生涯
- 楊尚希、弘農の人。祖の真は魏の天水太守、父の承賓は商・直・淅三州刺史。尚希は幼くして孤となり、十一歳で長安に遊学、涿郡の盧辯に見出されて太学に入り、周太祖の親臨釈奠で十八歳にして『孝経』を講じ太祖に奇才と評され普六茹氏の姓を賜り国子博士に擢された。太学博士・太子宮尹・計部中大夫を経て高都県侯に封ぜられ東京司憲中大夫。
- 宣帝の時、山東・河北の撫慰を命じられ相州に至ったところで帝が崩じ、相州総管尉迥と共に喪を発したが、尚希は「蜀公(尉迥)の様子から他計があると悟り」夜中に捷径で逃れ、尉迥の追討を逃れて帰京した。高祖は尚希が宗室の望あり尉迥に背いて来たことから厚遇し、尉迥の武陟屯兵に対し尚希に宗室兵三千を督させ潼関を鎮めさせた。まもなく司会中大夫。
- 高祖の受禅後、度支尚書に拝され公に進んだ。天下の州郡が過多であることを見て「秦の郡県制以来、邦邑がたびたび改まり、今の郡県は古に倍し、百里に満たぬ地に数県が並置され、戸千に満たぬ地に二郡が分領され、官僚と費用ばかり増え租調は年々減っている、要を存し閑を去り小を併せて大とすべき」と上表し、高祖はこれを嘉して天下の諸郡を廃止した。瀛州刺史、淮南巡省、兵部尚書、礼部尚書、上儀同を歴任。
- 尚希は弘厚な性質で学業に通じ雅望があり、高祖の朝が日暮れまで及ぶことを「文王は憂勤で寿を損ない武王は安楽で年を延ばした、大綱を挙げ宰輔に任せるべき」と諫め、高祖に「公は我を愛する者」と喜ばれた。足疾があったため蒲州刺史に出され本州宗団驃騎を領し、瀵水を引いて堤防を立て稲田数千頃を開くなど恵政を施した。開皇十年(590年)五十七歳で官に卒し諡を平という。子の旻が嗣ぎ丹水県公に改封され安定郡丞に至った。