隋書卷七十 列傳第三十五 裴仁基
出自と隋への出仕
- 河東の人、字は德本。祖伯鳳は周汾州刺史、父定は上儀同。開皇初、親衛として平陳の役で先登の功を挙げ儀同。漢王諒府親信として諒の乱を諫めて投獄されたが、乱後帝に評価され護軍に抜擢。向思多討伐・吐谷渾討伐・靺鞨討伐・遼東従軍で功を重ね光禄大夫。
河南道討捕大使から李密への帰順
- 帝の江都行幸後、河南道討捕大使として武牢で李密を防いだが、張須陀の戦死で軍を吸収、監軍御史蕭懐静との軋轢から懐静を殺し李密に帰順、河東郡公。子裴行儼も驍勇で絳郡公として重用された。
王世充との決戦での献策と虜囚後の謀反
- 王世充が偃師で決戦を挑んだ際、仁基は持久戦(三万の精兵で東都への道を扼え、世充の出撃を誘って疲弊させる策)を献じたが、密は速戦論を採り単雄信らも軽視して戦い大敗、仁基は捕虜となった。世充は裴親子の武勇を重んじ兄の娘を行儼に娶らせ、仁基を礼部尚書、行儼を左輔大将軍とした(行儼は「万人敵」と称された)。しかし世充は行儼の威名を警戒し、仁基は不安から宇文儒童・陳謙・崔徳本らと世充暗殺(越王侗擁立)を謀ったが、張童仁の密告により発覚し一族もろとも殺害された。
史論
史臣曰く(要約)――帝王の興隆は至徳深仁と豊功博利によるものである。周の衰退から隋の興隆にかけ、武元帝・高祖は南朝平定・東夏征服の大功を立て、俊傑を用いて突厥を服し賊を掃った。煬帝は先業を継ぎながら諫言を拒み艱難を忘れ、運河開削・馳道建設等で民力を尽くさせ、遠征を重ねて猛将を疎み忠良を忌み、功ある者を隠戮し、畏懦の者を処罰するなど信賞必罰を失った。山東の群盗は本来陳勝・張角のような野心なき者たちで、上の貪欲と下の困窮から起こったものだが、豪傑がこれに乗じ攻略した。 開皇の盛時と大業の乱世を比べれば、国土・戸口・兵力・倉廩の差はわずかで、地の険も遼隧は長江に及ばず、高麗も陳に及ばないにも関わらず、高祖は江南を平定し天下を清め、煬帝は遼東で天下を失った。その差は「用いた心の異なり」にある。高祖は民を安んじる心で労し、煬帝は淫放と虐用で民を苦しめた。隋の得失は秦に酷似し、始皇と高祖、二世と煬帝がそれぞれ対応し、共に群盗に禍根を発し匹夫の手に身を滅ぼした。楊玄感は宰相の子として国恩を受けながら伊尹・霍光の名を借りて王莽・董卓の野心を抱き、身を滅ぼしたのは当然である。李密は風雲に乗じて才を発揮し、宇文化及を破り王世充を退け一時は威名を天下に轟かせたが、性格が軽率狡猾で最後は滅び、陳勝・項羽の亜流というべき器量だった。