隋書卷五十二 列傳第十七 賀若弼

賀若弼、字は輔伯、河南洛陽の人(生年不明-607年、64歳)。父賀若敦の遺言(江南平定の遺志と口を慎むべき戒め)を胸に、周から隋にかけて活躍し、開皇九年(589年)の伐陳の役で行軍総管として功を立てた。功名心が強く楊素・韓擒虎らと確執し、大業三年に誅殺された。

年表(10件)

出自と父の遺言

  • 賀若弼、字は輔伯、河南洛陽の人。父の賀若敦は武勇で知られ、周に仕えて金州総管となったが宇文護に忌まれ殺害された。刑に臨み弼を呼んで「私は必ず江南を平定しようとしたが果たせなかった、お前がこの志を成し遂げよ。私は舌で死んだ、お前も心せよ」と言い、錐で弼の舌を刺して血を出させ口を慎むよう戒めた。
  • 弼は若くして慷慨で大志を抱き、驍勇で弓馬に優れ、文を能くし書記に広く通じ、当世に重名を得た。周の斉王憲がこれを聞いて敬い記室に招いた。まもなく当亭県公に封じられ小内史に遷った。
  • 周の武帝の時、上柱国の烏丸軌が帝に「太子は帝王の器ではない、私は賀若弼とも論じたことがある」と言った。帝が弼を呼んで問うと、弼は太子の地位が動かせぬことを知り禍が及ぶのを恐れ「皇太子の徳業は日々新たであり、まだ欠点を見ていません」と偽って答えた。帝は黙した。弼が退くと軌はその豹変を責めたが、弼は「君主が秘密を守れねば臣を失い、臣が秘密を守れねば身を失う、だから軽々に論じられぬのだ」と答えた。宣帝が即位すると軌はついに誅殺されたが、弼は難を免れた。
  • のち韋孝寛に従い陳を討ち数十城を攻略、弼の計が多くを占めた。夀州刺史を拝し襄邑県公に改封。高祖が丞相の時、尉迥が鄴城で反乱すると弼が変心することを恐れ長孫平を駅馬で送ってこれに代えさせた。

平陳の献策と先陣争い

  • 高祖の受禅後、密かに江南併合の志を抱き適任者を求めると、高熲が「朝臣の中、文武の才幹で賀若弼に及ぶ者はいない」と言い、上は「公は適任者を得た」と述べ、弼を吳州総管に任じ平陳の事を委ねた。弼は喜んでこれを己の任務とした。夀州総管の源雄と共に重鎮を成し、弼は雄へ「交河の驃騎の幕、合浦の伏波の営、騏驎閣に我ら二人の名を欠くことのないように」との詩を贈った。
  • 陳を取る十策を献じ上は称賛して宝刀を賜った。開皇九年(589年)、大挙して陳を討つに際し弼は行軍総管となった。長江を渡るに先立ち酒を注いで「弼は廟略を受け国威を遠く振るい、罪を伐ち民を弔い凶を除き暴を翦る、天と長江よ、この志を鑑みよ。福善禍淫であれば大軍は無事に渡れ、もし事に背くなら江魚の腹に葬られようとも恨みはない」と誓った。
  • 先立って弼は沿江の防人が交代の際は必ず歷陽に集結するよう求めていた。旗幟を大いに並べ営幕は野を覆い、陳人は大軍が来たと思い国中の士馬を発したが、防人の交代と分かると再び兵は散った。以後これが常態となり備えを怠るようになった。この機に弼は大軍で渡江したが陳人は気づかなかった。陳の南徐州を襲い抜き刺史の黄恪を捕らえた。軍令は厳粛で秋毫も犯さず、民間で酒を買った兵を弼は即座に斬った。
  • 蒋山の白土岡に進んで陣を張ると、陳将の魯達・周智安・任蛮奴・田瑞・樊毅・孔範・蕭摩訶らが精鋭で拒戦した。田瑞が先に弼の軍を攻めたが弼はこれを撃退した。魯達らが次々に進み弼の軍は何度も退いた。弼は敵が驕り士卒が怠っていると見て将士を督励し死戦させ大破した。麾下の開府員明が摩訶を生け捕りにすると、弼は斬るよう命じたが摩訶が顔色一つ変えなかったため釈放して礼遇した。北掖門から入城した。
  • 時に韓擒虎はすでに陳叔宝を捕らえていた。弼が来ると叔宝を呼び出し「小国の君主が大国の卿に拝礼するのは礼である。入朝すれば帰命侯の地位を失うことはない、恐れるな」と告げた。しかし弼は叔宝を捕らえられず功が韓擒虎に後れたことを恨み、擒虎と口論して刃を抜いて出て行った。
  • 上は弼の功を聞き大いに喜び詔で褒揚した(詳細は「韓擒虎伝」に記す)。晋王は弼が期日に先んじて決戦し軍令に違反したとして弼を吏に付した。上は駅馬で召し、会うと「三呉を平定したのは公の功だ」とねぎらい、御座に登らせ物八千段を賜り上柱国に進位、宋国公に進爵、襄邑三千戸の真食邑を与え、さらに宝剣・宝帯・金甕・金盤各一、雉尾扇・曲蓋、雑彩二千段、女楽二部、加えて陳叔宝の妹を妾として賜った。右領軍大将軍を拝し、まもなく右武候大将軍に転じた。

