出自と北周での経歴
- 和洪、汝南の人。若くして武力があり勇烈で人に勝った。周の武帝の時、度々征伐に従い戦功を重ね車騎大将軍・儀同三司に累遷。龍州の蛮の任公忻・李国立らが乱をなし刺史独孤善が抑えられずにいたため、朝議は洪の武略を評価し善に代えて刺史とした。一月余りで公忻・国立を捕らえて斬首し晒し首とし、残党もことごとく平らげた。帝の河陰攻めに従い洪は力戦しその西門を陥落させ、帝はこれを壮として物千段を賞した。
- また帝の斉平定に従い上儀同に進み北平侯(食邑八百戸)に封じられ左勲曹下大夫を拝した。柱国王軌が呉明徹を捕らえた際にも洪は功があり開府を加えられ折衝中大夫に遷った。
高祖への出仕と晩年
- 尉迥が相州で反乱すると洪は行軍総管として韋孝寛に従い討伐した。軍が河陽に至ると迥が兵を発して懷州を囲んだが、洪は総管の宇文述らと共に撃退した。また尉惇を武陟で破った。相州平定にあたり戦うごとに功があり柱国を拝し広武郡公(食邑二千戸)に封じられ、前後に物万段・奴婢五十口・金銀各百挺・牛馬百匹を賜った。
- 当時東夏(山東)は平定されたばかりで人心はなお不安定であったため、高祖は洪の威名により冀州の事を領させ人心を大いに得た。数年後、入朝を召され漕渠総管監となり泗州刺史に転じた。突厥が辺境を犯すと詔により北道行軍総管となり虜を撃退し磧まで至り帰還した。のち徐州総管に遷り卒した。時に六十四歳。