序-刑法思想の総論
- 刑とは死生の命を制し善悪の源を明らかにし乱を断ち暴を誅して人の非を禁じるものである。聖王は法星を仰ぎ習坎の卦を観て五気を調和させ四時に則り、必ず春風のように先に恩を布いてから秋霜のように後に憲(法)を動かした。慈愛でその萌芽を導き、刑罰の威怒でその粛殺を促す。仁恩を情性とし礼義を綱紀とし、教化を本、明刑を助けとする。上に道あれば刑を用いても刑されるべき者がなくなり、上に道なければ殺しても殺しきれない。『礼記』に「徳で教え礼で斉えれば人に恥を知る心が生まれ、政で教え刑で斉えれば人は逃れようとする心を持つ」とある。善を勧め暴を禁ずることを終始の目的とし、民を治めるには必ず刑罰を兼ねる。
- 刑罰の道具(甲兵・鈇鉞・刀鋸鑽鑿・鞭扑榎楚)が原野や市朝に並べられるようになったのは久しい。伏羲(龍官)・黄帝(鳳紀)以前は結縄の約束のみで人は令なくして畏れた。五帝は衣服の色を変えて罪を示す「画象」の制、三王は肉刑で身体を傷つける制を用いた。舜(重華)は災いによる過ちを赦し、禹(文命)は刑罰三千条を定めたが、それでも堯・舜の徳を奉じ、皋陶(高密)が罪人のために泣いたのは舜の心を体したものだった。殷以降は徳から遠ざかった。もし紂王が成湯の道を守り炮格の刑を作らず礼を兼ねた刑を用い仁により位を保っていたら、西伯(文王)も轡を収め田夫として終わったであろう。周王は三刺(三度の審理)で濫りに罰せず三宥(三種の宥恕)を広めて物を開き、成王・康王の四十二年間は刑罰を用いずして治まった。薫風は遠く暢び頌声は広がり、越裳氏も重訳を経て万里から朝貢に来た。魯が燕・斉に接し荊(楚)が鄭・晋に隣する時代には弁舌が重んじられ、国は威刑に頼らなくなった。だから鼓を打って夷を蒐(狩)した程度のことにも孔子(宣尼)は誚めを加え、鄭が刑書を鋳造した際には叔向が書を送って諫めた。列国の政は周の恩沢に及ばなかった。
- 秦は西戎の僻地から興り天下を初めて平定した時、人々は矛を投げ甲を棄てて恩恵を仰いだが、政教は厳霜のように酷薄となり、灰を棄てただけで罰し道で語り合うだけで愁怨を生む苛法が敷かれ、後には毒網のような刑罰が肌膚を害した。処刑の鉞は朝市で振るわれ、赭色の囚人服が路衢を飄い、将閭(秦の公子)は一剣の哀しみを、茅焦は諫言により列星に准じる待遇を求めた。漢の高祖は初め「法三章」で秦人を慰め、孝文帝は無為の政を行い天網を疎らにした。孝宣帝は機密に周到で法理を詳備し、于定国を廷尉、黄霸を廷平とし、季秋の後に諸々の裁定を宣室で自ら斎戒して決し、明察で寛簡と称された。光武帝の中興もその旧を改めなかったため、前漢・後漢の諸帝には残酷の評はまれであった。魏の武帝(曹操)は易釱の科を作り、文帝(明皇)は減死の令を施したが、中原が疲弊し呉・蜀と三分された時代でもあり哀矜して獄を折く余裕はなかった。晋が呉を平定し九州が一統されると賈充に命じて刑憲を大いに明らかにし、内は百姓を平章し外は万邦を和協させ、軽平・簡易と称された。宋・斉もその軌を踏襲した。
- 一方で刑罰が喜怒に随い正直の道を外れ、憲が秋の荼(にがな)のように密に布かれ、網が朝の脛(すね)を越えるほど広がり、恣意的な誅殺で快を貪る例もあった。隋の高祖(文帝)が無辜の者を刃で斬った例、北斉の文宣帝が軽刀で臠割した例などは、匹夫の私讎に等しく国典によるものではない。孔子は「刑が乱れれば政に及び、政が乱れれば身に及ぶ」と言った。心の赴くところこそ善悪の本源である。班彪・班固・沈約の書には刑法篇がなく、臧栄緒・蕭子顕の書も多く漏略があるため、遺事を拾い集めて隋に至るまでをこの篇に附す。
