隋書卷二十四 志十九 食貨

序-食貨思想の総論

  • 王者は土地を測って邑を定め、人を住まわせ、山沢の利を計って民の農商を本業とさせる。『書』が「有無を移し変え穀貨を流通させる」と説くのはこのことである。周の太府は九貢九賦の法を掌り、王の経費に等差を設けた。道をもって取り、節をもって用いるからこそ百官の政・戦士の功を養い、天災を救い遠方を服せしめる国家経営の根本となる。軒轅・顓頊から堯・舜に至るまで、民の利を因として勧め、時を奪わず力を窮めず、税を軽くし賦を薄くしたのが五帝三皇の教えであった。
  • 「民を治める者は民の力を惜しんでその財を成す」という古語がある。道によらず取り立てれば、財が尽きれば怨み、力が尽きれば叛く。禹は九等の貢を制して「康歌」が興り、周は十分の一税で頌声が作られた。東周が洛に遷ってからは諸侯が法を乱し、魯の宣公は初めて畝に税をかけ、鄭の子産は丘賦を立て、先王の制はことごとく失われた。
  • 秦は西戎から興り天下を武力で平定し、刑罰で駆り仁恩を棄てた。収穫の太半を取り立てて長城を築き、人頭税(頭会の斂)で嶺外の戍卒を苦しめた。漢の高祖は秦の疲弊を承けて十五税一とし、中元年間には府庫が豊かになった。武帝(世宗)の代には奢侈が興り、辺境で胡を撃ち国庫を空にした。宮殿は天漢に届くほど壮麗になり、巡遊は海表に及び、旱魃の年に道を修め凶年に馬を秣った。戸口は半減し盗賊が公然と横行し、童子にまで賦を課し船車にまで税をかける詭計が現れた。光武帝は中興にあたり前代の弊を改め、税制は簡素になり長く保たれた。霊帝は鴻都門に売官の榜を掲げ、公卿州郡それぞれに等差をつけて官を売った。土貢の方物についても、あらかじめ中署へ運ばせる「導行」の名目で賄賂を取り、天下の人々がその弊を受けた。魏・晋二十一帝、宋・斉十五主の間は、用度に多少の差はあれ、おおむね人の産業を傾けるほどの苛政には至らなかった。

隋文帝の倹約と煬帝の奢侈

  • 隋の文帝は江表を平定して天下統一すると自ら倹約を実践し、府帑を大切にした。開皇17年(597年)には戸口が増え中外の倉庫は満ち、支給も経費を超えず、京司の倉が満ちて廊廡の下にまで積まれたため、高祖はその年の正賦の徴収を停止し民に賜った。
  • 煬帝は帝位を継ぐと国家の富を頼み、壮麗な建造物を好んで東都洛陽を造営した。かつて藩王として江左を平定し梁・陳の様式を取り入れて規模を定めた。芒山を越える曲輪の城壁、洛水にかかる浮橋、金門象闕など飛観がそびえ、山を崩し川を塞いで雲綺のごとき建築を構え、嶺の樹を移して林藪とし、芒山を包んで苑囿とした。長城や御河の工事は人力を計らず、驢馬を徴発して百姓に期限を課し、天下の民は労役で死に、家財を傷めた。
  • さらに吐谷渾(渾庭)を討ち、三度遼澤に親征し、水陸から兵糧を輸送した。国境での敗死・労役死は多く、太半が帰らなかったが、毎年徴発が続き、良家の子弟が次々と辺陲へ赴き、州県には離別の哭声が響いた。老弱が耕作しても飢えを救えず、婦女が紡績しても軍装をまかなえなかった。天下では常に行幸の鑾駕が動き、従行の宮掖は常に十万人に及び、供給はすべて州県に仰いだ。租賦のほかにも徴斂が課され、官吏はこれに乗じて中間搾取し、太半を盗んだ。遠方の珍膳・翔禽の羽毛も官が千倍の価で買い上げ、民は堪えかねて家を捨てた。
  • 燕・趙から斉・韓、江・淮から襄・鄧、東は洛邑、西は隴山に至るまで僭偽の勢力が交々侵し、盗賊が満ちた。宮観は雑草に覆われ郷亭は煙火を絶ち、人が人を食らうこと十に四、五に及んだ。関中では疫病と旱魃が重なり、代王(楊侑)は永豐倉を開いて飢民を賑わせたが、倉から数百里離れた老幼が雲集し、貪残な官吏の下では賑給が旬月も遅れ、多くが野に倒れて死体が積み重なった。隋の滅亡はこうした事情にも由来する。

史官の言(司馬遷・班固に倣う旨)

  • 司馬遷は「平準書」、班固は「食貨志」を著し、上下数千年の得失をあらまし記した。それ以来史官がこの分野を記すことは絶えていた。人が生きる根本は食貨にある。聖王は井田を分かち民の生業とし、財貨を通わせて富ませ、富ませて教化すれば仁義が興り、貧しくて盗みを働く者には刑罰も止められない。それゆえここに食貨志を立て、前史の末に編む。

