序論 后妃列伝の趣旨と嬪妃制度
- 陰陽・夫婦の道は国家の興亡に関わる重大事であり、歴代の外戚・寵姫による禍乱を鑑み、後世への戒めとして皇后列伝を立てる。
- 后妃の制度は夏・殷以前は簡素で、周公が礼を定めて内官の職掌が備わった。秦漢以降は代ごとに沿革があり、北斉・梁を経て北周に至ると等級が乱れ、周宣帝の代には皇后号を称する者が5人にも及んだ。
- 高祖(文帝)は前代の弊を改め、皇后のみを正位とし私寵を置かない方針をとった。開皇2年に内官の式を定め、嬪3員(正三品相当)・世婦9員(正五品相当)・女御38員(正七品相当)を置き、さらに漢晋の旧儀に倣い尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚工の六尚と、それぞれに属する司・典の職を設けて宮掖の政務を分掌させた。各職の職掌(図籍・礼儀教学・服章宝蔵・膳食・幃帳・営造など)が細かく定められている。
- 文献皇后(独孤氏)は嫉妬深く朝政にも関与していたため、三妃を置かせず嬪以下の総数も60員に抑え、服章の品秩も抑えられていた。皇后崩御後にようやく貴人3員が置かれ、嬪9員・世婦27員・御女81員に増員された。
- 煬帝の代になると后妃は職掌を持たず容飾で宴遊に陪従するのみとなった。煬帝自ら貴妃・淑妃・徳妃(三夫人、正一品)、順儀以下九嬪(正二品)、婕妤12員(正三品)、美人・才人15員(正四品、世婦)、宝林24員(正五品)・御女24員(正六品)・采女37員(正七品、女御)の計120員を定め、他に定員のない承衣刀人を置いた。
- あわせて女官も尚書省に準じて六局・二十四司の体制に整備し、司言・司簿・司正・司闈(尚宮局)、司籍・司楽・司賓・司賛(尚儀局)、司璽・司衣・司飾・司仗(尚服局)、司膳・司醞・司薬・司饎(尚食局)、司設・司輿・司苑・司灯(尚寝局)、司製・司宝・司綵・司織(尚工局)を置き、それぞれに典・掌を副えた。品秩は尚が従五品、司が従六品、典が従七品、掌が従九品とされた。
出自と高祖との結婚
- 文献独孤皇后は河南洛陽の人で、北周の大司馬・河内公独孤信の娘。信は高祖(楊堅)の非凡な人相を見込んで娘を娶らせ、時に后は14歳であった。高祖と后は互いに深く信頼し、他の女に子をなさぬことを誓い合った。当初の后は柔順恭孝で婦道を守った。
- 后の姉は北周明帝の后、長女は北周宣帝の后となり、外戚として並ぶ者のない栄華を誇ったが、后は常に謙虚であり世に賢と称された。北周宣帝の崩御後、高祖が禁中で百官を統べていた際、后は使者を遣わし「事はすでにここまで来た、獣に騎る勢いは今さら下りられない、努めよ」と勧めて禅譲を後押しし、高祖受禅後に皇后に立てられた。
政治への関与
- 突厥との交易で価値800万銭の真珠の箱が持ち込まれた際、幽州総管の陰寿が購入を勧めたが、后は「今は戎狄がしばしば侵し将士が疲弊している、800万銭は功労者への恩賞に充てるべき」と退け、百官が賀した。高祖は后を寵愛しつつも畏憚した。
- 上が朝政に臨む際、后は常に輦を並べて閣まで同行し、宦官を使って上の政の過失を察知させては諫めるなど、政治に大きく影響を与えた。両親を早く失った后は、公卿で父母のある者を見るたび礼を尽くした。
- 有司が「周礼に倣い、百官の妻は王后の命を受けるべき」と奏上した際、后は「婦人が政に関与する端緒を開いてはならない」と許さなかった。また諸公主に対し、北周の公主が舅姑への礼を欠き骨肉の情を薄くしたことを戒めとして戒めた。
- 大都督崔長仁(后の従兄弟)が法を犯して斬に当たった際、高祖が后のために赦そうとしたが、后は「国事に私情を挟んではならない」と拒み、長仁は処刑された。
- 后の異母弟の独孤陀が猫鬼の巫蠱で后を呪詛し死罪に問われた際は、后は3日間食を絶って命乞いをし、陀は死一等を減じられた。后と上は政事についてしばしば意見が一致し、宮中では「二聖」と称された。
嫉妬と晩年
- 后は仁愛深く、大理が囚人を裁決するたびに涙を流したが、性は特に嫉妬深く、後宮の女官は誰も寵を受けられなかった。
- 尉遅迥の孫娘で美貌の女性が上の寵愛を受けたことを知った后は、上が朝に出ている間にひそかに彼女を殺した。怒った上は単騎で苑を出て山谷に入り込み、高熲・楊素らが追いついて諫めた。上は「天子でありながら自由にならぬ」と嘆き、高熲が「一婦人のために天下を軽んじるのですか」と諫めて怒りが解け、深夜に宮へ戻った。后は流涕して謝罪し、以後意気消沈した。
- この一件以来、后は高熲が自分を「一婦人」と評したことを恨み、また高熲の妾が男児を生んだことも快く思わず、以後高熲を讒言し始めた。上も万事后の言に従うようになった。后は妾に妊娠した諸王・朝士を見ると必ず上に退けさせるよう勧めた。
- 皇太子(楊勇)に寵妾が多く、妃元氏が急死した際、后は太子の愛妾雲氏が害したと疑い、これを機に高熲を退けさせ、太子を廃して晋王広(後の煬帝)を立てさせた。これらはすべて后の謀によるものであった。
- 仁寿2年8月甲子、月が四重に暈をなし、己巳に太白が軒轅を犯した。その夜、后は永安宮で崩じた。時に50歳。太陵に葬られた。その後、宣華夫人陳氏・容華夫人蔡氏が寵を得て上を惑わせ、これにより上は発病した。危篤の際、上は侍者に「皇后がいれば、私はこうはならなかった」と語ったという。