出自と北周での経歴
- 李衍、字は抜豆、遼東襄平の人。父の李弼は周の太師。衍は若くして武芸に専心し慷慨として志略があった。周の太祖の時、千牛備身として出仕し懷仁県公に封じられた。開府を加え普寧県公に改封、義州刺史に遷った。
- まもなく韋孝寛に従い玉璧城を鎮め、たびたび賊と戦い敵に恐れられた。斉平定の功により大将軍に進み真郷郡公に改封、左宮伯を拝し雑彩三百匹・奴婢二十口を賜り、子の李仲威に浮陽郡公の爵位が賜られた。のち定州・鄜州の刺史を歴任。
高祖への出仕と晩年
- 王謙の乱に際し、高祖は衍を行軍総管とし梁睿に従わせ平定させた。上大将軍に進み縑二千匹を賜った。開皇元年(581年)、さらに行軍総管として叛蛮を討平し柱国に進み帛二千匹を賜った。まもなく利州総管事を検校した。翌年、突厥が塞を犯すと行軍総管として討伐に赴いたが虜に遭わず帰還した。介州刺史に転じた。
- のち数年、朝廷が江南への出兵を計画すると衍に襄州道での戦船建造を詔した。大挙して陳を討つ際は行軍総管を授かり秦王楊俊に従い襄陽道から出て功により帛三千匹・米六百石を賜った。安州総管を拝し善政を敷いたが一年余りで病により京師へ帰り、家で卒した。時に五十七歳。子の李仲威が跡を継いだ。
李衍の甥・李長雅
- 衍の弟の子・李長雅は高祖の娘の襄国公主を娶り、父李綸の爵を襲って河陽郡公となった。開皇初め、将軍・散騎常侍を拝し、内史侍郎・河州刺史・検校秦州総管を歴任した。
- 衍の従孫・李密は別に伝がある。