隋書卷四十五 列傳第十 秦孝王

秦孝王楊俊、字は阿祗、高祖楊堅の第三子(生年不明-600年)。開皇元年に秦王に立てられ、伐陳の役では山南道行軍元帥として水陸十余万を督した。仁恕慈愛で仏道を敬ったが、後に奢侈となり利息取り立てで民吏を苦しめ、高祖の勘気を被って免官・幽閉同然の扱いを受けたまま病没した。

年表(12件)
  • 生涯伐陳の役で山南道行軍元帥として漢口に屯し、陳将周羅睺らを降す
  • 生涯揚州総管・并州総管を歴任するが次第に奢侈となり利息取り立てで民吏を苦しめる
  • 生涯妃崔氏が瓜に毒を盛り病を得て京師に召還され、奢縦を理由に官を免ぜられる
  • 生涯謝罪の上表をするが高祖は許さず病はさらに重くなる
  • 開皇元年581年秦王に立てられる
  • 開皇二年582年上柱国・河南道行台尚書令・洛州刺史を拝す、年十二
  • 開皇三年583年秦州総管に遷り隴右諸州が隷属する
  • 開皇六年586年山南道行台尚書令に遷る
  • 開皇二十年六月600年秦邸で薨去する
  • 秦孝王俊の家族妃崔氏は毒害の罪で廃絶され死を賜る
  • 秦孝王俊の家族煬帝即位後、子の浩が秦王に立てられ孝王の嗣となる
  • 秦孝王俊の家族浩は楊玄感の乱後に廃免され、のち宇文化及に帝と擁立されるも殺害される

生涯

  • 秦孝王楊俊、字は阿祗、高祖の第三子。開皇元年(581年)秦王に立てられた。二年(582年)春、上柱国・河南道行台尚書令・洛州刺史を拝したとき年十二。右武衛大将軍を加え関東の兵を領した。三年(583年)秦州総管に遷り隴右諸州がすべて隷属した。俊は仁恕慈愛で仏道を敬い出家を願ったが高祖は許さなかった。
  • 六年(586年)山南道行台尚書令に遷り、陳討伐(伐陳の役、589年)では山南道行軍元帥として三十総管、水陸十余万を督し漢口に屯し上流の節度を担った。陳将周羅睺・荀法尚らの数万の兵に対し、総管崔弘度が攻撃を請うたが俊は殺傷を憂慮して許さず、羅睺も相次いで降伏した。使者を朝廷に遣わし「推轂の任に当たりながら尺寸の功もなく慚愧に堪えない」と涙ながらに述べ、高祖はこれを善しとした。
  • 揚州総管四十四州諸軍事を授けられ広陵に鎮し、一年余りで并州総管二十四州諸軍事に転じた。当初評判良く高祖も喜び奨励の書を下したが、後に俊は次第に奢侈となり制度に違反し、利息を取り立てて民吏を苦しめた。高祖の調査で連座した者は百余人に及んだが俊は改めず、宮室を盛大に造営し窮極の華美を尽くした。妃のために七宝の羃籬、水殿、香を塗った粉壁、玉の階段、鏡と宝珠で飾った梁柱を造り、賓客・妓女と共に管弦の宴を催した。
  • 俊は好色で、妃崔氏は嫉妬し瓜に毒を盛った。俊はこれで病を得て京師に召還され、高祖はその奢縦を理由に官を免じ王として第宅に置いた。左武衛将軍劉昇が「秦王の過ちは官物を費やして廨舎を営んだだけ」と容赦を諫めたが高祖は「法は曲げられぬ」と拒み、楊素の再度の諫言にも「自分は五子の父だが、天子の子だけ別の律を作るわけにはいかない、周公でさえ管叔・蔡叔を誅したのだから」と許さなかった。
  • 俊は病篤くなり謝罪の上表をしたが、高祖は使者に「私は関塞に戮力しこの大業を創り訓を垂れたのに、我が子でありながらこれを敗ろうとするとは」と述べた。俊は慚じて病はさらに重くなった。大都督皇甫統が王官の回復を上表したが許されず、一年余り経て病篤いことから上柱国に再拝された。二十年(600年)六月、秦邸で薨じ、高祖は数声哭しただけであった。俊の贅沢な品はすべて焼却させ、葬儀は倹約を旨とし後世の法とした。王府の僚佐が碑の建立を請うたが、高祖は「名を求めるなら史書一巻で足りる、子孫が家を保てなければ、ただ人の鎮石を作るだけだ」と述べた。

秦孝王俊の家族

  • 妃崔氏は王を毒した罪により詔で廃絶され、その家で死を賜った。子の浩は崔氏の生んだ子。庶子は湛。群臣は「『春秋』の義では母は子によって貴く、子は母によって貴い。母に罪あれば子も同様であり、漢の栗姫・郭后の例に倣い、秦王の二子は母が罪で廃されたため嗣ぐべきでない」と議し、秦国官を喪主とした。
  • 俊の長女永豐公主は年十二で父の喪に遭い、喪を終えた後も肉食を絶ち忌日には涙を流して食を断った。開府王延は俊に長年仕えた忠厚の人物で、俊の病中は帯を解かず看病し、俊の死後数日飲食せず、高祖はこれを憐れみ禦薬を賜り驃騎将軍・典宿衛に任じた。俊の葬送の日、延は号泣して絶命し、高祖は俊の墓側に延を葬らせた。
  • 煬帝即位後、浩を秦王に立てて孝王の嗣とし、湛を済北侯に封じた。浩は後に河陽都尉となったが、楊玄感の乱の際、宇文述の討伐に応じて交渉した咎で諸侯が内臣と交通したとして廃免された。宇文化及の逆謀の初め、浩は帝に立てられたが、化及が黎陽で敗れ魏県に逃げて偽の帝号を僭称した際に殺害された。湛は驍果で膽烈があり、大業初め滎陽太守となったが浩の廃免に連座して免ぜられ、化及に殺害された。