貪鄙で叛意を抱き、宇文温が密に「元真を殺さねば禍が絶えない」と進言したが密は決断しなかった。世充の総攻撃に際し、裴行儼ら驍将が重傷を負う不利な緒戦の後、世充軍が夜間に渡河し密は不意を突かれ大敗、洛口へ逃れた。世充は偃師を包囲、守将鄭頲が部下に裏切られ降伏。邴元真も洛口倉城を世充に売り渡した。
- 密の軍は離散し、王伯当と共に河陽へ退き「兵敗れた、自刎して謝したい」と述べたが、府掾柳燮の「大唐との旧誼を頼るべき」との説得で衆意が一致し、密は大唐に帰順、邢国公・光禄卿を授けられた。