陰壽
- 陰寿、字は羅雲。武威の人。父の嵩は北周の夏州刺史。壽は果断で武幹があり性は謹厚で信義に篤かった。北周の世に軍功を重ね儀同を拝し、武帝の斉平定に従って開府に進み、物1000段・奴婢100口・女楽20人を賜った。高祖が丞相となると壽は掾に引かれた。尉遅迥の乱で高祖が韋孝寛を元帥とした際、壽に監軍を命じた。孝寛は病で自ら軍を統べられず帳中で婦人に教命を伝えさせていたため、三軍の綱紀は壽の判断に委ねられ、功により上柱国に進んだ。
- まもなく行軍総管として幽州を鎮め、幽州総管を拝し趙国公に封ぜられた。当時、北斉の疎属の高宝寧なる者は狡猾で謀略に富み、長らく黄龍を鎮め斉滅亡後は北周武帝に営州刺史とされ華夷の心を得ていたが、高祖が丞相となると契丹・靺鞨と結んで反乱を起こした。高祖は中原の混乱を理由に討伐を後回しにし書で説得しようとしたが応じなかった。開皇初め、突厥まで引き入れ北平を包囲した。壽は歩騎数万を率い盧龍塞から討伐に赴いた。宝寧は突厥に救援を求めたが、衛王爽らが数道から北征していたため突厥は救援できなかった。宝寧は城を捨てて磧北に逃げ、黄龍の諸県はすべて平定された。壽は班師し開府の成道昂を鎮めに残したが、宝寧の子僧伽が城下を掠奪しては去り、契丹・靺鞨の兵を引き入れて攻めた。道昂は連日苦戦の末に退けた。壽は宝寧の懸賞を重くし密かに趙世模・王威らを離間させると、1月余りで世模が部下を率いて降った。宝寧は再び契丹に逃げたが麾下の趙修羅に殺され、北辺は平定された。物1000段を賜り、まもなく官にて没し司空を追贈された。子の世師が嗣いだ。
陰壽の子――世師と骨儀
- 世師は幼くして節概があり性は忠厚で武芸に富んだ。弱冠で功臣の子として儀同を拝し驃騎将軍に累進した。煬帝即位後、東都瓦工監を領し、3年後張掖太守を拝した。吐谷渾・党項羌がたびたび侵掠する中、寇があれば自ら捕撃して擒斬し戎狄に深く畏れられた。武賁郎将に入り、遼東遠征では襄平道に出た。翌年帝が再度高麗を撃った際は涿郡留守を本官のまま兼ねた。当時盗賊が蜂起する中、世師はこれを次々に捕えて功を挙げ、帝の帰還時には大いに賞された。楼煩太守を拝し、帝が汾陽宮にあった際、始畢可汗が寇を企てていると聞いて太原行幸を勧めたが帝は従わず雁門の難となった。左翊衛将軍に遷り代王(侑)と共に京師を留守した。義軍が至った際、世師は代々隋の恩を受けた身であり藩邸の旧誼もあることから兵を率いて拒守した。1か月余りで城が陥落し京兆郡丞の骨儀らと共に誅された。享年53。
- 骨儀は京兆長安の人。剛直な性で節を曲げない志を持った。開皇初め侍御史となり法を公正に処し勢力に阿らなかった。煬帝即位後、尚書右司郎に遷った。当時朝政は次第に濁り賄賂が公然と行われ枢要の職にある者はみな金宝を蓄えるようになり、天下の士大夫は誰もが節を変える中、儀だけは志を守り介然として孤立を保った。帝はその清苦を嘉して京兆郡丞に抜擢し、公正はいよいよ著しくなった。当時、刑部尚書の衛玄が京兆内史を兼ね詭道を行っていたが、儀に何度も正された。玄は不快に思いつつも儀を害することはできなかった。義兵が至ると玄は禍が及ぶことを恐れ老病と称して事に関与しなくなったが、儀は世師と心を同じくして拒守し、父子ともに誅された。以後その家系は絶えた。世師には子の弘智らがおり、幼かったため難を免れた。