隋書卷五十五 列傳第二十 杜彥

出自と北周での経歴

  • 杜彦、雲中の人。父の杜遷は葛栄の乱に遭い一家で幽州に移った。彦は勇果な性格で騎射に優れた。周に仕え左侍上士として出仕、のち柱国陸通に従い陳将呉明徹を土州で撃破した。また叛蛮を撃ち倉塠・白楊の二柵を落としその渠帥を斬った。郢州の賊帥樊志を平定した功で大都督を拝した。まもなく儀同に遷り隆山郡事を治めた。翌年、隴州刺史を拝し永安県伯に封じられた。

高祖への出仕と平陳・平南

  • 高祖が丞相の時、韋孝寛に従い尉迥を相州で撃ち戦うごとに功があり物三千段・奴婢三十口を賜り上開府に進み襄武県侯に改封、魏郡太守を拝した。開皇初め丹州刺史を授かり公に進爵。六年後、左武衛将軍に召された。
  • 平陳の役では行軍総管として新義公韓擒(韓擒虎)と共に進軍した。軍が南陵に至ると賊が江岸に屯していたため彦は儀同の樊子蓋に精兵を率いて柵を撃破させ船六百余艘を得た。渡江して南陵城を撃ち抜き守将の許翼を捕らえた。新林に進んで擒虎の軍と合流した。陳平定後、物五千段・粟六千石を賜り柱国に進み子の杜宝安に昌陽県公の爵位が賜られた。
  • 高智慧らの乱に際しても行軍総管として楊素に従い討伐、別に江州の囲みを解いた。智慧の余党が渓洞に屯集する中、彦は水陸両面から進み錦山・陽父・若・石壁の四洞を攻め平定しことごとくその渠帥を斬った。賊の李陀が数千の衆を擁して彭山に拠っていたが彦はこれを襲撃し陀を斬りその首を伝えた。さらに徐州・宜豊の二洞を撃ち平定した。奴婢百余口を賜り洪州総管を拝し治績で知られた。

雲州総管としての晩年

  • 一年余り後、雲州総管の賀婁子幹が卒すると上は長く悼み惜しみ侍臣に「榆林は国の重鎮だが、子幹のような人材がまた得られようか」と言った。数日後、上は「私が榆林を鎮めるにふさわしいと思うのは杜彦をおいて他にない」と述べ、雲州総管を拝させた。突厥が来寇するたび彦はこれを捕らえ斬り、北夷は恐れ胡馬は塞に近づかなくなった。
  • 数年後、朝廷は再び前功を追録し子の杜宝虔に承県公の爵位を賜った。開皇十八年(598年)、遼東の役では行軍総管として漢王(楊諒)に従い営州へ至った。上は彦が軍旅に習熟していることから五十営の事を総統させた。帰還後、朔州総管を拝した。突厥が再び雲州を侵すと上は楊素に撃退させたが、以後も辺患を恐れ彦がかねて突厥に恐れられていたことから再び雲州総管を拝させた。まもなく病により召還され卒した。時に六十歳。子の杜宝虔は大業末に文城郡丞となった。