東晋・宋斉梁陳の税制

  • 晋が中原の乱で失われて以降、元帝は江左に寓居し、南奔した百姓を「僑人」と呼んだ。彼らは旧郷の名を取って僑立の郡県を立て、多くは土着せず散居した。江南の風俗は火耕水耨で、土地は低湿で蓄えに乏しかった。蛮族・俚洞の住民には王化の程度に応じて賧物(貢納品)を取り国用に充てた。嶺外の酋帥は生口・翡翠・明珠・犀象の富で郷里に権勢を持ち、朝廷はしばしばこれを官に任じてその利を収めた。宋・斉・梁・陳を通じてこの制は変わらなかった。軍国の雑物は土地の産物に応じて臨時に折課して市取し、定まった法令はなかった。州郡県ごとに土地の産物を制して徴賦とした。
  • 戸籍に入らない浮浪人は輸納も定数がなく、量に任せて所輸を准じたが、いずれも正課より優遇された。都下の人の多くは諸王公貴人の左右・佃客・典計・衣食客となり課役を免れた。官品第一・第二の佃客は四十戸まで、第三品三十五戸、第四品三十戸、第五品二十五戸、第六品二十戸、第七品十五戸、第八品十戸、第九品五戸。佃穀は大家と量分した。典計は官品第一・第二で三人、第三・第四で二人、第五・第六及び公府参軍以上で一人置き、いずれも佃客数に通算した。官品第六以上は衣食客三人、第七・第八は二人、第九品及び轝輦・跡禽・前驅ら諸武官は一人まで置け、客はすべて家籍に注記された。
  • 課役は丁男が調として布絹各二丈・糸三両・綿八両・祿絹八尺・祿綿三両二分・租米五石・祿米二石を納め、丁女はその半分。男女とも十六歳から六十歳までを丁とし、男は十六歳で半課、十八歳で正課、六十六歳で免課。女は嫁した者を丁とし、未婚(在室)なら二十歳で丁とした。丁男の歳役は二十日を超えず、十八人につき一人を運丁役に出した。田は畝ごとに米二斗を税とした。度量衡は当時の斗三斗が現行(隋代)の一斗、称三両が一両、尺一尺二寸が一尺に相当した。
  • 倉には京都に龍首倉(石頭津倉)・臺城内倉・南塘倉・常平倉・東西太倉・東宮倉があり、貯蔵総量は五十余万にすぎなかった。地方には豫章倉・釣磯倉・銭塘倉などの大貯蔵地があり、他の州郡台伝にも倉があった。侯景の乱以降、国用は常に窮乏し、京官文武は月ごとに廪食を得るのみで、多くは遠隔の郡県官を兼帯してその祿秩を取った。揚・徐など大州は令・僕に准じた班、寧・桂など小州は参軍に准じた班、丹陽・呉郡・会稽などの郡は太子詹事・尚書に准じた班、高涼・晋康など小郡は三班にとどまり、大県は六班、小県は両転してやっと一班に至るなど品第が細かく複雑であった。州郡県の祿米・絹布・糸綿は現地の台伝倉庫に輸納し、刺史・守令らには部下の文武人員数に応じ勅裁で支給した。祿秩は兵士への支給を兼ねるため、当人の取り分は少なかった。諸王諸主が就第・婚冠する際の費用や衣裳・酒米・魚鮭・香油・紙燭などは官が支給したが、外任地の王・主婿には支給されず、任を解いて帰京すれば再び公給された。

