隋書卷三十八 列傳第三 劉昉

北周宣帝下での寵愛と高祖擁立

  • 劉昉、博陵望都の人。父の孟良は大司農で魏武帝に従い関中に入り、北周太祖により東梁州刺史とされた。昉は軽薄で狡猾な性であった。北周武帝の時、功臣の子として皇太子に侍り、宣帝即位後は諂佞をもって寵を得て宮掖に出入りし当時並ぶ者のない寵愛を受けた。大都督を経て小御正に遷り、御正中大夫顔之儀と並んで信任された。
  • 帝(宣帝)が病篤くなると昉と之儀が寝室に召され後事を託されたが、帝はすでに声を失っていた。昉は静帝(皇太子)がまだ幼く大事を負えぬと見て、かねて高祖(楊堅)が宣帝の后の父であり天下に重名があることを知っていたため、鄭譯と謀り高祖を輔政に引き入れた。高祖は固辞したが、昉が「公がやるなら早くやるべきだ、やらぬなら私が自らやる」と迫り、高祖はこれに従った。
  • 高祖が丞相となると昉は司馬とされた。時に宣帝の弟の漢王賛が禁中にあり高祖と常に同座していたが、昉は美妓を賛に贈って気に入られ、「大王は先帝の弟、天下の望が集まる方です、幼子(静帝)に大事は担えません、先帝崩御直後で人心が動揺している今は邸に帰り、事が収まってから天子に即かれるのが万全の策です」と説き、まだ弱冠に満たず見識の浅い賛はこれに従った。
  • 高祖は昉の擁立の功を認め下大将軍を拝し黄国公に封じ、沛国公鄭譯と共に腹心とした。前後の恩賞は巨万に及び、甲士を率いて出入りし朝野の注目を集め「黄・沛」と称された。当時「劉昉牽前,鄭譯推後(劉昉が前を牽き、鄭譯が後を推す)」と言われた。昉は功を恃んで驕り、粗略で財利に溺れ、富商大賈が朝夕邸に集まった。
  • 尉遅迥の挙兵に対し高祖は韋孝寛を討伐に遣わしたが、武陟で諸将の足並みが乱れた際、高祖は昉・鄭譯のいずれかを監軍に送ろうとしたが、昉は将たる経験がないと辞退し、譯も母の老齢を理由に固辞した。高祖は表立って咎めなかったが、代わりに志願した高熲が派遣され、以後昉への恩礼は次第に薄れた。王謙・司馬消難の相次ぐ反乱に高祖が心を痛める中、昉は遊興と飲酒に耽り相府の政務を疎かにしたため、高祖はこれを深く嫌い高熲を司馬に代えた。以後さらに疎まれるようになった。

禁酒令違反と謀反への加担

  • 受禅後、昉は柱国に進み舒国公に改封されたが閑職に置かれ、自ら佐命の元功でありながら疎まれたことに不安を抱いた。京師の飢饉で禁酒令が出された折、昉は妾に酒屋を営ませ、治書侍御史梁毗が「貴顕の身で酒商いに身をやつすとは何事か、正すべきである」と弾劾したが、詔で不問に付され、昉は鬱々として志を得なかった。
  • 当時失職して恨みを抱いていた柱国の梁士彦・宇文忻と昉は交わりを深め、士彦の美貌の妻と密通するに至り、士彦と共謀して士彦を帝に推す謀反を企てた。事が露見すると上は徹底的に調べさせ、昉は自らの罪を悟って抗弁しなかった。
  • 上は詔で梁士彦・宇文忻・劉昉らの謀反の詳細を述べ、士彦がかねて相者の言を恃んで「六十を過ぎれば必ず帝位に就く」と称していたこと、忻が「私が反せば成らぬはずがない」と放言していたこと、昉が「劉」の字を「卯金刀」、名を「一万日」の意に解して自らを万日天子と称していたことなど、三者の共謀の経緯を詳述し、いずれも死罪としつつ、それぞれの家族への処置(士彦・忻・昉の兄弟・子姪は特に命を恕され有官の者は除名、士彦の幼い息子・娘、忻の母・妻・娘・幼い息子は放免、資財田宅は没官、15歳以上の子は遠方へ配流)と、関係者の薛摩児・裴石達についての処分(薛摩児は事情を知りつつ黙していたため本来大辟であるが、問われて素直に自供したため除名で死一等を減じる)を定めた。
  • 刑に臨む際、宇文忻は高熲を見て叩頭して哀れみを求めたが、昉は忻に「事ここに至って叩頭して何になる」と言い放ち、ともに誅殺され家は籍没された。数日後、上は素服で射殿に臨み、昉・忻・士彦三家の家財をすべて並べて百官に射させ賞品とし、これを鑑戒とした。