隋書卷四十一 列傳第六 高熲
高熲、字は昭玄(?-607年頃)。渤海蓚の人。北周末に楊堅(高祖)の腹心となり、尉遅迥の乱の鎮定に貢献した。隋建国後は尚書左僕射・納言として20年近く朝政を主導し、陳平定の策を立てて功を挙げた宰相。皇太子勇の廃立に反対して高祖の不興を買い失脚し、煬帝の代に誹謗を理由として誅殺された。
出自と北周での登用
- 高熲、字は昭玄、一名は敏。渤海蓚の人と伝える。父の高賓は北斉から北周に帰順し、大司馬独孤信に僚佐として引き立てられ独孤姓を賜った。信が誅殺されると妻子は蜀に徙されたが、文献皇后(独孤氏)は父信の旧吏であった高賓の家をたびたび訪ねた。賓はのち鄀州刺史に至り、熲が貴顕になると礼部尚書・渤海公を追贈された。
- 熲は幼くして明敏で器量があり書史に通じ、特に弁舌に優れた。幼少時、家に高さ百尺ほどの柳の木があり里の父老は「この家から貴人が出るだろう」と語ったという。17歳で北周の斉王憲に記室として引き立てられ、武帝の時に武陽県伯を襲爵し内史上士から下大夫に遷り、斉平定の功で開府を拝した。越王盛に従い隰州の叛胡を平定した。
- 高祖が政を執ると、かねて熲の強明さと兵事への通暁・多謀を知り自らの幕下に引き入れようと邗国公楊惠を遣わして意向を伝えた。熲は「お仕えしましょう、たとえ事が成らずとも一族の滅を辞しません」と快諾し相府司録となった。当時、長史の鄭譯・司馬の劉昉が奢侈放縦により疎まれる中、高祖はいよいよ熲を頼み腹心とした。尉遅迥挙兵の際、子の惇が歩騎8万を率いて武陟に進駐すると、高祖は韋孝寛に討伐させたが河陽で諸将が進撃を渋った。高祖は諸将の不統一を憂え崔仲方を監軍にしようとしたが仲方は父が山東にあることを理由に辞退し、劉昉・鄭譯も行く気配を見せない中、熲が自ら志願し高祖の意にかない派遣された。熲は受命するや母に「忠孝は両立できない」と別れを告げすぐさま出発した。軍に至ると沁水に橋を架け、賊が上流から大きな筏を流して破壊しようとするのを予め用意した土狗(防材)で防ぎ、渡河後に橋を焼いて戦い大破した。鄴の下に至り迥と交戦、宇文忻・李詢らと策を練り尉遅迥平定に貢献した。凱旋後、高祖の臥内で侍宴し帷を賜り、柱国に進み義寧県公に改封され相府司馬に遷り、いよいよ重んじられた。
隋朝での宰相としての功績
- 高祖受禅後、尚書左僕射・納言を兼ね渤海郡公に進み、朝臣の誰も並ぶ者がなく上は常に姓を呼ばず「独孤」と呼んだ。熲は権勢を深く避けようとし、上表して蘇威に僕射を譲ろうとした。上は一度これを許したが数日後「蘇威は前朝で高い節を持し、熲はよく人材を推挙する、賢を進めた者は上賞を受けるはず、なぜ官を去らせられようか」と語り熲を復位させた。まもなく左衛大将軍を拝し本官はそのままとした。突厥がたびたび辺境を侵す中、詔で辺境の鎮圧を命じられ、帰還後は馬100余匹・牛羊千頭を賜った。新都の建設を総監し都の制度の多くは熲の発案であった。熲が朝堂の北の槐の木の下に座って政務を聴くのを常とし、その木が列に並んでいないため有司が伐採しようとした際、上は特に伐らぬよう命じ後世に示した。左領軍大将軍も拝し他の官はそのままとした。母の喪に服したが20日で復職を命じられ、熲は涙して辞退したが優詔で許されなかった。
- 開皇2年、長孫覧・元景山らの伐陳に際し熲に諸軍の節度を命じたが、陳の宣帝の崩御に伴い喪中の攻撃を避け班師を奏請した。蕭岩の叛乱の際は江漢の綏撫を命じられ大いに人心を得た。上が陳を取る策を問うと熲は「江北は寒冷で収穫が遅く江南は温暖で水田の実りが早い、彼の収穫の時期を見計らって少数の兵を挙げ襲撃と称すれば、彼は必ず兵を屯めて守り農時を失う、彼が兵を集めれば我らは甲を解き、これを繰り返せば賊は常態と思い油断する、そこで再び兵を集めれば彼は信じられずためらう間に我らは渡河し上陸して戦えば兵の勢いは倍加する、また江南は土地が薄く竹や茅葺きの家が多く貯蔵物も地窖に収めていないので、密かに人を送り風に乗じて放火し彼が復旧するたびに再び焼けば数年を出ずして財力は尽きるだろう」と献策し、上はこれを実行し陳はいよいよ疲弊した。