北魏・北斉の税制

  • 魏では永安以降政治が乱れ寇乱が頻発し、農商が業を失った。征伐のたびに人から権に調発し、それでも足りず互いに糾発させ、百姓は愁い怨んだ。やがて六鎮が乱れ内徙し、斉・晋の地に寓食するようになり、これを基盤に高歓(斉神武)が大業を成した。魏の孝武帝が西遷した後は戦争が連年続き河洛の間は空竭した。天平元年(534年)、鄴に遷都し粟百三十万石を出して貧民を賑わせた。六坊の兵で武帝に従い西へ行った者は万人に満たず、残りは北徙して常廪と春秋二回の帛の支給を受けた。常調のほか豊作の地で絹を粟に折糴して国儲に充て、河津の要地には官倉を設けて漕運に備え、滄・瀛・幽・青四州の沿海には塩官を置いて煮塩させ税収を得た。以後倉廩は充実し、水旱凶饑があっても開倉して賑わせることができた。元象・興和年間には連年豊作で穀一斛が九銭にまで下がった。当時法網が緩み百姓は旧居を離れて徭賦を欠く者が多く、高歓は孫騰・高隆之に無籍の戸を調査させ六十余万口を得、僑居者を本属に戻したことで租調収入が増した。文襄(高澄)が後を継ぐと侯景が背叛し河南の地は兵革に苦しみ、やがて侯景が梁を乱すと辛術を行台として淮南の地を得たが、新附の州郡は覊縻して軽税にとどめた。
  • 文宣帝(高洋)の受禅後、多くの制度改革が行われた。六坊の内徙兵は精選され百人に一人という「百保鮮卑」を選び、また武勇に優れた漢人を「勇士」として辺要に備えた。九等の戸制を立て富者は銭を税とし貧者は力役に服させた。北で長城の役、南で金陵の戦があり、その後の南征では将が相次いで陥没し士馬の死者は数十万に及んだ。台殿の造営も広く行われ、帝の刑罰は酷濫で吏道は姦を生み、豪族の兼併により戸口の隠漏が増えた。旧制で未婚者は半牀の租調を出すことになっていたが、陽翟郡だけで戸数万のうち籍上妻無しとする者が多く、有司が弾劾しても帝は「事を生ずるな」として不問にしたため姦欺はさらに甚だしくなり、戸口租調の十のうち六、七が失われた。
  • 用度が増大し賜与に節度がなく府蔵が不足したため、百官の祿を減らし軍人の常廪を撤し、州郡県鎮戍の職を併省した。刺史・守宰の兼職者には幹(従者手当)を支給しないことで国費を節した。
  • 天保8年(557年)、冀・定・瀛の無田の民を幽州范陽の寛郷へ移す「楽遷」策が議されたが百姓は驚擾した。連年の不作で米価が高騰した。廃帝乾明年間、尚書左丞蘇珍芝の建議で石鼈などの屯田を修め歳数万石を収め、淮南の軍防の糧廩が充足した。孝昭皇建年間、平州刺史嵇曄の建議で幽州督亢の旧陂を開き長城沿いに屯営を置き歳数十万石の稲粟を収め北境が潤った。また河内に懐義などの屯を置き河南の費に充て、以後転輸の労は減った。
  • 河清3年(564年)の定令で、十家を比隣、五十家を閭里、百家を族党とし、男子十八歳以上六十五歳以下を丁、十六・十七歳を中、六十六歳以上を老、十五歳以下を小と定めた。十八歳で受田し租調を輸め、二十歳で兵に充て、六十歳で力役を免じ、六十六歳で田を返し租調を免じた。
  • 京城四面、諸坊外三十里以内を公田とし、三県の代遷戸執事官一品以下・羽林武賁までに等差をつけて支給、外畿郡でも漢人官第一品以下・羽林武賁以上に等差をつけて支給した。職事官・百姓で墾田を願う者には「永業田」を与えた。奴婢の受田数は親王三百人、嗣王二百人、第二品嗣王以下・庶姓王百五十人、正三品以上・皇宗百人、七品以上八十人、八品以下庶人まで六十人を上限とし、限外の奴婢には田を給せず輸税もさせなかった。畿外・州人は一夫が露田八十畝、婦が四十畝を受け、奴婢は良人に準じ限数は在京百官と同じとした。丁牛一頭につき田六十畝を受け上限四頭まで。丁ごとに永業田二十畝(桑田)を給し、桑五十根・楡三根・棗五根を植えさせ、この分は還受の対象外とした。桑に適さぬ土地には麻田を桑田と同じ法で給した。
  • 一牀ごとに調として絹一疋・綿八両(うち十斤の綿につき一斤を糸に折る)・墾租二石・義租五斗を課し、奴婢は良人の半分。牛の調は二尺・墾租一斗・義租五升。墾租は台に送り、義租は郡に納めて水旱に備えた。墾租は貧富により三梟(等級)に分け、常調は少ない者ほど上戸から、多い者ほど下戸から出させた。上梟は遠地へ、中梟は次遠地へ、下梟は当州倉へ輸め、三年に一度戸等を校した。台へ入れる租は五百里以内は粟、五百里以遠は米。州鎮へは粟を輸め、銭で輸めたい者は絹の値に准じて銭で収めた。諸州郡は別に富人倉を置き、当初は中下戸の口数に応じ一年分の糧を支給できる量とし、穀価の安い時に義租から割り当て、穀高の時に安く売り、安い時に元の物を買い戻して蓄えた。
  • 毎年春には郷土の早晩に応じ農桑を課し、春から秋にかけ十五歳以上の男は田畝に従事、養蚕期には十五歳以上の女が蚕桑に従事した。孟冬には刺史が邦教の優劣を審査し殿最(成績評価)を定めた。人力はあるが牛のない者、牛はあるが人力のない者は互いに融通させ、地の利を余さず遊民を出さないようにした。
  • 辺境の城守地で開墾可能な土地はすべて屯田とし都使・子使を置いて統べさせた。子使一人は田五十頃を担当し、歳末に収入を考課して褒貶した。
  • この頃連年の大水で州郡が水没し穀価が高騰、朝廷は使者を遣わし高値で開倉放出したが百姓の益にはならず飢饉はさらに深刻化し、疫病も重なり死者は十の四、五に及んだ。
  • 天統年間には東宮を毀し修文・偃武・隆基の嬪嬙諸院や玳瑁楼を造営、遊豫園に池を穿ち周りに列館を巡らし中に三山・台を構えて滄海を象り、仏寺も大修して労役は巨万を数えた。財用が不足すると朝士の祿を減じ、諸曹の糧膳・九州軍人の常賜を断って充てた。武平以後は権幸が並び進んで賜与が際限なく、旱蝗も重なり国用はますます窮した。境内の富人を六等に分け出銭を命じ、給事黄門侍郎顔之推の奏請で関市・邸店の税を立て開府鄧長顒がこれに賛成、後主は大いに喜んだ。この収入は御府の声色の費に充てられ軍国の用には及ばず、まもなく北斉は滅んだ。

