隋書卷五十六 列傳第二十一 盧愷

盧愷、字は長仁、涿郡范陽の人(生没年不明)。北周から隋にかけ吏部の要職を歴任し、開皇八年(588年)には高祖の百僚考課で上位とされ礼部尚書・吏部尚書事を摂した。蘇威の事件に連座して除名され、まもなく没した。

年表(5件)

出自と北周での経歴

  • 盧愷、字は長仁、涿郡范陽の人。父の盧柔は魏の中書監で終えた。愷は孝友な性格で聡明、書記にやや通じ文章も能くした。周の斉王宇文憲に記室として引き立てられ、容城伯(食邑千百戸)を襲爵。憲の斉討伐に従い柏杜鎮を説いて陥落させ、小吏部大夫に遷り食邑七百戸を加えられた。
  • 染工上士の王神歓という者が賄賂で自ら進み塚宰宇文護に計部下大夫に抜擢された際、愷は「昔、高きに登り賦をよくする者は大夫となれた、賢を求め官を審らかにするには慎重を要する。神歓は染工の出で特別な功もないのに、家の富だけで搢紳と並ぶのは、外国に鵜(無能な者の登用)の誹りを招くことを恐れる」と諫め、護はついにこの人事を取りやめた。
  • 建德中、食邑二百戸を加えられ、一年余りで内史下大夫に転じた。武帝が雲陽宮にいた折、諸屯に老いた牛を選んで士に食べさせようとしたところ、愷は「昔、田子方は老馬を贖った、君子はこれを美談とした。老牛を士に食べさせては仁政に欠ける」と諫め、帝はこれを美とし取りやめた。
  • 礼部大夫に転じ聘陳(陳への使者)の副使となった。それまで使者は多くその国の礼に従っていたが、愷が使者となると本朝の礼を貫き、陳人はこれを屈服させることができなかった。
  • 建德四年(575年)秋、李穆が軹関・柏崖の二鎮を攻め落とすと、愷に露布(戦勝文)を書かせ、帝は読んで大いに喜び「盧愷の文章は大いに進んだ、荀景倩(荀勗)は確かに賢明な君主の子だ」と述べた。まもなく襄州総管司録を授かり治中に転じた。

高祖への出仕と栄達

  • 大象元年(579年)、東京吏部大夫に召された。開皇初め、上儀同三司を加えられ尚書吏部侍郎を拝し侯に進爵、尚書左丞を摂した。上奏のたびに毅然として正色を保ち、喜怒に際してもその態度を変えなかった。帝は愷の吏才を嘉し銭二十万・雑彩三百匹を賜り散騎常侍を加えた。
  • 開皇八年(588年)、上が自ら百僚を考課した際、愷を上位とした。愷は固く辞退したが、高祖は「吏部での勤勉さは前々から聞いている、今回の上位評価は衆議の一致するところ、仁に当たれば譲らずともよい、何を恥じることがあろう。すべて朕の心にある、飾って謙譲する必要はない」と述べた。一年余りで礼部尚書を拝し吏部尚書事を摂した。

蘇威事件による失脚

  • 国子博士の何妥と右僕射蘇威が不和になり、妥は威の陰事を上奏した。愷はこれに連座し上は愷を吏に付した。憲司は愷を「房恭懿は尉遅迥の党であり仕進すべきではないのに、蘇威と愷の二人は不当に推薦し海州刺史にまで累転させた。また吏部の選に預かる者は甚だ多いが、愷はすぐに官を授けず注色(保留)して遣った。威の従父弟の蘇徹・蘇粛の二人は共に郷正として吏部に召されたが、徹は文状が後に到着したのに先に任用され、粛は左足が不自由で才用もないのに、愷は威との縁故で朝請郎を授けた。愷の朋党ぶりは甚だ明白である」と弾劾した。
  • 上は大いに怒り「愷はよくも天官(吏部)を私恩に使ったな」と言うと、愷は冠を脱ぎ頓首して「皇太子は通事舎人の蘇夔を舎人にしようとされましたが、夔はまさに蘇威の子であり、臣はまだ昇進すべきでないと考え固く諫めて止めさせました。臣がもし威と私情があるならどうしてそのようなことをしましょうか」と答えた。上は「蘇威の子であることは朝廷は皆知っている、それなのにそなたは固執してこれを自らの幸いにしようとした。知らぬところではすぐに朋党を組む、これは奸臣の行いだ」と述べ、愷は除名され庶民となった。まもなく家で卒した。
  • 周氏以来、選任には清濁の区別がなかったが、愷が吏部を摂すると薛道衡・陸彦師らと士流を甄別しようとしたため、党を組んでいるとの讒言に遭い、これに及んだのであった。子の盧義恭が跡を継いだ。