隋書卷五十六 列傳第二十一 楊汪

出自と北周での経歴

  • 楊汪、字は元度、もと弘農華陰の人、曾祖父の楊順が河東に移り住んだ。父の楊琛は儀同三司、汪が貴顕になると平郷県公を追贈された。汪は若い頃粗暴で人と群がって争い、殴った相手は皆倒れたという。成長すると節を折って勤学し『左氏伝』を専精し『三礼』にも通じた。
  • 周の冀王の侍読として出仕し、王は大いに重んじ「楊侍読は徳業優れて深い、私の穆生(前漢の楚元王が礼遇した儒者)だ」と常に語った。のち『礼』を沈重に、『漢書』を劉臻に学び、二人はこれを推挙して「私は及ばない」と評した。これにより名を知られ夏官府都上士に累遷。
  • 高祖が丞相にあった折、兵事に通じることから引き立てられ掌朝下大夫に遷った。高祖受禅後、平郷県伯(食邑二百戸)を賜り、尚書司勲・兵部二曹侍郎、秦州総管長史を歴任し明幹と称された。尚書左丞に遷ったが事に坐して免官された。のち荊州・洛州の二州長史を歴任し、政務の合間には必ず生徒を延いて講義し、当時の人々に称賛された。

尚書左丞から大理卿へ

  • 数年後、高祖は諫議大夫王達に「私のために良い左丞を探してくれ」と言うと、達は密かに汪に「私が君を左丞に推薦しよう、事が果たせたら良田で報いてくれ」と語った。汪は達の言葉を上奏し、達はついに罪に問われ、汪がついに尚書左丞に拝された。汪は法令に明るく判断に果断で、当時称職と評された。
  • 煬帝即位後、大理卿を守った。汪が就任二日目、帝が自ら囚人を視察しようとしたところ、当時囚人は二百余人あったが、汪は徹夜で審理し朝には上奏し、事情を尽くし一つも遺漏がなく、帝は大いにこれを嘉した。
  • 一年余りで国子祭酒を拝し、帝は百僚に学問を修めさせ汪と論議させると、天下の通儒碩学が多く集まり議論が活発に交わされたが、誰も汪を屈服させられなかった。帝は御史にその問答を記録させ奏上させると、これを見て大いに喜び良馬一匹を賜った。
  • 大業中、銀青光禄大夫となった。楊玄感が河南で反した際、賛治の裴弘策が出師して防いだが戦は不利で、弘策が戻る途中汪と会い人払いをして語り合った。まもなく留守の樊子蓋が弘策を斬りその事情を汪の状況として上奏したため、帝は汪を疑い梁郡通守に出した。のち李密が東都に迫ると、その徒がたびたび梁郡を侵したが汪は兵を整えてこれを拒みたびたびその鋭鋒を挫いた。
  • 煬帝が崩じると王世充は越王楊侗を主に推し、汪は吏部尚書に召され大いに親任された。世充が僭号すると汪は再び用いられたが、世充が平定されると凶党として誅殺された。

史論

  • 盧愷の諫言は称するに値し、令狐熙は赴任地ごとに治績を挙げ、薛胄は法の執行が公平であり、宇文弼は声望を集め、張衡は正直さで名を立て、楊汪は学業を自負した。しかしいずれも善き始まりを持ちながら善き終わりを全うできる者は少なく、九仞の基もひとつまみの土のために傾いた、惜しいことである。忠は美徳であるが、施す相手を誤ればなお不可であるのに、まして邪な道に身を委ね、しかも相手を誤った場合はなおさらである。ことわざに「権力の首謀とはなるな、その咎を受けるだろう」と言い、また「禍の始まりとなるな、乱を招くな」とも言う。張衡はすでに乱の源を招き実に権力の首謀となった、その行いが道に順わなければ、その報いがこの結果に及ばぬはずがあろうか。