北周の食貨制度

  • 北周太祖(宇文泰)が丞相となり六官を創制した。載師は任土の法を掌り夫家・田里の数を弁じ六畜車乗を稽し賦役の斂弛を審らかにし畿疆の域を定め施恵の要を頒ち牧産の政を審らかにした。司均は田里の政令を掌り、口数十以上の家は宅地五畝、九口以上は四畝、五口以下は三畝、有室者は田百四十畝、丁者は田百畝とした。司賦は功賦の政令を掌り、十八歳から六十四歳までと軽癃者(軽度の障害者)に賦課し、有室者は歳絹一疋・綿八両・粟五斛を超えず、丁者はその半分、非桑土では布一疋・麻十斤、丁者はその半分とした。豊年は全賦、中年は半分、下年は三分の一とし、飢饉の年は徴収しなかった。司役は力役の政令を掌り、十八歳から五十九歳までを対象に豊年三十日・中年二十日・下年十日を超えぬ範囲で徴発、一家から一人を超えて徴発せず、八十歳の親がいれば一子を、百歳の親がいれば家全体を免除し、廃疾で扶養者が要る家は一人を免除、凶札の年は力役を徴さなかった。掌塩は四種の塩(海水を煮る散塩、池水による盬塩、地から出る形塩、戎地で採る飴塩)を掌り、盬塩・形塩は採取地ごとに禁を定め税を課した。司倉は九穀を弁じ国用を量り、余剰は凶荒に備えて蓄え、不足すれば粟を貸し春に頒ち秋に斂めた。
  • 閔帝元年(557年)、市門税を初めて廃止したが、宣帝の即位後に入市の税が復活した。武帝保定元年(561年)、八丁兵を十二丁兵に改め年一月の役とした。建徳2年(573年)、軍士を侍官と改め百姓を募って充て県籍から除いた。以後夏人(漢人)の半ばが兵となった。宣帝の時、山東諸州から徴発し功を一月から四十五日役に増やして洛陽宮を興し、相州六府を洛陽に移して東京六府と称した。武帝保定2年(562年)正月、蒲州に河渠、同州に龍首渠を開いて灌漑を広げた。

