隋書卷四十五 列傳第十 庶人秀
庶人楊秀(?-618年頃)。高祖の第四子で、越王・のち蜀王に封ぜられ益州を治めた。剛直な性格で武芸に優れたが奢侈に傾き、兄の皇太子勇廃立後は晋王広(煬帝)に警戒され讒言により仁壽二年(602年)に廃されて庶人となり幽閉された。宇文化及の乱の際に殺害された。
生涯
- 庶人楊秀、高祖の第四子。開皇元年(581年)越王に立てられ、まもなく蜀王に改封、柱国・益州刺史・総管二十四州諸軍事を拝した。二年(582年)上柱国・西南道行台尚書令に進み一年余りで罷めた。十二年(592年)内史令・右領軍大将軍となり、まもなく再び蜀に出鎮した。
- 秀は膽気があり容貌は瑰偉、髭が美しく武芸に優れ朝臣に畏憚された。高祖は独孤皇后に「秀は必ず悪い最期を迎えるだろう、自分が在世中は心配ないが兄弟の代には必ず謀反するだろう」と語っていた。兵部侍郎元衡が蜀に使いした際、秀は元衡と深く結び左右の増員を求めたが高祖は許さなかった。劉噲の西爨討伐に際し、秀は上開府楊武通の行軍司馬に嬖人萬智光を任じ、高祖は人選の不適を譴責し、群臣に「私の法を壊すのは子孫だろうか」と述べ、秀の統率を分割した。
- 秀は次第に奢侈となり制度に違反し車馬服飾は天子に擬した。皇太子勇が讒毀で廃されると秀は不平を抱き、皇太子(晋王広)は秀が後患となることを恐れ密かに楊素に秀の罪を探らせ讒言させた。仁壽二年(602年)秀は京師に召還され、高祖は面会しても言葉をかけず、翌日使者に厳しく責めさせた。秀は「国恩を蒙りながら法を守れず罪万死に当たる」と謝し、皇太子・諸王は涙して庭で謝った。高祖は「秦王は財を糜費したので父としての道で訓じたが、秀は民に害を為したので君の道で処する」と述べ執法者に付した。
- 開府慶整が「庶人勇は既に廃され秦王も既に薨じた、陛下の子はもう多くないのにここまでする必要があるか、蜀王は性質剛直であり重責を受ければ自らを全うできぬ恐れがある」と諫めたが高祖は激怒し舌を断とうとした。「秀を市で斬り百姓に謝そう」と述べ、楊素・蘇威・牛弘・柳述・趙綽らに推治させた。皇太子は密かに高祖と漢王の姓名を書いた人形を作り手を縛り心臓に釘を打って華山下に埋めさせ、楊素にこれを発見させた。また檄文を作って「逆臣賊子が権柄をほしいままにし、陛下はただ虚器を守るのみ」などと甲兵の盛んなことを記して秀の物の中に置き、これを奏上させた。高祖は「天下にこのようなことがあろうか」と嘆じ、秀は庶人に廃され内侍省に幽閉、妻子との面会も許されず獠婢二人だけを付けられた。連座した者は百余人に及んだ。
幽閉中の上表と数罪の詔
- 秀は幽閉され憤懣やる方なく上表し、「幸いにも皇族に連なり九歳より栄貴を享け富楽のみ知り憂懼を知らなかった、愚心を恣にして刑網に陥り深く罪を負う、天恩によりなお余命を保てているが、今や愚心の縦にすべからざる、国法の犯すべからざるを知り自らを省みる、ただ望むらくは残る息の絶えぬうちに愛児の爪子に会わせてほしい、一穴を賜り骸骨の帰する所を得たい」と願った。
- 高祖はこれに応じ、秀の罪を数え上げる詔を下した。詔は、庸・蜀の要地を委ねられながら紀を乱し常を破り、宮中の不和をうかがい、皇太子への謀り事や、妖言による自らの正当化、木易の姓(李の暗示)を唱えて成都の宮を治めようとしたこと、禾乃の名(秀の暗示)を唱え八千の運に当てようとしたこと、京師の妖異や蜀地の徴祥を偽造したこと、白玉の珽・白羽の箭など天子の物を模したこと、左道の符書で漢王楊諒と高祖自身の像を作り呪詛したことなどを十の悪として列挙し、「凶慝を包蔵し不軌を図るは逆臣の跡、父の災いを喜ぶは賊子の心、兄に毒心を向けるは悖弟の行い、弟に嫉妬するは孔懐の情なし、制度に違うは壊乱の極み、無辜を多く殺すは豺狼の暴、民を剥削するは酷虐の甚だしき、財貨のみを求めるは市井の業、妖邪を専らにするは頑囂の性、負荷に耐えぬは不材の器である」と断じた。
- 後に再びその子と同処することを許された。
煬帝即位後
- 煬帝即位後も禁錮は初めのまま続いた。宇文化及の弑逆に際し秀を帝に立てようとする議が出たが群議は許さず、秀とその諸子は殺害された。