隋書卷六十四 列傳第二十九 麥鐵杖
陳末の盗賊から隋への帰順
麥鐵杖、始興の人。驍勇で膂力に優れ一日五百里を走り奔馬に及んだ。陳の太建中、群盗を結んで広州刺史歐陽頠に捕らえられ官戸となり執傘の任に就いたが、夜な夜な百里余先の南徐州まで走り強盗を働き朝には執傘に戻るという二重生活を10余度重ね、露見しかけたが尚書蔡徵の計略で証拠を掴まれても帝はその勇捷を惜しんで赦した。陳滅亡後、清流県に移住、江東の反乱の際は楊素の命で敵情偵察を行い、二度目の潜入で捕らえられたが護送中に護送兵を斬り殺し鼻を切り取って持ち帰った。楊素はこれを奇として重用したが論功に漏れたため素の駅伝を徒歩で追いかけ夜毎同宿する執念を見せ、素は感じ入り儀同三司を奏授した。無学のため一旦帰郷したが成陽公李徹の推薦で開皇16年に召還され車騎将軍、楊素の突厥北征に従い上開府。煬帝即位後、漢王諒の乱でも楊素に従い常に先登を務め柱国、萊州刺史、汝南太守として法令に習熟し群盗を鎮めた。考功郎竇威の「麦は何の姓か」との嘲りに「麦豆は変わらぬ、何を怪しむ」と応じ機知を称された。右屯衛大将軍に進み帝の信頼はさらに深まった。
遼東の役での戦死
帝の厚恩に応えようと遼東の役では先鋒を志願し、医者に「大丈夫は児女の手の中で臥死すべきでない」と語り、渡遼に際し三子に「わしは今日死ぬ、お前たちは富貴になるが誠と孝を忘れるな」と告げた。橋が未完成のまま岸に跳び移り戦って戦死、武賁郎将の錢士雄・孟金叉も殉じた。帝は涙し遺骸を求めて光禄大夫・宿国公を追贈、諡は武烈。子の孟才が嗣ぎ光禄大夫を拝命、弟の仲才・季才も正議大夫を拝命した。賵贈は巨万、轀輬車・鼓吹を賜り、平壌道の敗将宇文述ら百余人が執紼を務めた。錢士雄は左光禄大夫・右屯衛将軍・武強侯(諡は剛、子傑が嗣ぐ)、孟金叉は右光禄大夫(子善誼が襲官)を追贈された。
麥孟才――宇文化及への復仇と戦死
孟才、字は智稜。父の風がある果烈な人物で武賁郎将を拝命。江都の変の際、友人の錢傑(士雄の子)と共に「世々国恩を受けながら賊臣の弑逆を見過ごしては生きる面目がない」と語り、宇文化及を顕福宮で襲撃する謀を企てたが、陳籓の子謙の密告により発覚し、同志の沈光と共に化及に殺害された。忠義の士は皆哀しんだ。