隋書卷五十三 列傳第十八 達奚長儒
達奚長儒、字は富仁、代の人(生没年不明)。北周から隋にかけ武将として活躍し、開皇二年(582年)の周槃の戦いでは寡兵二千で突厥十余万と三日間の死闘を演じて撃退し上柱国に進んだ。晩年は荊州総管として赴任地で卒した。
出自と北周での経歴
- 達奚長儒、字は富仁、代の人。祖父の達奚俟は魏の定州刺史、父の達奚慶は驃騎大将軍・儀同三司。
- 長儒は若くして節操を持ち胆力は人に勝った。十五歳で楽安公を襲爵。魏の大統年間、奉車都尉として出仕。周の太祖に親信として引き立てられ、質直恭勤により子都督を授かった。戦功を重ね輔国将軍を仮に授かり、使持節・撫軍将軍・通直散騎常侍に累遷。蜀平定の役では常に先鋒を務め攻城野戦で必ず勝利した。車騎大将軍・儀同三司を授かり食邑三百戸を加えられた。
- 天和中、渭南郡守を授かり驃騎大将軍・開府儀同三司に昇る。武帝の斉平定に従い上開府に遷り成安郡公(食邑千二百戸)に進爵、一子を別封して県公とした。
- 宣政元年(578年)、左前軍勇猛中大夫を授かった。烏丸軌と共に陳将呉明徹を呂梁で囲んだ際、陳が驍将劉景に精兵七千を率いて後詰めさせたが、軌は長儒にこれを迎え撃たせた。長儒は車輪数百を大石で沈めて水中に連ね、劉景の軍を待った。劉景が至ると船は輪に阻まれ進めなくなり、長儒は水陸両面から奇兵を出して大破し数千人を捕虜にした。呉明徹を捕らえた功により大将軍に進んだ。まもなく行軍総管を授かり北方の砂漠を巡り虜と遭遇して大破した。
高祖への出仕
- 高祖が丞相となると、王謙が蜀で挙兵し沙氐の上柱国楊永安が利・興・武・文・沙・龍の六州を煽動してこれに応じたため、詔により長儒がこれを撃破した。謙の二子が京師から逃げて父の元へ帰ろうとしたのを長儒がことごとく捕らえて斬った。高祖受禅後、上大将軍に進み蘄春郡公(食邑二千五百戸)に封じられた。
突厥との死闘
- 開皇二年(582年)、突厥の沙鉢略可汗が弟の葉護および潘那可汗の衆十余万を率い南下して侵掠したため、詔により長儒は行軍総管として二千の兵で撃つこととなった。周槃で遭遇し、衆寡敵せず軍中は大いに恐れたが、長儒は慷慨として神色いよいよ烈しかった。虜に衝突されるたび散っては集まり戦いながら進み、三日間転戦し武器はすべて尽き士卒は拳で殴り合い手はすべて骨が見えるほどになった。殺傷は万を数え虜の気勢はやや削がれ、ついに囲みを解いて去った。長儒は身に五つの傷を負い、うち二つは体を貫通していた。戦士の死傷者は十のうち八九に及んだ。突厥は本来秦・隴を大いに掠奪しようとしていたが長儒に遭って皆力戦したため意気を大いに挫かれ、翌日戦場で屍を焼いて慟哭し去った。
- 高祖は詔を下して「突厥は猖狂にも度々辺塞を犯し、犬羊の衆は山野に満ちた。しかるに長儒は北辺の任に受け寇賊を防ぎ、手勢は敵の百分の一にも満たなかったが、昼夜を通して四面の敵に抗い、十四戦して向かうところ必ず摧いた。凶徒は誅殺され過半は帰らず、鋒刃を免れた者も魂を失って逃げ竄った。英威の奮発と奉国の情の深さ、撫御の巧みさと士卒が命を惜しまなかったこと無くしては、寡兵で衆を破るこのような偉業は成し得なかっただろう。その勲庸を思えば名器を高くすべきである、上柱国とし、余勲は一子に授けよ。戦死した将士には皆官三転を贈り子孫に襲がせよ」と述べた。
晩年
- その年、寧州刺史を授かり、まもなく鄜州刺史に転じたが母の喪により去職した。長儒は至孝な性格で五日間水も喉を通さず、喪に服す姿は礼を超え命が危ぶまれるほどで、天子はこれを称嘆した。復職して夏州総管三州六鎮都将事となると匈奴はこれを恐れて塞を窺わなくなった。病により免官。また襄州総管を授かり在職二年で蘭州総管に転じた。高祖は涼州総管独孤羅・原州総管元褒・霊州総管賀若誼らに胡の備えとして兵を発させ、皆長儒の節度を受けさせた。長儒は軍を率い祁連山の北から西の蒲類海まで進んだが虜に遭わず帰還した。
- さらに荊州総管三十六州諸軍事に転じると、高祖は「江陵は要害の地、国の南門である、今公に委ねる、朕に憂いはない」と述べた。一年余りで任地で卒した。諡は威。子の達奚暠は大業年間に太僕少卿に至った。