隋書卷四十四 列傳第九 衛昭王爽

出自と隋朝での栄達

  • 爽、字は師仁、小字は明達。高祖の異母弟。周代、まだ襁褓の中にいたときに太祖の軍功により同安郡公に封ぜられた。6歳で太祖が崩じ、獻皇后に養育されたため、高祖は諸弟の中で特にこれを寵愛した。17歳で内史上士となった。
  • 高祖の執政に伴い大将軍・秦州総管を拝したが赴任前に蒲州刺史に転じ、柱国に進んだ。受禅に伴い衛王に立てられ、まもなく雍州牧に遷り左右将軍を領した。ほどなく右領軍大将軍に遷り、并州総管の職を権知した。1年余りで上柱国に進み涼州総管に転じた。爽は容姿が美しく器量があり、治は評判が高かった。

突厥討伐と早世

  • その年、爽は行軍元帥として歩騎7万を率いて胡(突厥)に備え、平涼から出撃したが虜に遭わず帰還した。翌年、大挙して北伐し、再び元帥となった。河間王弘・豆盧勣・竇栄定・高熲・虞慶則らが分道して進み、みな爽の節度を受けた。
  • 爽は自ら李充節ら4将を率いて朔州から出撃し、沙鉢略可汗と白道で遭遇して戦い、これを大破し、虜千余人を獲り、馬牛羊を巨万奪った。沙鉢略可汗は重傷を負って逃げた。高祖は大いに悦び、爽に真食梁安県千戸を賜った。
  • 開皇6年(586年)、再び元帥となり歩騎15万を率いて合川から出撃したが、突厥は逃げ去った。翌年、召されて納言となり、高祖は甚だこれを重んじた。
  • まもなく爽は病臥した。上は巫者の薛栄宗にこれを視させたところ「衆鬼が祟りをなしている」と言った。爽が左右にこれを追い払わせて数日経つと、鬼物が来て栄宗を撃ち、栄宗は階を下りて絶命した。その夜、爽は薨じた。時に年25。太尉・冀州刺史を追贈された。子の集が跡を継いだ。

楊集――呪詛の疑いと流謫

  • 集、字は文会。初め遂安王に封ぜられ、まもなく衛王を襲封した。煬帝の時、諸侯王への恩礼は次第に薄れ猜防が日に日に厳しくなった。集は憂懼のあまりどうしてよいか分からず、術者の兪普明を呼んで章醮(祈祷)を行い福を祈った。
  • ある者が集の呪詛を告発し、憲司は帝の意を迎えて獄を作り上げ、集は悪逆であり死刑に相当すると奏した。天子は公卿にこの件を議させ、楊素らは「集は密かに邪道を懐き、君親を呪詛した。その情は人理を滅し先朝の遺志にも背く。君父の罪人であり臣子として赦すべきではない。律の通り論ずべきである」と述べた。
  • このとき滕王綸も連座していたが、帝は誅殺に忍びず、詔を下して「綸・集は宗室の重き身分にありながら妖しい禍を包蔵し邪僻をほしいままにした。公卿の議はこの通りだが、これを見るにつけ涙が流れる。王法に私はなく恩義から断ずべきだが、法は公族に隠れ礼は親を親しむものがある。極刑に処すには忍びない」とし、除名して庶人とし遠く辺郡に流した。天下大乱に遭い、その最期は分からない。