隋書卷四十四 列傳第九 蔡王智積
蔡王楊智積(?-616年)。高祖の弟楊整の子。修謹な人柄で知られ、同州刺史として質素な治績を挙げた。煬帝の代には皇族への猜疑を恐れて自ら控えめに振る舞い、楊玄感の乱では弘農城を死守して乱の鎮圧に貢献した。江都行幸中に病を得て没した。
出自と修謹な治績
- 智積は高祖の弟の整の子。整は周の明帝の時、太祖の軍功により陳留郡公の爵を賜り、まもなく開府・車騎大将軍を授かった。武帝の斉平定に従って并州に至り、力戦して死んだ。高祖が丞相となると柱国・大司徒・冀定瀛相懐衛趙貝八州刺史を追贈された。
- 高祖の受禅により蔡王を追封され諡を景とし、智積がこれを襲封した。また弟の智明を高陽郡公、智才を開封県公に封じた。まもなく智積は開府儀同三司を拝し、同州刺史を授かり、儀衛・資送は甚だ盛んであった。
- 修謹をもって知られ、高祖はこれを善しとした。在州中、遊猟に興じることなく、政務の暇には端座して読書し、門に私謁を通さなかった。侍読の公孫尚儀(山東の儒士)、府佐の楊君英・蕭徳言はいずれも文学があり、しばしば座に招かれたが、供されるのは餅と果物のみで、酒は三酌までであった。家には女妓があったが、年節の慶事にのみ太妃の前で演奏させ、その質素さはこの通りであった。
- 昔、高祖が潜龍の時、景王(父整)は高祖と不和で、太妃の尉氏もまた独孤皇后と不和であったため、智積は常に危惧を懐き、常に自ら控えめにしていた。高祖はこれを知り、これを憐れんだ。
- ある人が智積に財産を治めるよう勧めたが、智積は「昔、平原君は財帛を腐らせて余るのを苦しんだという。私には幸い露呈するほどの財がない、なぜさらに営もうか」と答えた。5人の男子には『論語』『孝経』を読ませるのみで、賓客との交わりも許さなかった。理由を問われると智積は「あなたは私を知る者ではない」と答えた。子に才能があると禍を招くことを恐れたためである。
- 開皇20年(600年)、京師の邸に召還され、他の職任もなく門を閉ざして自守し、朝覲以外に外出しなかった。
煬帝朝と楊玄感の乱への対応
- 煬帝の即位後、滕王綸・衛王集がいずれも讒言によって罪を得、高陽公の智明も交遊を理由に爵を奪われ、智積はますます恐れた。大業7年(611年)、弘農太守を授かったが、政務を僚佐に委ね、清静に自ら居した。
- 楊玄感が乱を起こし東都から軍を引いて西へ進んだ際、智積は属官に「玄感は大軍が至ると聞けば、西の関中を図ろうとするだろう。もしその計が成れば根本を固められてしまう。計をもってこれを引き留め、進ませなければ、十日を出でずして自ずと捕らえられよう」と述べた。
- 玄感の軍が城下に至ると、智積は城壁に登ってこれを罵倒し、玄感は激怒して城を攻めた。城門が賊に焼かれると、智積はさらに火を増して賊を入れさせなかった。数日後、宇文述らの援軍が到着し、合わせてこれを撃破した。
最期
- 大業12年(616年)、江都への行幸に従い、病臥した。帝は当時骨肉を疎んじており、智積は常に不安であったが、病を得ても医を呼ばなかった。臨終に際し親しい者に「私は今日ようやく首(頸)を保ったまま地に没することができると知った」と語った。当時の人々はこれを哀れんだ。子に道玄がいる。
史論
- 史臣曰く、周は懿親を建て、漢は磐石(宗室)を開いて、内は九族を敦睦させ、外は億兆の民を輯寧させた。根を深く本を固くし、王室を崇め奨めるのはこのゆえである。安んずればその楽を共にし、衰えればその危うきを恤む所以は久しい伝統である。魏晋以降は多くその中庸を失い、王度に従わず各々私に徇った。これを抑えれば勢いは匹夫に等しくなり、これに抗すれば権は万乗に匹敵するようになり、矯枉過正は一時のことではなかった。得失は前史に詳しいので、ここでは論じ尽くさない。
- 高祖の昆弟の恩は元来篤睦ではなく、閨房の隙もあってさらに相容れなかった。二世(煬帝)が基を承ぐに及び、その弊はいよいよ甚だしくなった。それゆえ滕穆王は急死し人々は密かに議論し、蔡王は最期に際してかえって幸いと思うほどであった。ただ衛王は獻后に養われたため任遇が特に厚かったが、その諸子は流離し死処すら分からない者もあり、悲しいことである。彼らは茅土(封地)を賜り磐石(宗室の藩屏)と称されながら、行くに甲兵の護衛もなく、居るに民と伍を同じくした。内外に憂いなく安泰なときすら顛危の暇がないのに、まして多難な時代に何を望めようか。