梁の刑法
- 梁の武帝は斉の昏虐の後を承け、当初刑政に偏りが多かった。即位後は周・漢の旧事に依り「権典」を制し、罪人の贖罪を認めた。在官者の犯罪は罰金、鞭杖・杖督の罪はすべて贖罪で罰を停止できるとし、台省の令史・士卒も贖罪を望めばこれを許した。律令の制定にあたり、斉の旧郎で家伝の律学を持つ済陽の蔡法度が召され、斉の武帝時代に刪定郎王植之が張斐・杜預の旧律を集注し合わせて千五百三十条とした書があったが実施されず散逸していたことを法度が語った。そこで法度を兼尚書刪定郎とし王植之の旧本を増減させて梁律とすることになった。
- 天監元年(502年)8月の詔で「律令が一定せず弊を除きにくい。殺傷・昏墨(婚姻犯・汚職)には常科があり条例にしやすいが、三男一妻のような想定外の事案には旧律が対応しない。前王の律・後王の令はそれぞれに拠るところがある。無用な文言は除き、実用に適うものを一家の説を本とし諸家の説で補え。甲乙両案が一致すれば乙を除いて甲を残し、注釈が異なれば両方を載せよ。百司に可否を議させ『某等何人が同議しこれを最善とする』として梁律に定めよ。尚書比部にすべての条文を備えさせ、州郡に頒つ際は要点のみを撮れ」と命じた。法度は「魏・晋の律撰は数人の手によるものだった。今すべての官位に諮れば決まらぬままになる恐れがある」と請うた。
- そこで尚書令王亮・侍中王瑩・尚書僕射沈約・吏部尚書范雲・長兼侍中柳惲・給事黄門侍郎傅昭・通直散騎常侍孔藹・御史中丞楽藹・太常丞許懋らが参議して二十篇(刑名・法例・盗劫・賊叛・詐偽・受賕・告劾・討捕・繋訊・断獄・雑・戸・擅興・毀亡・衛宮・水火・倉庫・廐・関市・違制)に定めた。刑罰は十五等の差とし、棄市以上を死罪(大罪は梟首、次は棄市)、二歳以上の刑を耐罪とし各人の技能に応じて使役した。髠鉗五歳刑・笞二百から二歳刑まで四段階の徒刑があり、それぞれ絹での贖罪額(六十疋から二十四疋)が定められた。罰金一両以上は贖罪で、死罪の贖は金二斤・絹十六疋、以下各刑に応じ贖額が定まり、女子はその半分とした。五刑で決しきれない場合は五罰、五罰でも服さない場合は五過に正し贖論とする、という理念でこの十五等の差が作られた。さらに一歳刑・半歳刑・百日刑・鞭杖二百から十までの九等の差、免官・杖督百から十までの八等の差も定め、加重は上の段階へ、減軽は下の段階へ進むものとした。
- 獄に繋がれた者が自白しない場合の拷問(測罰)は身分により隔てず、士人が拒んで自白しない場合も参議・牒啓を経てから執行した。断食三日で家人の粥(二升)差し入れを許し、女・老小は百五十刻経てから粥を与え千刻で打ち切った。械・杻・斗械・鉗には軽重大小の定制があり、鞭には制鞭・法鞭・常鞭の三等の差、杖にも大杖・法杖・小杖の三等の差があり、それぞれ寸法が細かく定められた。督罰(懲戒的な打擲)は大罪でも五十・三十を超えず小さいものは二十とし、笞二百以上は半分をその場で決し残りを後に決した。老小に対する鞭杖罰は半分とし、女人や将吏以上の罰は罰金で代えることができた。制鞭・制杖、法鞭・法杖は特詔がなければ用いず、京師での鞭杖は雲龍門で行い、懐妊した女子には罰を科さなかった。謀反・降叛・大逆以上はすべて斬に処し、父子・同産の男子は年齢を問わず棄市、母・妻・姉妹ら連坐者は妻子・女妾ともに奚官の奴婢に落とし貲財は没官とした。劫盗(強盗)の身柄は斬、妻子は補兵とし、赦により死を免れた者は顔に「劫」字を黥し髠鉗として冶鎖士に終身配役、その下は輕重に応じ材官冶士・尚方鎖士に配役し重い者は終身とした。