- 開皇9年、晋王広の大挙伐陳では元帥長史となり三軍の裁断はすべて熲に委ねられた。陳平定後、晋王が陳主の寵姫張麗華を得ようとした際、熲は「武王は殷を滅ぼし妲己を戮した、今陳国を平らげたのに麗華を得るべきではない」として斬らせ、王は大いに不快に思った。凱旋後、功により上柱国に進み斉国公に爵を進め物9000段・千乗県1500戸を賜った。上は「公が陳を伐った後、公が謀反すると讒言する者があったが私はすでに斬った、君臣の道が合致している以上、青蠅(讒言者)に離間される仲ではない」と労った。熲がまた辞位を願うと詔で「公の識鑒は遠くまで通じ、器略は深い、外に出ては戦を治めて淮海を清め、内に入っては禁旅を司り腹心として委ねてきた、朕の受命以来、常に機衡を司り誠を尽くし力を尽くしてきた、これはまさに天が良輔を降し朕を助けたということであり、辞退の言葉は無用である」と褒賞された。
- 右衛将軍龐晃や将軍盧賁らが前後して熲を上に讒言したが、いずれも疎まれ退けられた。上は熲に「独孤公(熲)は鏡のようなもの、磨けば磨くほど皎然として明るさを増す」と語った。尚書都事の姜曄や楚州行参軍の李君才が水旱不順の責任を熲に負わせ廃黜を求めたが、二人とも罪を得て去り、熲への親礼はいよいよ密になった。上が并州に幸した際は熲が留守を務め、帰還後は縑5000匹に加え行宮一つを荘舎として賜った。熲の夫人賀抜氏が病臥した際は中使の見舞いが絶えず、上自ら邸に幸して銭百万・絹万匹・千里馬を賜った。上が熲と賀若弼に平陳の功を語らせようとした際、熲は「賀若弼は先に十策を献じその後蒋山で苦戦して賊を破りました、私は文吏に過ぎず、どうして大将軍と功を論じられましょう」と答え、帝は大笑いし世論もその謙譲を称えた。まもなく子の表仁が太子勇の娘を娶り、前後の賞賜は数え切れなかった。熒惑が太微に入り左執法を犯した際、術者の劉暉が「天文は宰相に不利、徳を修めて禳うべき」と熲に密かに語ると、熲は不安を覚えつつもこれを上に奏上し、上は厚く慰めた。突厥の侵入には元帥として撃退し、白道から磧に進んで援軍を請う使者を出したが、近臣がこれを謀反の兆しと讒言した。上は返答しなかったが熲は賊を破って帰還した。
皇太子廃立と失脚
- 太子勇が上の寵愛を失い廃立の意向がある頃、上は熲に「晋王妃に神が憑いて『王は必ず天下を得る』と言っている、どうすべきか」と語ると、熲は跪いて「長幼の序があり廃するべきではありません」と答え、上は黙して思いとどまった。独孤皇后は熲の意志を変えられないと悟り密かに排除を図った。熲の夫人が没した際、后は上に「高僕射も老いた、夫人を亡くしたのに陛下は再娶を勧めないのか」と言い、上が熲に伝えると熲は涙を流し「私はすでに老い、朝を退けば仏経を読むだけです、陛下の深いお心遣いはありがたいのですが、妻を娶ることは私の望むところではありません」と答え上はその意を汲んだ。しかしこの後、熲の愛妾が男児を産んだと聞いた上は喜んだが、后は不満を示し「陛下はまた高熲を信じるのですか、かつて陛下が熲に再娶を勧めた時、熲の心はすでに愛妾にありながら陛下を欺いていたのです、その偽りが露見した今、信じるべきではありません」と述べ、上は以後熲を疎んじるようになった。
- 遼東遠征が議された際、熲は固く諫めて不可としたが上は聞かず、熲を元帥長史として漢王(諒)の遠征に従わせたところ、長雨と疫病に遭い戦果を得ずに帰還した。后は上に「熲は当初行きたがらなかったのに陛下が強いて遣わした、私はもとより功がないだろうと分かっていました」と語った。また上は漢王が若年であることから軍事の実権を熲に委ねていたが、熲は任務を重んじ公正を旨として自ら疑われぬよう努めたため諒の意見の多くを用いず、諒はこれを深く恨んだ。帰還後、諒は后に泣いて「私は幸い高熲に殺されずに済みました」と訴え、これを聞いた上はますます不快に感じた。
