隋書卷六十二 列傳第二十七 元巖
北周での剛直
元巖、字は君山。河南洛陽の人。父の禎は魏の敷州刺史。巖は読書を好み章句にこだわらず剛毅な器量を持ち、渤海の高熲・太原の王韶と友誼を結んだ。北周に仕え宣威将軍・武賁給事から大冢宰宇文護に見出され中外記室、累進して内史中大夫・昌国県伯。宣帝の暴政を京兆郡丞楽運が棺を担いで諌死覚悟で訴えた際、巖は「これを見捨てれば比干に等しい仁義に反する」と述べ帝に直諫、楽運は死を免れた。帝が烏丸軌を誅殺しようとした際も、禦正顏之儀の諫めに続き三拝三進して諫めたため帝の怒りを買い、顔を殴られ免官となった。
隋朝での剛直と益州総管長史
高祖の丞相時代、開府・民部中大夫に進み、受禅後は兵部尚書・平昌郡公。厳格な性格で奏議は常に正論を貫き、高祖以下皆敬憚した。高祖は諸侯の勢力分散を反省し晋王広を并州、蜀王秀を益州に鎮守させ、両王が幼いため賢良な補佐を選び、巖と王韶の骨鯁を高熲に並ぶと評した。巖は益州総管長史となり法令を厳正に施行した。蜀王秀が獠人を宦官にしようとしたり死囚の胆を薬に使おうとした際は巖が切諫して止めさせ、蜀中の訴訟裁断は民に悦服された。開皇13年、任地で卒去、益州の父老は皆哀しんだ。巖の死後、蜀王秀は非法を重ね、天子を模した渾天儀・司南車・記里鼓を造り、妃と共に人を弾で撃つ狩猟をし山獠を捕らえて宦者とした。秀が罪を得ると高祖は「元巖が在れば我が子はこうならなかった」と嘆いた。子の弘は給事郎・司朝謁者・北平通守を歴任。