- 士人には清議犯(風紀違反)による禁錮の科があり軽重の差があった。耐罪の囚人で八十歳以上・十歳以下・妊婦・盲人・侏儒で本来なら械繋すべき者、また郡国太守・都尉・関中侯以上や亭侯以上の父母妻子で死罪でない罪により除名された者、二千石以上で檻車で徴されない者は、いずれも「頌繋」(軽い拘留)とした。丹陽尹は月に一度建康県に赴き三官と共に録獄し断罪の当否を検察し、尚書当番の月は尚書も共に録獄した。定めた罪条は総計二千五百二十九条に及んだ。
- 天監2年(503年)4月癸卯、蔡法度は新律を上表し、あわせて令三十巻・科三十巻を上呈した。帝は法度を守廷尉卿とし、新律を天下に頒布させた。
- 天監3年(504年)8月、建康の女子任提女が誘拐の罪で死罪に問われた際、その子景慈が鞫問に対し「母が実際に行った」と証言した。法官虞僧虬は「子が親に事える道は、隠すことはあっても告発することはない。直躬が父を告発した例を孔子は非とした。景慈には母を止める行いもなく死に至る証拠を明らかにし、親を極刑に陥れたのは風俗を損なう。乞鞫(再審請求)の審理を誤れば罪一等を減じるのに、なぜ五年の刑を避けるために母の命を犠牲にしたのか。景慈には罪を加えるべきだ」と啓上した。詔により交州へ流罪となり、以後流徒の罪が復活した。同年10月甲子、金銭による贖罪の権典は取り止めるべきとの詔が下り贖罪の科は除かれた。
- 武帝は九族に厚く朝士を優遇し、罪を犯した者があっても群下に諷して法を曲げて許した。一方百姓の罪は法どおりに裁かれ、連坐は老幼を問わず一人の逃亡で一家が質作(人質として労役)に処された。人々は窮迫し姦宄がさらに深まった。後に帝が南郊に赴いた際、秣陵の老人が帝を遮り「陛下の法は庶民に厳しく権貴に緩い。長久の道ではない。逆にすれば天下は幸いです」と訴え、帝は寛政を思うようになった。旧獄法では夫の罪が妻子に、子の罪が父母に及んだが、天監11年(512年)正月壬辰、逮捕・質作の対象に老幼がいれば送検を停めるとの詔を出し、天監14年(515年)には黥面の刑を除いた。
- 武帝は儒雅に意を注ぎ刑法には疎く、公卿大臣も鞫獄に留意しなくなり、姦吏が権を弄び法を曲げて賄賂が公然と行われ、冤罪が多かった。おおむね二歳刑以上が年に五千人に及んだ。囚徒の中でも作業に就く者には五つの任(用具)、任のない者には斗械を着けさせたが、疾病の際は一時解いた。大同年間、東宮にあった皇太子(昭明太子)はこれを憐れみ「南北の郊壇・材官・車府・太官下省・左装等の役所は四、五歳以下の軽囚を使役に回すよう請うているが、同じ罪状でも甲は銭署、乙は郊壇に配される。銭署の三所は労役が厳しく、郊壇の六所は緩やかで、獄官の裁量ひとつで舞文(不正)の余地が生まれる。公平な人を得るのは難しく、賄賂の口はすぐ開く。条制を詳しく定め永久の準則とすべきだ」と上疏したが、帝は「近年の労役は徒刑者を急な配役に充ててきた。細かく定めれば必要な時に人手が得られなくなる。改めて考える」と返答したのみで実現しなかった。
