隋書卷四十六 列傳第十一 長孫平

生涯

  • 長孫平、字は処均、河南洛陽の人。父の儁は周の柱国。平は容儀が美しく書記に通じ、周に仕え衛王侍読から出発。武帝が宇文護に逼られていた際、衛王と共に護を誅する謀に平が使者として往来した。護誅殺後、開府・楽部大夫となり、宣帝即位で東京官属が置かれると小司寇として趙芬と六府を分掌した。
  • 高祖と情好篤く、丞相就任後は恩礼がさらに厚くなった。尉迥・王謙・司馬消難の反乱時、高祖が淮南を憂慮し、賀若弼が壽陽鎮守で二心を疑われた際、平を馳せさせて代え、果たして従わなかった弼を壮士に捕らえさせ京師に送った。
  • 開皇三年(583年)度支尚書に拝され、天下の州県が水旱に苦しむのを見て、秋に民間から粟麦一石以下を貧富に応じ出させ閭巷に蓄える「義倉」の制を奏請し、上書して「国は民を本とし民は食を命とする、勧農重穀は先王の令軌、三年耕して一年の積み、九年作って三年の儲えあれば水旱の災いも民に菜色なし」と勧農積穀を刺史・県令に命じるよう求め、高祖は深く嘉納し、これより州里は豊かになった。
  • のち工部尚書に転じ、大都督邴紹が朝廷を誹謗したとして高祖が斬ろうとした際、平は「川沢は汚を容れて深くなり山嶽は疾を蔵して大きくなる、陛下には山海の量を弘め寛裕の徳を茂んにされたい、痴ならず聾ならずして大家の翁にはなれぬという鄙諺もある」と諫め、高祖は紹を赦し、以後誹謗の罪を奏聞せぬよう群臣に勅した。
  • 突厥の達頭可汗と都藍可汗の対立に節を持って和解を宣諭し、縑三百匹・良馬一匹を賜って遣わされ、和解に成功、可汗から馬二百匹を贈られたがすべて上に進上し高祖はすべてこれを平に賜った。汴州・許州・貝州刺史を歴任し、鄴都の難治を平が治めたことから相州刺史に転じ能名あり。州で正月十五日の大戯(衣裳を鍪甲に模した仮装)に高祖が怒って免官としたが、まもなく淮南鎮守時の功を思い大将軍・太常卿・判吏部尚書事に進んだ。仁寿中に官に卒し諡を康という。
  • 子の師孝は軽狡で利を好み数々法を犯した。渤海郡主簿となり大業末に貪濁を恣にして一郡を苦しめ、後に王世充に殺害された。