栄華と没落、そして誅殺

  • 弼は当時権勢盛んで、兄の賀若隆は武都郡公、弟の賀若東は万栄郡公となり皆刺史・列将であった。弼の家の珍玩は数え切れず、綺羅を纏う婢妾は数百人に及び、時人はこれを栄とした。弼は自らの功名が朝臣に勝ると考え、常に宰相を自任していた。楊素が右僕射になると弼はなお将軍のままで大いに不満を抱き、言色に表れたため免官され、恨みはますます深まった。
  • 数年後、弼は獄に下され、上は「私は高熲・楊素を宰相としたが、そなたは常に『この二人はただ飯を食うだけの者だ』と言っているそうだが、どういうことか」と問うと、弼は「高熲は私の旧友、楊素は私の甥の子で、私は共にその人となりを知っている、確かにそう言った」と答えた。公卿は弼の怨望を奏上し死罪に相当すると訴えたが、上はその功を惜しみ除名して庶民とした。一年余りで爵位を回復した。上もまた弼を忌み以後は用いなかったが、宴の際は厚く遇した。
  • 開皇十九年(599年)、上が仁壽宮に行幸し王公に宴を賜った際、弼に五言詩を作らせると詞意は憤怨に満ちていたが、帝はこれを見ても咎めなかった。ある時、突厥の使者が朝貢に来て上が射を賜うと突厥は一発で的に中てた。上が「賀若弼でなければこれに応じられまい」と言い弼に命じると、弼は再拝して「臣がもし赤誠をもって国に仕える者なら一発で的を破るだろう、そうでなければ中らぬだろう」と祝ってから射て、見事に命中した。上は大いに喜び突厥を顧みて「この者は天が私に賜った人材だ」と言った。
  • 煬帝が東宮にいた頃、弼に「楊素・韓擒虎・史万歳の三人は皆良将と称されるが優劣はどうか」と問うと、弼は「楊素は猛将だが謀将ではない、韓擒虎は闘将だが領将ではない、史万歳は騎将だが大将ではない」と答えた。太子が「では大将は誰か」と問うと弼は拝して「殿下の選ぶところに任せます」と答えたが、内心では自らを大将と自任していた。
  • 煬帝が即位すると弼はますます疎まれ忌まれた。大業三年(607年)、北巡に従い榆林に至った際、帝は大帳を設け数千人が座れるほどの規模で突厥の啓民可汗を饗応した。弼はこれを過度な奢侈だと考え、高熲・宇文弼らと私的に得失を論じたが、これを密告する者があり、ついに誅殺された。時に六十四歳。妻子は官奴婢に落とされ、一族は辺境に流された。

賀若弼の子・懐亮

  • 懐亮は快活で父の風があり、柱国の世子として儀同三司を拝した。弼の連座により奴とされ、まもなく誅死した。

史論

  • 天地がまだ安定しない時代には聖哲がその機を開き、辺境が乱れる時には爪牙の臣がその力を発揮する。周の方叔・召虎、漢の韓信・彭越のような人材は時代を問わず現れるものである。晋の衰微以来、中原は分裂し天下が隔てられて三百年近くになる。陳氏は長江の険を頼み金陵の余気を恃みに天が南北を隔てたと思い誰も窺えぬと考えていた。高祖は千載の機に応じ天下を一つにしようとした。賀若弼は慷慨として必ず取る策を進言し、韓擒虎は奮発して余勇を賈って先を争い、その勢いは疾雷のごとく、鋒は駭電を超えた。隋はこの一戦で四海に威を加えた。天道を考えれば時に廃興があるものだが、人の謀を考えれば実にこの二臣の力による。その俶儻な英略は賀若弼が多く、武毅な威雄は韓擒虎が重んじられた。晋の王濬・杜預に比べても勲功は十分すぎるほどである。しかし賀若弼は功成り名を立てながら誇り高ぶることをやめず、ついに非業の死を遂げた。秘密を守らなかったために身を滅ぼしたのであり、父の臨終の言葉を思い出していれば、この禍には及ばなかったであろう。韓擒虎は代々の将家に生まれ威声は世に轟き、敵国を破ったのちも名を全うし身を全うした、幸運と言うべきである。広陵(僧壽)・甘棠(洪)もともに武芸に優れ驍雄・胆略で当時から推され、頼もしい兄弟であった。