- 当時王侯の子弟は成長し驕り高ぶり不法が横行した。武帝は年老いて政務に倦み仏戒に専心し、重罪の裁決のたびに終日不快であった。南苑に遊んだ際、臨川王宏が橋下に人を伏せ謀反を企てたが発覚し、有司は誅を請うたものの帝は泣いて「私の才はお前の十倍あるがそれでも常に戦々恐々としている。なぜそのようなことをするのか。周公のように処罰できないわけではないが、お前の愚かさを思ってのことだ」と咎めるだけで官職を免じ、まもなく復職させた。これにより王侯の驕横はさらに増し、白昼都街で殺人を犯す者や劫賊亡命の徒が王家に匿われ、日暮れには通行人を剥ぎ取る「打稽」が横行した。武帝はその弊を知りながら誅討をためらった。天監11年(512年)10月、贖罪の科を再び開いた。中大同元年(546年)7月甲子、大逆でない限り父母・祖父母を連坐させないとの詔が出て、以後禁網は緩み百姓は安んじたが、貴戚の家の不法はさらに甚だしくなった。まもなく侯景の乱が起きた。
- 元帝が即位すると前政の寛大さを戒め、また元帝自身が苛刻であった。周軍が到来した際、獄中の死刑囚が数千人おり、有司はこれを釈放して戦士に充てるよう請うたが、帝は許さずすべて棒殺させた。実行前に城は陥落した。敬帝が即位すると刑政は陳に受け継がれた。
陳の刑法
- 陳は梁末の喪乱を承け刑典が疎略であった。武帝の即位後、その弊を改めようと「唐虞の盛世は画象を設けても犯す者なく、夏・商で徳が衰えても孥戮はまだ完備されなかった。末代に至り綱目が繁雑になり、乱離により憲章はさらに乱れた。私は初めて帝位に就き政の要を広げたい。良才を求め科令を刪改し、群僚は広く議論して平簡を心がけよ」との詔を下した。梁の明法吏を求め尚書刪定郎范泉と共に律令を定めさせ、尚書僕射沈欽・吏部尚書徐陵・兼尚書左丞宗元饒・兼尚書左丞賀朗にも参知させ、律三十巻・令四十巻を制定した。前代を採酌し条流は冗雑で綱目は多いが要を得たものではなかった。重んじたのは清議禁錮の科で、縉紳の族が名教を損なう不孝・内乱の罪を犯せば詔により終身不齒(士籍からの永久追放)とし、すでに士人と婚約していれば妻方が破談にできた。賊帥や士人の悪逆者を捕らえた場合は死を免じ冶(鉱山労役)に付し妻を伴わせ年限を定めなかった。贖罪の律や父母連坐の刑も存続し、その他の篇目・条綱は梁の法にほぼ従った。
- 贓(不正利得)の証拠が明白でも自白しない場合は「上測立」(土壇に立たせる拷問)を行った。高さ一尺の円い土壇に囚人の両足がやっと乗る広さで立たせ、鞭二十・笞三十の後に械と杻をつけ壇に上げる。一度の測立は七刻、一日二度、三七日(二十一日)で測立、七日ごとに一度鞭を打ち、通算して杖百五十に達しても自白しなければ死を免じた。髠鞭五歳刑は死罪から一等減じ鎖二重、五歳刑以下は鎖一重とし、五歳・四歳刑は有官なら二年相当、残りは居作、三歳刑は有官なら二年相当、残り一年は贖罪、公坐の過誤は罰金とした。二歳刑は有官なら贖論、一歳刑は無官でも贖論とし、寒門庶人は鞭杖の決に准じた。囚人には身分に関わらず械・鎖を着けた。死罪の執行時は露車に乗せ三械と壺手(手枷)を着け、市に至って手械・壺手を外した。市での処刑は夜が明けるのを待ち雨の際は晴れを待った。晦朔・八節・六斎・月が張心の日には処刑しなかった。廷尉寺を北獄、建康県を南獄とし正・監・平の官を置いた。また三月には侍中・吏部尚書・尚書・三公郎・部都令史・三公録冤局の令史・御史中丞・侍御史・蘭台令史が親しく京師の諸獄・冶署を巡り囚徒の冤枉を糾すことを制度化した。
