隋書卷五十八 列傳第二十三 明克讓

出自と梁・北周での経歴

  • 明克讓、字は弘道、平原鬲の人。父の明山賓は梁の侍中。克讓は若くして儒学を好み談論に優れ、書史を博く渉猟しその蔵書は一万巻に及んだ。『三礼』の礼論に特に精通し、亀策(占い)や暦象の術にも通じた。
  • 十四歳で湘東王の法曹参軍として出仕。舎人の朱異が儀賢堂で『老子』を講じた際、克讓もこれに参席した。堂のそばの修竹を詠むよう命じられると、克讓は筆を執ってたちまち作り、その末章に「君の愛賞多きにあらずんば、誰かこの貞心を貴ばん」と詠み、異は大いにこれを奇とした。
  • 司徒祭酒・尚書都官郎中・散騎侍郎を歴任し、国子博士・中書侍郎を兼ねた。梁が滅ぶと長安に帰り、周の明帝に麟趾殿学士として引き立てられ、まもなく著作上士を授かり外史下大夫に転じ、衛王友に出て漢東・南陳の二郡守を歴任した。武帝即位後、再び露門学士に召され太史官属と共に新暦の正定に当たった。儀同三司を拝し司調大夫に累遷、暦城県伯(食邑五百戸)を賜った。

高祖への出仕と太子の師傅

  • 高祖受禅後、太子内舎人を拝し率更令に転じ侯に進爵した。太子は師の礼をもって遇し恩礼は甚だ厚かった。四方の珍味があるたびに賜ったという。当時東宮は天下の才学の士を盛んに集めていたが、博物洽聞の点では克讓に及ぶ者はいなかった。詔により太常の牛弘らと礼を修め楽を議し、当朝の典故を多く裁正した。
  • 開皇十四年(594年)、病により去官し通直散騎常侍を加えられた。卒した。時に七十歳。上は大いに傷み惜しみ賻物五百段・米三百石を賜り、太子もまた絹布二千匹・銭十万・朝服一具を贈り棺槨を給した。『孝経義疏』一部、『古今帝代記』一巻、『文類』四巻、『続名僧記』一巻、文集二十巻を著した。子の明餘慶は司門郎に至り、越王楊侗の東都即位に際しては国子祭酒となった。