隋書卷五十八 列傳第二十三 李文博

出自と学識

  • 博陵の李文博は貞介剛直な性格で学を好み倦むことがなく、とりわけ教義・名理に心を留めた。書を読んで治乱得失・忠臣列士の事跡に至るたび、必ず繰り返し吟味した。開皇中、羽騎尉となり、吏部侍郎の薛道衡に特に知られ、常に庁事の帷の中で書史を検討させ、あわせて自らの行いを省みさせた。善政の事例に出会えば書き留め、選用に誤りがあれば臧否(善悪)を論じさせた。道衡はその言葉を聞くたびに喜んで従った。
  • のち秘書内省に直し典籍の校訂を司り、道を守り貧に安んじて泰然としていた。衣食に窮しても清操はいよいよ厳しく、みだりに賓客と交わらず礼法をもって自らを処し、同輩は皆敬い憚った。道衡はその貧しさを知り常に自宅に招いて資費を給した。文博は古今の政治の得失を論ずるに掌を指すが如く精通していたが、実務の才には欠けていた。校書郎に遷ったが、のち県丞に出て下位の考課を受け数年不遇であった。
  • 道衡が司隸大夫となった時、東都尚書省で文博に再会し大いに憐れみ従事に推挙した。斉王司馬の李綱に「今日ようやく文博に会えた、推挙できることになった」と歓びを語ったという。その評価と親交ぶりはこのようなものであった。
  • 洛陽にいた頃、房玄齢を訪ねた際、玄齢は道すがら「あなたの生涯の志は正直であることのみにある、今従事となれたのだから初志に適う機会もあるでしょう。近頃、濁を抑え清を挙げること、どれほど成し得ましたか」と問うた。文博は腕をふるい声を強めて「その流れを清くしようとする者は必ずその源を潔くすべきだ、その末を正そうとする者は必ずその本を正しくすべきだ。今、政の源が混乱しているなら、たとえ日々十人の貪欲な郡守を免じても何の益があろうか」と答えた。その率直さと悪を憎む姿勢に忌憚がないことはこの類であった。当時朝政は次第に乱れ賄賂が横行していたが、文博だけはその操を変えず、論者はこれによって彼を貴んだ。乱世に遭って各地を転々とし、その後の消息は分からない。

逸話

  • かつて文博が秘書内省で校書していた折、虞世基の子も同じ場にいたが盛んに容姿を飾っていたのに何も咎めなかった。文博はさりげなくその年齢を尋ねると「十八です」と答えたので、文博は「昔、賈誼はこの年齢で何を論じていたか、君は今ただ容姿ばかりに気を配っている、いったい何をしているのか」と諭した。
  • また秦孝王の妃が男児を産んだ際、高祖は大いに喜び群官にそれぞれ賜物をした。文博の家計はしばしば窮乏していたが、人が喜ぶかと問うと「賞罰は功過に基づくべきものだ、今回、王妃が男児を産んだことが群官に何の関係があるというのか、みだりに賞を受けるとは」と述べた。名を循い実を求め過ちを記録し功を計算し、必ず賞罰を濫らさず功過を隠さないようにする姿勢はいずれもこの類であった。文博はもと経学を修めたがのちに史書を読み、諸子や論についても深く精通した。議論を好み文も能くし、『治道集』十巻を著し当時大いに流布した。

史論

  • 明克讓・魏澹らは、あるいは博学洽聞、あるいは詞藻豊麗であり、燕趙の俊才、東南の美才と称された。それぞれが赴いた地で重んじられ禄位を得たが、いずれも天寿を全うしたわけではないとはいえ、そこには道が備わっていたと言うべきである。魏澹の『魏書』は当時簡正と称され条例は詳密で後世に伝わるに足る。この他の諸子もそれぞれ著述を残し、その道の大小はあれ皆立言の志を抱いていた、美しいことである。