隋書卷六十五 列傳第三十 趙才
出自と晋王への出仕
趙才、字は孝才。張掖酒泉の人。粗悍で威儀に乏しいが驍武。北周で輿正上士、高祖受禅後は軍功で上儀同三司、晋王配下となり太子になると右虞候率。煬帝即位後、左備身驃騎、右驍衛将軍として親愛を受け、公卿の妻子の違禁を遠慮なく罵るなど剛直で知られた。吐谷渾討伐、遼東の役でも功を挙げ右候衛大将軍に進んだ。
帝への諫言と江都の変
帝の東都留守を務めた後、大業12年、帝の江都行幸に際し天下瓦解の危機を憂い「還京を」と死を賭して諫めたが帝の怒りを買い一時収監、後に赦された。江都で虞世基が渡江(丹陽行幸)を勧める中、才は帰京を主張し世基と激しく対立した。宇文化及の弑逆の際、才は詔に応じて出頭したところ捕らえられ、化及に「今日の事はやむを得ぬ」と告げられても沈黙を貫き、化及の怒りを買い一時殺されかけたが3日で釈放され、鬱々とした日々を送った。化及の宴席で謀反の一味18人に酒を勧めた際「この行いは一度限りにせよ」と皮肉を述べ一同を黙らせた。聊城で発病し、化及が竇建德に敗れる中、心晴れぬまま73歳で卒去した。
仁壽・大業年間には蘭興浴・賀蘭蕃も武候将軍として剛厳正直で強きを恐れず称職の名を得た。
史論
史臣曰く、周羅睺・周法尚・李景・薛世雄・慕容三藏はいずれも驍武の資質で乱世に富貴を致した、自ら勝ち取ったものである。王仁恭は当初汲郡で清廉有能と称されたが後に馬邑では貪吝で身を滅ぼし、善き終わりを得られなかったのは惜しい。吐萬緒・董純は各々功を立てて高位を得たが、緒は休兵を求めて咎められ、純は讒言により誅殺された。大業末の乱世で、非道の刑罰は免れ得ぬところであったか。趙才は容儀こそ欠くが志は剛直で、虞世基の議に断固反対したのは付和雷同せぬ士と言えよう。權武は元来素行に問題があり刑憲を軽んじ、ついに黜辱を招いたのも当然であろう。