隋書卷三十八 列傳第三 皇甫績

皇甫績

  • 皇甫績、字は功明。安定朝那の人。祖父の穆は魏の隴東太守、父の道は北周の湖州刺史・雍州都督。績は3歳で父を失い外祖父の韋孝寛に養われた。かつて外従兄弟らと博奕に興じ、孝寛が学業を怠っていると厳しく督したが、幼く孤独な績を憐れんで一度は咎めなかった。績は「私には家の教えがなく外家に養われた身、自ら励まねば何を成せようか」と嘆き自ら左右に杖30を命じた。孝寛はこれを聞いて涙を流し、以後績は精心して学び経史に通じた。
  • 北周武帝が魯公であった頃、侍読に招かれた。建徳初め宮尹中士に転じた。武帝が雲陽宮に避暑した際、宣帝は太子として監国していたが衛剌王の乱が起こり城門が閉ざされ多くの百官が逃げる中、績は難に赴き玄武門で皇太子に会い、太子は楼を下りて手を執り悲喜こもごもであった。帝はこれを嘉し小宮尹に遷し、宣政初め前後の功により義陽県男に封ぜられ畿伯下大夫を拝し、御正下大夫に累進した。宣帝崩御後、高祖の輔政に力を尽くしたことは『鄭譯伝』に記す通りである。上開府に進み内史中大夫に転じ郡公(1000戸)に封ぜられ、まもなく大将軍を拝した。
  • 開皇元年、豫州刺史に出て2500戸に加増、都官尚書を拝した。数年後、晋州刺史に転じる際、上に「私は凡庸ですが常に国難に赴いて恩に報いたいと思っています、いま陳がなお存続していますが、私が見るに三つの滅ぼすべき理由があります」と述べ、上が理由を問うと「大が小を呑むこと、有道が無道を伐つこと、叛臣蕭岩を受け入れたことへの申し開きが立つこと、この三つです、鷹揚の将を任じられれば私も従軍を願い僅かなりとも功を立てたい」と答え、上はその壮志を称えて送り出した。陳平定後、蘇州刺史を拝した。
  • 高智慧らの江南の乱に州民の顧子元が呼応し績を攻めたが80日にわたり対峙した。子元は日頃績の恩に感じ冬至に牛酒を贈ったが、績は書を送り「皇帝は符籙を受け天地に通じ、唐虞の禅譲を継ぎ湯武の干戈を捨てた、東は方朔も窮めなかった蟠木を越え、西は張騫も至らなかった流沙を尽くす、玄漠黄龍の外まで来朝し、葱嶺・榆関の外まで臣従を請う、陳のみが独り王化に背き江東の民を苦しめてきたが、天の助けを借りて朝廷が伐てば瓦解した、金陵の民は死より甦り呉会の臣民は白骨に肉が戻った、ただ徳を仰ぎ楽土を楽しむべきなのに、なぜ自ら主に背き牙を剥くようなことをするのか、汝は我が民ではなく、私は隋の将であり外交の余地はない、堅城深塹に拠り援軍を待つ余裕はあろうが、悪しき噂に踊らされ偽りの言に惑わされるのは誠の臣の心を阻み驍雄の志を惑わすだけだ、必ずこの期待には応じられない、汝はよく活路を考え民を諭せ、早く迷いを改めれば道を失うことはまだ遠くない」と説いた。子元は書を得て城下で頓首して謝った。楊素の援軍が到着すると合撃してこれを破った。績は信州総管・十二州諸軍事を拝し、まもなく病を理由に骸骨を乞い、詔で京師に召還され禦薬を賜り中使の慰問が絶えなかった。家で没し、享年52。諡は安。子の偲が嗣ぎ、大業年間に尚書主爵郎に至った。
  • 韋䴙は京兆の人。北周で内史大夫を仕えた。高祖は䴙の擁立の功により上柱国・普安郡公に進めたが、開皇初め蒲州刺史として没した。