- 文帝は明察な性格で刑政に意を用い自ら獄訟を閲し群下を督責し、政は厳明と称された。寛政の後を承け功臣貴戚の非法にも法をもって厳しく臨み、峻刻と評された。宣帝の即位後は文武の士を優遇し簡易な政を尊び上下に便益があったが、その後政令が緩んで刑法が立たず、連年の北伐による疲弊で人々が集まり劫盗となった。後主の即位後は讒邪を信任し群下は縦恣となり、獄を鬻ぐことが市のようになり賞罰の命は外に出なくなった。後主は猜忌深く威令が行われず、左右で意に逆らう者は容易に誅殺された。百姓は怨叛し、ついに陳は滅亡した。
北斉の刑法
- 北斉の神武帝(高歓)・文襄帝(高澄)は魏の丞相として旧法をなお用いた。文宣帝の天保元年(550年)、群官に命じて魏朝の「麟趾格」を刊定させたが、当時軍国多事で政刑が一定せず、決獄定罪は律文によらないことが多く「変法従事」と称された。清河の房超が黎陽郡守であった時、趙道徳という者が書を託して超に頼み込んだが超はその書を開かず使者を棒殺した。文宣帝は守宰に棒を設けさせ請託の使者を誅させたが、後に都官郎中宋軌が「昔曹操は懸棒で乱世に威を示したが、太平の今それを行うのはよくない。賄賂で頼まれても大戮に処すのに、その身が枉法を犯したらどうやって罪を加えるのか」と奏し、この制は廃された。まもなく司徒功曹張老が「大斉受命以来律令が未改であることは創制垂法にふさわしくない」と上書し、群官に斉律の制定を命じたが長年成らず、決獄はなお魏の旧律に依った。刑政が新しいうちは官吏も法を奉じたが、天保6年(555年)以後、帝は功業に驕り酷暴を恣にし、昏乱酗酒で喜怒は気まぐれとなった。大鑊・長鋸・剉碓などの刑具を庭に並べ、意にそぐわないと自ら手で屠裂したり左右に臠噉させたりして楽しんだ。僕射楊遵彦は憲司にあらかじめ死罪の囚人を選ばせ護衛の中に置き、帝が人を殺したい時にそれを差し出す「供御囚」の制を作り、三月間殺されなければ死を免じた。帝は金鳳台に幸した際、仏戒を受けながらも死囚を多く召し、籧篨(むしろ)を編んで翼とし飛び降りさせる「放生」を行い、墜落死する様を見て歓笑した。当時の獄官の断獄も酷法で、車輻の拷問具で指を挟み踝を圧し、焼いた犁の上に立たせたり焼いた車釘に腕を貫かせたりし、苦痛に耐えかねて誣伏(虚偽の自白)する者が多かった。天保7年(556年)、豫州検使白建が左丞盧斐に弾劾されると獄中から斐が金を受け取ったと誣告した。文宣帝はその姦罔を見抜き調べさせたところ事実無根であったため、八座に命じて負罪者が他人を告発できない格を議立させたが、これにより姦を挟む者は先手を打って誣訴し官吏は判断できなくなり、妄りな引っ張り合いで大獄が千人に及び年月を費やすことも多かった。それでも輔臣楊遵彦が政の欠を補い続けたため、「上は昏くとも下の政は清い」と評された。
- 孝昭帝は藩王時代からその失を知り即位後に改革しようとしたがまもなく崩じた。武成帝の即位後、大寧元年(561年)に「賞は理に適い罰は情を得るべきだが、盟府司勳や三尺律令が疑わしい事案に対応しきれない。文王の官人・孔子の止訟の心を思い、賞疑わば重きに従い罰疑わば軽きに従うべし」との詔を出し、律令未完成をたびたび督促した。河清3年(564年)、尚書令趙郡王叡らが「斉律」十二篇(名例・禁衛・婚戸・擅興・違制・詐偽・鬬訟・賊盗・捕断・毀損・廐牧・雑)を奏上し、定罪九百四十九条、新令四十巻もあわせて上呈された。