隋文帝の税制改革

  • 高祖(文帝)は即位すると東京の役を罷め入市の税を除いた。尉迥・王謙・司馬消難が相次いで叛逆し討伐の師を興したため賞費は巨万に及んだ。受禅後、遷都して山東の丁を発し宮室を造営した。周制に依り役丁を十二番、匠は六番とした。新令を頒ち、五家を保(保長を置く)、五保を閭(閭正)、四閭を族(族正)とし、畿外には里正・党長を置いて閭正・族正に准じ相検察させた。男女三歳以下を黄、十歳以下を小、十七歳以下を中、十八歳以上を丁とし、丁は課役に従い六十歳で老となり免除された。諸王以下都督までに永業田を等差をつけて支給(多い者百頃、少ない者四十畝)。丁男・中男の永業露田は北斉の制に倣い、桑・楡・棗を植えさせた。園宅は三口で一畝、奴婢は五口で一畝の割合で支給。丁男一牀の租は粟三石、桑土は絹絁(絁一疋につき綿三両を加える)、麻土は布絹(布一端につき麻三斤を加える)で調を納め、単丁・僕隷はその半分とし、未受地の者は課さなかった。品爵ある者や孝子順孫・義夫節婦は課役を免じた。京官には職分田を給し、一品五頃から品ごとに五十畝ずつ差をつけ五品で三頃、六品二頃五十畝、以下も五十畝刻みで九品一頃とした。外官にも各職分田があり、公廨田を給して公用に充てた。
  • 開皇3年(583年)正月、帝は新宮に入り、軍人の成丁年齢を二十一歳に定め、十二番の役を年二十日に減じ、調の絹一疋を二丈に減らした。従来は周末の弊風で官が酒坊を置いて利を収め塩池・塩井の民間利用を禁じていたが、この時酒坊を廃し塩池・塩井を百姓と共有させ、遠近の民は大いに喜んだ。
  • 当時突厥が塞を犯し吐谷渾が辺を侵し軍旅がしばしば興り転輸の労が重なったため、朔州総管趙仲卿に長城以北で大規模な屯田を興させ塞下を実らせ、河西でも百姓に堡を立てさせ営田積穀させた。京師には常平監を置いた。
  • 山東はなお斉の旧俗を承け機巧姦偽が盛んで、役を避け惰遊する者が十のうち六、七に及んだ。各地の疲弊した民は老小を詐称して租賦を免れようとした。高祖は州県に大索貌閲(戸口の実地調査)を命じ、戸口が不実な正長は遠くに配流し、また相互告発の科(連坐)を開いた。大功以下の親族には分籍させて各戸頭とし容隠を防いだ。これにより計帳では四十四万三千丁が新たに把握され、新附の口数は百六十四万一千五百に及んだ。
  • 高熲はさらに、課輸に定分があっても年々の徴納・除注が恣意的で長吏が情に任せ文帳が定まらず推校が難しいとして「輸籍定様」を作り諸州に頒布するよう請うた。毎年正月五日、県令が巡行し近隣の五党・三党を一団として様式に依り戸の上下を定める仕組みで、帝はこれに従い、以後姦は容れられなくなった。
  • 太平が長く続き水旱に見舞われても戸口は年々増加した。諸州の調物は毎年、河南は潼関から、河北は蒲坂から京師に達し、道々に絶えず数月続いた。帝は自ら倹約を実践し六宮も洗濯した衣を着し、乗輿の古びた道具も補い改作せず、宴享でなければ食は一肉のみとした。有司が乾姜を布袋に入れて進上した際は費用の無駄として叱責し、後に氈袋で香を進めた時も答責して戒めとした。これにより内外が職務に励み府帑は充実し、百官の祿賜・功臣への賞も豊厚に出た。開皇9年(589年)、陳を平定した帝は朱雀門で凱旋の師を労い慶賞を行い、門外から南郭まで布帛を並べて次第に頒給し、費用は三百余万段に及んだ。江表平定を理由に十年の免税、他州も当年の租賦を免じた。開皇10年(590年)5月には天下無事を理由に徭賦をさらに緩め、五十歳以上の者には庸を輸めさせて防人役を停めた。開皇11年(591年)に江南が再び反した際は越国公楊素が討平し、師の帰還に多くの賜物があり、出師の褒賞はいずれも手厚かった。開皇12年(592年)、有司が「庫蔵はみな満ちています」と上言すると、帝は「私は民から薄く取り、多く賜与しているのになぜ満ちるのか」と問い、対して「支出も入るも常であり、毎年の賜用は数百万段に及ぶが減少していません」と答えた。そこで左藏の院を新たに開き屋を構えて収めさせた。詔して「富んで後に教えるべきで、民を富ませず府庫に蓄えることは望まない。河北・河東の今年の田租は三分の一を減じ、兵役は半減、功調は全免とする」と述べた。
  • 天下の戸口が増える一方、京輔・三河は地が狭く人が多く衣食が不足したため、寛郷への移住が議論され、帝は諸州の考使に議論させ、尚書に方策を四方の貢士に策問させたが良案は出なかった。帝は使者を四方に発して天下の田を均し、狭郷では丁一人あたりわずか二十畝しかなく老小はさらに少なかった。
  • 開皇13年(593年)、帝は楊素に命じて岐州北に仁寿宮を造営させた。楊素は山を削り谷を埋め観宇・台榭を営み、役使が厳しく丁夫の死者が多く、疲弊して倒れた者は坑に押し込め土石で覆って平地とし、死者は万を数えた。宮の完成後帝が行幸した際、暑月で死者が道に連なっていたため楊素はこれをすべて焼き払った。帝はこの事を知り不悦であったが、新宮に入って遊観すると喜び、楊素を忠と評した。後に帝が歳暮に仁寿殿に登り原野を望むと燐火が満ち哭声が聞こえ、左右に問うと「鬼火です」と答え、帝は「この者たちは工役で死に、年の暮れに魂魄が帰りたいのだろう」と述べ酒を灑いで勅を宣べ弔った。以後この怪異は止んだ。
  • 開皇3年(583年)、京師の倉廩がなお乏しいことを憂い水旱への備えとして蒲・陝・虢・熊・伊・洛・鄭・懐・邵・衞・汴・許・汝など水路沿い十三州に募運米丁を置いた。衞州に黎陽倉、洛州に河陽倉、陝州に常平倉、華州に広通倉を置いて互いに転漕させ、関東および汾・晋の粟を京師に運んだ。倉部侍郎韋瓚を遣わし、蒲・陝以東で洛陽から常平倉まで米四十石を運べる者を募り砥柱の険を越えさせ征戍を免じた。渭水は砂が多く水量が一定せず漕運が難儀だったため、開皇4年(584年)の詔で東の潼関から西の渭水を引く漕渠開削を命じ、宇文愷に水工を率いさせ大興城東から潼関まで三百余里の渠を開かせ「広通渠」と名づけた。以後関内は水運の利を得、水旱凶饑の州にも便宜的に開倉賑給できるようになった。
  • 開皇5年(585年)5月、工部尚書・襄陽県公長孫平が「古は三年耕して一年の余を蓄え九年で三年分の備えを作った。それゆえ水旱があっても民は飢えず、勧導と蓄積があってこそである。昨年の旱で関内が不作の際、陛下は民を憐れみ山東の粟を運び常平の官を置いて倉廩を開き賑給された。おかげで少食の者もみな足りた。豪族富室も競って私財を出し互いに賙給した。これは風化によるものだが、経国の理としては定式が必要」と奏上した。これにより諸州の百姓・軍人に当社ごとの義倉設立を勧課し、収穫時に応じて粟・麦を出させ社倉に貯め、社司が帳簿を検校して損なわぬよう管理し、不作・飢饉の際にはこの穀で賑給する制度が定まり、諸州の貯えは充実した。その後関中で連年大旱があり、青・兗・汴・許・曹・亳・陳・仁・譙・豫・鄭・洛・伊・潁・邳などの州では大水となり百姓が飢饉に陥ったため、高祖は蘇威らに分道して開倉賑給させ、司農丞王亶に広通倉の粟三百余万石を発して関中を救わせ、故城の周代の旧粟を安く売り、牛驢六千余頭を買って貧民に分け関東への移住を促し、水旱の州は当年の租賦を免じた。
  • 開皇14年(594年)、関中大旱で人々が飢え、帝は洛陽へ行幸し百姓を食に就かせ、従官もみな官位に関わらず口数で賑給した。翌年東巡し泰山を祠った。この頃義倉の穀が民間で浪費されることが多く、開皇15年(595年)2月の詔で「義倉は本来水旱に備えるものだが、百姓は久計を思わず軽々に費損し後で乏絶している。北境の雲・夏・長・霊・塩・蘭・豊・鄯・涼・甘・瓜等州の義倉雑種はすべて本州に納め、旱儉で糧の少ない者にはまず雑種と遠年の粟から与えよ」と定めた。開皇16年(596年)正月には秦・疊・成・康・武・文・芳・宕・旭・洮・岷・渭・紀・河・廓・豳・隴・涇・寧・原・敷・丹・延・綏・銀・扶などの州の社倉を各県に安置するよう詔し、2月には社倉の税を上中下三等(上戸一石、中戸七斗、下戸四斗)以内に定めた。その後山東で連年の霖雨により杞・宋・陳・亳・曹・戴・譙・潁などの州から滄海に至るまで水害を被り各地が水没した。開皇18年(598年)、天子は水工を遣わし川源を巡行させ高低を調べ近隣の丁を発して疏導させ、困窮者には開倉賑給し前後合わせて穀五百余石を用いた。水害の地は租調を免じ、以後は豊年が続いた。
  • 開皇8年(588年)5月、高熲は課調のない州や課戸の少ない州の官人の祿力が従来隣接する州から出されていたことについて、判官は本来牧民の職であり役力はその管轄内から出すべきとして、管轄戸内で計戸徴税するよう請い、帝はこれに従った。それまで京官・諸州には公廨銭が支給され、これを廻易(貸付運用)して公用に充てていたが、開皇14年(594年)6月、工部尚書・安平郡公蘇孝慈らは、官司が公廨銭で貸付営利を図り百姓を煩わせ風俗を損なうことは甚だしいとして、田地を給して営農させ廻易を禁止するよう奏上した。開皇17年(597年)11月には京内外の諸司の公廨について市での廻易や興生を許すが、貸付収利のみは禁ずるとの詔が出た。