- まもなく上柱国王世積が罪により誅殺された際、取り調べの過程で宮禁中の機密が熲のもとから漏れたと判明した。上は熲に罪を負わせようとしていたところであったため大いに驚き、上柱国賀若弼・呉州総管宇文弼・刑部尚書薛冑・民部尚書斛律孝卿・兵部尚書柳述らが熲の無実を弁護したが上はいよいよ怒りこれらの者もみな有司に引き渡された。以後朝臣は誰も物を言わなくなった。熲はついに罪に問われ免官され公爵のまま邸に帰された。まもなく上が秦王俊の邸に幸し熲を招いて侍宴させた際、熲は嗚咽して悲しみを抑えられず独孤皇后もこれに対して涙し左右もみな涙を流した。上は熲に「朕は公を裏切っていない、公が自ら裏切ったのだ」と語り、侍臣には「私は高熲を我が子以上に頼りにしていたが、たとえ会わずとも常に目の前にいるようであった、彼を見限ってからは忘れてしまい、まるで元から高熲などいなかったかのようだ、身をもって君を脅すようなことをして自らを第一と称してはならない」と語った。
再度の告発と誅殺
- ほどなく、熲の家の国令が熲の陰事を訴え「子の表仁が熲に『司馬仲達(司馬懿)は仮病で朝廷に出ず、ついに天下を得た、公も今こうした境遇にあるのは幸いかもしれない』と語った」と告げた。上は激怒し熲を内史省に禁固して尋問させた。憲司はさらに他の事も奏上し「僧の真覚がかつて熲に『来年国に大喪がある』と語り、尼の令暉も『十七、十八年の間に皇帝に大厄がある、十九年は超えられない』と語った」とされた。上はこれを聞いていよいよ怒り群臣に「帝王の位は力ずくで求められるものか、孔子ほどの聖人でも法を作って後世に垂れながら大位を望まなかったのは天命に非ざるを知っていたからだ、熲が子に語った言葉は自らを晋帝(司馬懿)になぞらえるものだ、何の心づもりか」と述べた。有司は熲の斬罪を請うたが、上は「昨年は虞慶則を殺し、今年は王世積を斬った、これ以上熲まで誅せば天下は私を何と言うだろうか」として除名して庶民とするに留めた。熲がかつて僕射になった際、母は「お前は富貴を極めた、あとは首を斬られるだけだ、慎むように」と戒めており、熲は常にこれを恐れていたが、この処分に対してはむしろ喜んで恨む色もなく、禍を免れられたと考えたという。
煬帝の代の誅殺
- 煬帝即位後、太常を拝した。北周・北斉の旧楽人や天下の散楽を集める詔が出ると、熲は「この楽はすでに久しく廃れています、今これを求めれば見識のない者たちが本を捨て末を追い互いに教え合うことになりかねません」と奏したが帝は不快に思った。帝は当時奢侈に耽り声色に溺れ長城の工事も起こしていた。熲はこれを深く憂え太常丞の李懿に「北周の天元帝は音楽を好んで滅んだ、その戒めは遠くない、なぜ同じ轍を踏むのか」と語った。帝が啓民可汗を過度に厚遇するのを見て太府卿の何稠に「この虜は中国の虚実や山川の険易をよく知っている、後患となるだろう」と語り、観王雄にも「近頃朝廷にはまるで綱紀がない」と語った。これを密告する者があり、帝は誹謗と見なして詔で誅殺し、諸子は辺境に徙された。
人物評
- 熲は文武の大略を備え世務に明達していた。任用されて以来、誠を尽くし節を守り、貞良の士を推挙して天下を己の任とした。蘇威・楊素・賀若弼・韓擒らはみな熲の推薦により各々の能力を発揮し一代の名臣となった。それ以外にも功業を立てた者は数え切れない。20年近く朝政を執り朝野が推服し異論を唱える者はなかった。天下が升平に至ったのは熲の力によるものであり、論者はこれを真の宰相と称した。誅殺された際、天下の誰もが悲しみ惜しみ、今なお冤罪を訴える声が絶えない。熲が用いた奇策や密謀、時政の損益に関する意見はすべて草稿を削り消したため、世に伝わることはなかった。
- 子の盛道は莒州刺史に至り柳城に徙されて没した。次子の弘徳は応国公に封ぜられ晋王府記室となった。次子の表仁は渤海郡公に封ぜられ蜀郡に徙された。