隋書卷五十五 列傳第二十 高勱

高勱、字は敬徳、渤海蓚の人(生没年不明、五十六歳で没)、斉の太尉高嶽の子。北斉滅亡時には最後まで忠節を尽くし、隋に仕えてからは開皇七年(587年)陳を取る五策を上表、平陳の役でも功を立てた。のち洮州刺史として隴右統治にあたるも晩年に免官された。

年表(6件)

出自と北斉滅亡時の忠節

  • 高勱、字は敬徳、渤海蓚の人、斉の太尉・清河王高嶽の子。幼くして聡敏、風儀は美しく仁孝で聞こえ、斉の顕祖に愛された。七歳で清河王を襲爵。十四歳で青州刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し楽安王に改封された。剛直な性格で才幹があり当時の人々に重んじられた。斛律明月は彼を深く敬い、征伐のたびに副将とした。侍中・尚書右僕射に遷った。
  • 後主が周軍に敗れると勱は太后を奉じて鄴に帰った。当時宦官が放縦を極め儀同の苟子溢が寵幸を得ていたが、勱はこれを斬ろうとした。太后が救ったため釈放された。劉文殊がひそかに勱に「子溢の徒は言葉一つで禍福を左右する、なぜそのようなことをするのか」と言うと、勱は袖を振って「今、西の敵が日々侵し朝廷の貴人が多く叛くのは、この輩が権を弄び衣冠(士大夫)を解体させたからだ。もし今日彼を殺し明日誅されようとも恨みはない」と答えた。文殊は大いに恥じた。
  • 鄴に至ると勱は後主に「五品以上の家族を三台の上に置き『戦に勝たねば焼く』と脅せば、彼らは妻子を惜しんで必ず死戦する、これで賊を破れます」と勧めたが後主は従わず鄴を捨てて東へ逃げた。勱は殿(しんがり)を務め周軍に捕らえられた。武帝が会って語ると大いに喜び、斉が滅んだ理由を尋ねた。勱は涙を流しながら語り悲しみに堪えられず、帝もまた顔色を変えたという。開府儀同三司を授かった。

高祖への出仕

  • 高祖が丞相の時、勱に「斉が亡んだのは邪佞を任用したからだ。公父子は忠良であると近隣の国々でも聞こえている、自愛せよ」と言うと、勱は再拝して「私は亡斉末の身、代々恩栄を受けながら危を扶け傾きを定めることができず滅亡を招きました。すでに宥しを得たこと自体すでに過分な恩幸、まして官位を得て官謗を招くとは」と謝した。高祖は大いにこれを重んじ揚州事を検校させ、のち楚州刺史を拝すると民はこれに安んじた。
  • 先立って城北に伍子胥廟があり土地の風俗として鬼を敬い、供物には牛と酒を用い破産する者もいた。勱は「子胥は賢者だ、どうして百姓を損なうことを望もうか」と嘆き、部下に告諭してこの風習を止めさせ百姓はこれに助けられた。

対陳献策と平陳

  • 開皇七年(587年)、光州刺史に転じ、陳を取る五策を上奏し、さらに「凶を夷し暴を翦るのは王者の懋功、乱を取り亡を侮るのは往賢の雅誥です。苗民が命に逆らったため両階の舞(文徳による感化)が興り、有扈が服さなかったため六師の伐が召されました。皆、天下を安んじ群生を救うためです。晋氏が失馭してより天網は絶ち群凶が蜂起し三方が鼎立するに至りました。陳氏はその機に乗じ細微より起こり、頊(陳霸先)は長蛇の如く呉会に割拠し、叔宝(陳後主)は昏虐を恣にして金陵に害毒を流しました。近年ますます荒淫が甚だしく、牝鶏(皇后・寵妃)が朝を司り姦回を近づけ、造営の役夫は骸骨を積み、辺境の防守は三年に及ぶ長戍となっています。あるいは微行して王侯の邸に耽り、あるいは駿馬を馳せて路頭に転落し、功ある者に賞なく無辜の者が誅を受け、烽火の警報が日々発せられても憂えず、淫楽は限りを知りません。天が乱徳を厭い妖異が人事に興り、空中に大声が響き、道々で鬼怪が伝えられ、人の肝を刳って天狗を祀り、あるいは自らの身を捨てて妖訛を鎮めようとする者もいます。民も神も怨憤し災異が相次いでいます、天時人事は明らかです。臣は庸才ながら朝寄を受け籓任を歴任し陳と隣接して動静を知っています、天が有罪を討つのはまさに今です。もし戎車が雷のごとく動き戈船が電のごとく進むなら、臣は驚くほどの力はなくとも鷹犬の働きを効したく存じます」と上表した。高祖はこの表を嘉して優詔で応えた。大挙して陳を討つ際、勱は行軍総管となり宜陽公王世積に従い陳の江州を下し、功により上開府を拝し物三千段を賜った。

隴右統治と晩年

  • 隴右の諸羌がたびたび寇乱を起こしたため朝廷は勱の威名により洮州刺史を拝させた。赴任すると威恵を大いに崇め民夷は悦び帰服し、山谷間の羌が相次いで府に詣で拝謁し前後に至る者は数千戸に及んだ。豪猾は姿を消し道に落し物を拾う者もなく、在職数年にわたり治理と称された。のち吐谷渾の来寇に遭い勱は病のため戦えず、賊は大いに略奪して去った。憲司は勱が戸口を失ったこと、また羌から贈り物を受けたことを奏上し免官された。のち家で卒した。時に五十六歳。子の高士廉は最も名を知られた。