隋煬帝の税制と労役

  • 煬帝が即位すると戸口はさらに増え府庫は満ち、婦人・奴婢・部曲の課役を除いた。男子の成丁年齢は二十二歳とされた。東都造営を始め、尚書令楊素を営作大監とし毎月丁二百万人を役した。洛州郭内の人と天下諸州の富商大賈数万家を移してこれを実らせた。興洛倉・廻洛倉を新設し、皁澗に顕仁宮を営み、苑囿は北は新安、南は飛山、西は澠池まで周囲数百里に連なった。天下諸州に草木花果・奇禽異獣の貢献を課した。渠を開いて穀水・洛水を引き苑の西から入れ東で洛水に注がせ、板渚から黄河を引いて淮海に達する「御河」を通し、河畔に御道を築き柳を植えた。黄門侍郎王弘・上儀同於士澄を江南諸州に遣わし大木を採らせ東都へ運ばせ、経過する州県は千里絶えることなく往復送迎に追われた。東都の役使は過酷で倒れて斃れる者が十の四、五に及び、毎月死んだ丁の遺体を運ぶ車が東は城臯、北は河陽まで道に連なった。帝が遼東・碣石への出征を計画し軍府を増設し全土から兵を徴発したため、以後租賦の収入はさらに減った。
  • また龍舟鳳䑽・黄龍赤艦・楼船篾舫を造らせ、水工を募って「殿脚」と称し錦の行幐を着せ青糸の綱で船を挽かせ江都へ行幸した。帝は龍舟に乗り、五品以上の文武官には楼船、九品以上には黄篾舫を給し、舳艫は二百余里に連なった。経過する州県には供頓を命じ、豊かに献じた者には官爵を加え、乏しい者は死罪に処された。車輿・輦輅・旌旗・羽儀の装飾も盛んに修められ、天下州県に骨角歯牙・皮革毛羽など器物や氅毦(羽毛の飾り)の材料を徴発し、急な命令で網羅が野に満ち水陸の禽獣がほぼ尽きても足らず、豪富の蓄積を高値で買い上げた。この年、翟雉の尾一本が絹十匹に相当し、白鷺の羽毛はその半値であった。
  • 屯田主事常駿を赤土国に使わし羅剎を献じさせ、朝請大夫張鎮州に流求を討たせ数万を捕虜としたが、瘴癘に倒れ餓死病死した士卒は十の八、九に及んだ。西域の宝物を求めて裴矩を張掖に遣わし諸商胡の互市を監督させ利で誘って入朝を勧め、西域諸蕃の往来が続き経過する州郡は送迎に疲弊し費用は万万を数えた。
  • 翌年、帝は北巡し、百万余の民を興して西は榆林、東は紫河まで千余里の長城を築かせ、死者は太半に及んだ。大業4年(608年)、河北諸郡から百余万を発して沁水を引き南は黄河、北は涿郡に通じさせ、丁男が足りず婦人も従役させるようになった。大業5年(609年)、西は河右を巡行し、迎える西域諸胡は金玉錦罽で着飾り香を焚き楽を奏でた。帝は武威・張掖の士女に盛装させ見物させ、衣服車馬の見劣りする者は州県が督課して華美さを誇示させた。この年帝は吐谷渾を親征し赤水で破り、慕容佛允は家属を捨てて青海へ逃れた。帝が兵を駐めて出さず大斗抜谷で霖雨に遭い、士卒の死者は十の二、三、馬驢は十の八、九に及んだ。河源郡・積石鎮を置き、西域には西海・鄯善・且末などの郡を置き、天下の罪人を戍卒に配して大規模な屯田を興し西方諸郡の運糧を発してこれに充てたが、道は遠く寇抄にも遭い死亡が相次いだ。
  • 大業6年(610年)、高麗遠征のため兵馬の損耗が既に多いと有司が奏上すると、天下の富人に貲産に応じ銭を出させ軍馬を買わせ元数を補い、点検した兵器も精良を要求し粗悪なら斬に処すとしたため馬は十万匹に達した。大業7年(611年)冬、涿郡に大会し江淮の南兵を分けて驍衛大将軍来護児に配し別に水軍で滄海を渡らせ舳艫は数百里に及び、軍糧を載せて平壤で大兵と合流する予定とした。この年山東・河南で大水があり四十余郡が水没し、遼東での大敗も重なり数十万が死に、疫病もあって山東はとくに深刻であった。各地では徴斂と軍旅供給を専らとし民の困窮を顧みなかった。急な徭役・賦役が課されるたびに長吏はまず安値で買い占め、後に高値で売り、日暮れの間に値が数倍に膨らみ苛斂誅求で一時をしのいだ。強者は集まって盗賊となり弱者は自ら身を売って奴婢となった。大業9年(613年)、関中の富人に貲産に応じ驢馬を出させ伊吾・河源・且末への運糧に充て、多い者は数百頭、一頭の値は万余に及んだ。諸州の丁を四番に分け遼西柳城で屯営させたが往来は苦しく生業は尽き果てた。盗賊が四起し道路は南北に絶え、隴右の牧馬は奴賊に奪われ、楊玄感が乗じて乱を起こした。帝は遼東でこれを聞き急ぎ高陽郡に戻った。玄感平定後、帝は侍臣に「玄感が一呼するとたちまち市のように従う者が集まった。天下の人は多くいてはならず、多ければ賊になる。尽く誅さねば後の見せしめにならない」と語り、裴蘊に党与を追及させ郡県に坑殺を命じ、死者は数えきれず各地が驚駭した。天下の人の十のうち九が盗賊となり武馬を盗み長槍を作り城邑を攻め落とすようになった。帝は郡県に督捕を置いて討伐させ、遼東遠征への募兵をさらに増やしたが馬が足りず八駄を六駄に減らし、それでも足りずに驢馬を混ぜ、逃亡者が相次ぎ捕らえられれば斬られたが止められなかった。帝は不快であった。高麗が叛臣斛斯政を捕らえて送り降伏を求めると赦を発し、京師に至った斛斯政は開遠門外で磔にされ射殺された。帝は太原に行幸し突厥に雁門で包囲されたが突厥は間もなく散り、洛陽に戻って驍果を募り旧数に補った。
  • この頃百姓は生業を廃し城堡に集まり自活できなくなったが、各地の倉庫はなお満ちており、官吏は法を恐れて賑救しようとせず、困窮はさらに深まった。当初は木の皮を剥いで食べ、やがて葉も尽きると土を煮たり藁を擣いて粉にして食べ、ついには人が人を食らうに至った。大業12年(616年)、帝は江都に行幸した。この頃李密は洛口倉を拠点に百万の衆を集め、越王侗(楊侗)は段達らと東都を守った。東都城内は糧が尽き布帛が山積みとなり絹を汲み綱に、布を薪の代わりに燃やす有様であった。代王侑(楊侑)と衞玄は京師を守ったが百姓の飢饉を救えなかった。義師が長安に入り永豐倉を開いて賑給し、百姓はようやく蘇息した。

