隋書卷六十六 列傳第三十一 李諤

北斉から高祖への出仕

李諤、字は士恢。趙郡の人。学を好み文章に長け、北斉で中書舍人として陳使への応対に口弁を発揮した。北周武帝の平斉後、天官都上士。高祖の非凡さを見抜き深く結んだ。高祖丞相時代、兵革頻発による国用の欠乏を憂い『重穀論』を上って諫め、深く納れられた。受禅後、比部・考功侍郎、南和伯。治書侍御史として、高祖から「かつて大司馬として外職を求めた朕を、諤が十二策で苦諫し留めたのは諤の力」と評され物2千段を賜った。

礼教頽廃と文風軽薄化への上奏

公卿の死後に愛妾を子孫が売り払う風潮を憂い、三年の喪の道理を説く上書をなし、高祖に嘉納され五品以上の妻妾の改嫁禁止の制が始まった。また文章の軽薄な風潮を憂い、魏の三祖以来の文華偏重・実質軽視の流れを批判、隋朝が実録を尊ぶ詔(開皇4年)を出し泗州刺史司馬幼之を処罰した経緯を評価しつつ、なお地方に旧弊が残るとして糾察の強化を求めた。さらに官吏の自己顕示・矜伐の風を戒める上奏もなし、刺史が朝覲の場で自己の功を誇る風潮を糾弾した。これら諤の奏は天下に頒布され大きな効果があった。

邸店存廃の建言と晩年

在職数年、大体を保ち厳猛を尚ばず剛謇の誉れはなかったが多くを匡正した。蘇威が街道沿いの旅籠を利を求める者として農業に戻させ市籍に編入させようとした際、諤は別使として現地を見て「旅人の宿は古来商店と同列に扱うべきでない」として独断でこれを覆し、事後に上奏、高祖は「体国の臣とはこうあるべき」と称賛した。老齢により通州刺史に転じ善政を敷き、3年後に卒去。子は4人、大体・大鈞は共に尚書郎、世子の大方は最も才があり大業初に内史舍人を判じたが、帝が重用しようとした矢先に卒去した。