貨幣史-東晋・宋・斉・梁・陳(銭税制度)

  • 晋の南渡以来、奴婢・馬牛・田宅の売買には文券があれば銭一万につき四百を「輸估」として官に納め、売り手が三百、買い手が百を負担した。文券のない場合も物の値に応じ百分の四を課し「散估」と呼んだ。宋斉梁陳を通じてこれを常とした。これは田業を怠り商販に走る風潮を懲らしめる名目だったが、実際は民から利を削ることにあった。都の西に石頭津、東に方山津があり、それぞれ津主一人・賊曹一人・直水五人を置いて禁制品や逃亡者・叛者を検察し、荻炭・魚薪などの通過品には十分の一の税を課した。東路には禁貨がなく方山津の検察は簡易であった。淮水の北には大市百余・小市十余があり、大市には官司を備え税斂が重く、当時の人々を苦しめた。

貨幣史-梁

  • 梁初、京師・三呉・荊・郢・江・湘・梁・益では銭を用い、その他の州郡は穀帛を交え、交・広の域はもっぱら金銀を貨とした。武帝は「五銖」の文の銭を鋳造し、別に肉郭を除いた「女銭」も鋳造して両者を併用した。百姓は私に古銭(直百五銖・五銖・女銭・太平百銭・定平一百・五銖雉銭・五銖対文等)を用い軽重は一定しなかった。天子はしばしば新鋳二種以外の使用を禁じたが、利を追う者の私用はかえって増えた。普通年間には銅銭をすべて廃し鉄銭に改める議論が起こり、鉄は賤しく得やすいため私鋳が横行した。大同以後、鉄銭は丘のように積まれ物価が高騰し、取引では車で銭を運び貫(さし)でのみ数えるようになった。商旅の姦詐がこれに乗じて利を求めた。破嶺以東では八十を百とする「東銭」、江・郢以上では七十を百とする「西銭」、京師では九十を百とする「長銭」と呼ばれた。中大同元年(546年)、天子は足陌(百枚を百として通用させる)の詔を出したが人々は従わず銭陌はさらに少なくなり、末年にはついに三十五を百とするに至った。

貨幣史-陳

  • 陳初、梁末の喪乱を承け鉄銭は流通しなかった。梁末には両柱銭・鵝眼銭があり両者の価は同じだったが両柱は重く鵝眼は軽かった。私家の多くは銭を鎔かし錫鉄を混ぜ粟帛を貨とした。文帝天嘉5年(564年)、五銖銭を改鋳し当初は鵝眼銭十枚に相当した。宣帝太建11年(579年)には大貨六銖を鋳造し五銖十枚に相当させ五銖と並行させたが、後に一対一の価に戻ると人々は不便を感じ「六銖銭は縣官(朝廷)に不利な兆しがある」との訛言が広まった。まもなく帝が崩じ六銖銭は廃されて五銖銭が用いられ、陳の滅亡まで続いた。嶺南諸州の多くは塩米布で交易し銭は用いなかった。

貨幣史-北斉

  • 北斉神武帝(高歓)の霸政初期は魏の永安五銖銭をなお用いた。鄴に遷ってから百姓の私鋳が広まり体制が次第に異なり、それぞれ名を持つに至った(雍州の青赤、梁州の生厚・緊銭・吉銭、河陽の生渋・天柱・赤牽など)。冀州の北では銭が通用せず絹布で交易された。神武帝は境内の銅・銭を回収し旧文に依り改鋳して流通させたが、まもなく再び薄くなり姦偽が増えた。文宣帝の受禅後、永安銭を廃し「常平五銖」を鋳造した。この銭は文どおり重く貴重で精緻に造られた。乾明・皇建年間には私鋳が横行し、鄴中では赤熟・青熟・細眉・赤生の別があり、河南では青薄鉛錫の別、青・斉・徐・兗・梁・豫州でもそれぞれ異なった。武平以後は私鋳がさらに増え生鉄と銅を混ぜる者もあり、北斉の滅亡まで禁じきれなかった。

貨幣史-北周

  • 北周初期はなお魏銭を用いた。武帝保定元年(561年)7月、「布泉」銭を鋳造し一枚を五銖銭五枚に相当させ併用した。梁・益の境では古銭も交え用い、河西諸郡では西域の金銀銭も用いられ官は禁じなかった。建徳3年(574年)6月、「五行大布」銭を鋳造し一枚を十枚に相当させ商估の利を大きく収め布泉銭と併用した。建徳4年(575年)7月、辺境で盗鋳が多いことから五行大布の四関出入を禁じ、布泉銭は入るのを許すが出すのを禁じた。建徳5年(576年)正月、布泉銭が次第に賤しくなり用いられなくなったため廃止した。当初、私鋳者は絞刑、従犯は遠方への配戸とされた。斉平定後、山東の人はなお斉の旧銭を交え用いた。宣帝大象元年(579年)11月、「永通万国」銭を鋳造し一枚を十枚に相当させ、五行大布・五銖と合わせ三品を併用した。

貨幣史-隋

  • 高祖は周の禅を受けると天下の銭貨の軽重が不揃いなのを憂い新銭を改鋳した。表裏に肉郭を備え文は「五銖」で文どおりの重さとし、一千文で四斤二両とした。当初新銭が出回ると百姓の中に私鋳する者があった。開皇3年(583年)4月、四面の諸関に見本として百銭を配り、関外から来る銭は見本に照らして一致すれば通過を許し、異なれば壊して銅として官に収めるとの詔を出した。新銭施行後も前代の旧銭(五行大布・永通万国・北斉常平銭)で貿易を続ける者があったため、開皇4年(584年)、なお禁を守らぬ県令は半年分の祿を奪うとの詔を出したが、久しい慣習は絶えず、開皇5年(585年)正月にさらに制を厳しくする詔が出て、以後ようやく銭貨が統一され流通し百姓の便となった。当時流通する銭には錫鑞を混ぜる必要があり、錫鑞は安価なため利を求める者が多く私鋳が禁じきれなかったため、この年錫鑞の産地からの流出を禁じ私的な採取も禁じた。開皇10年(590年)、晋王広(後の煬帝)に揚州で五つの炉を立てて鋳銭することを許した。その後姦狡の徒が銭の郭を磨り削って銅を私鋳に用い、あるいは錫銭を混ぜるなど互いに真似し合い銭は次第に軽薄になったため、悪銭の禁が下された。京師・諸州の邸肆にはすべて榜を立て見本の銭を掲げ、見本に合わぬ銭は市場に入れさせなかった。開皇18年(598年)、漢王諒に并州で五つの炉を立てて鋳銭することを許した。この頃江南では人々の間で銭が少なく、晋王広はさらに鄂州白紵山の銅鑛のある場所で鋳銭することを許され、十の炉を置いて鋳銭させる詔が出た。また蜀王秀にも益州で五つの炉を立てて鋳銭することを許した。この頃銭がますます粗悪になったため、有司に天下の邸肆にある現銭を調べさせ官鋳でないものはすべて毀し銅は官に収めさせた。京師で悪銭を使って取引した者は吏に捕らえられ死罪になる者もあり、数年の間、私鋳はやや収まった。大業年間以後は綱紀が緩み、巨姦大猾の者が私鋳を重ね銭はますます薄悪になった。当初一千文でなお二斤の重さがあったが、後には次第に軽くなり一斤にまで落ちた。鉄片を切ったり皮を裁って紙を糊付けしたものを銭として混用する者もあり、貨は賤しく物は貴くなって、ついに隋の滅亡に至った。