刑名は死(轘・梟首・斬・絞の四等)・流(鞭笞各百・髠にして辺境の兵卒とする。遠くない場合は男子長徒・女子配舂各六年)・刑罪(耐罪、五歳から一歳までの五等、各鞭百に加え笞を段階的に加える)・鞭(百から四十までの五等)・杖(三十から十までの三等)の十五等とし、贖罪も金から中絹に代えられ死罪百疋から一歳刑二十四疋(無笞)まで定められた。宗室の犯罪は盗と記さず奚官にも入れず宮刑も加えなかった。流罪以下の贖罪該当者や婦人・侏儒・篤疾・癃残者は頌繋(軽い拘留)とし、赦の日には金鶏と鼓を閶闔門外に設け囚徒を集め鼓を千声打って枷鎖を釈いた。また十条の重罪(反逆・大逆・叛・降・悪逆・不道・不敬・不孝・不義・内乱)は八議・論贖の対象外とした。以後法令は明審・簡要となり仕官の子弟に常に講習させたため斉人は法律に明るいことで知られた。
- 定型化しがたい事案には別に「権令」二巻を作り律と並行させた。後に平秦王高帰彦の謀反事件で律に正条がなかったため別条の「権格」が定められ律と並行するようになった。大理(司法官)は上下の判断で軽重を選び自在に法を操るようになり、姦吏がこれに乗じて文を弄んだ。後主の代には権幸が政を専らにし、従わない者は法により陰に陥れられ、綱紀は乱れついに北斉は滅亡した。
北周の刑法
- 北周文帝(宇文泰)の関中領有当初、覇業の草創期で典章はなお欠けていた。大統元年(535年)、有司に古今を斟酌させ時に益する二十四条の制を奏上させ、大統7年(541年)にはさらに十二条の制を下した。大統10年(544年)、魏帝は尚書蘇綽に命じ三十六条を総合し損益して五巻とし天下に頒布させた。その後、河南の趙粛が廷尉卿として法律の撰定にあたったが、長年思案の末に心疾を得て死去し、司憲大夫託抜迪がこれを引き継いだ。保定3年(563年)3月庚子に完成し「大律」と称され二十五篇(刑名・法例・祀享・朝会・婚姻・戸禁・水火・興繕・衛宮・市廛・鬬競・劫盗・賊叛・毀亡・違制・関津・諸侯・廐牧・雑犯・詐偽・請求・告言・逃亡・繋訊・断獄)、定罪一千五百三十七条となった。刑罰は杖刑五等(十~五十)、鞭刑五等(六十~百)、徒刑五等(一年は鞭六十・笞十、二年は鞭七十・笞二十、以下同様に加算し五年は鞭百・笞五十)、流刑五等(衛服二千五百里から蕃服四千五百里まで鞭百に笞六十から百まで加算)、死刑五等(磬・絞・斬・梟・裂)の合計二十五等とした。十悪の名目は立てなかったが悪逆・不道・大不敬・不孝・不義・内乱の罪は重んじ、悪逆者は三日間屍を晒した。盗賊が郷邑を襲い人家に押し入った場合は殺しても無罪、復讐者は法に告げて自ら殺せば罪に問わなかった。前科のある盗賊は戸籍に注記したが皇族は除いた。死罪は枷と拲、流罪は枷と梏、徒罪は枷のみ、鞭罪は桎、杖罪は決するまで散じておいた。皇族・有爵者は死罪以下は鎖のみ、徒罪以下は拘束を解いた。死刑執行時は姓名と罪を拲に書き市で処刑したが、皇族・有爵者の獄は非公開とした。
- 贖罪は杖刑五等が金一両から五両、鞭刑五等が六両から十両、徒刑五等が一年十二両から五年一斤八両、流刑は一律一斤十二両(役六年、遠近による差なし)、死罪は金二斤とした。鞭は百を限度とし笞を加える場合は合計二百までとし、鞭を加える際は先に笞を行った。婦人の笞は贖論とすることを許した。徒刑の労役は各人の能力に応じ配役された。加重は上位段階へ、減軽は死罪なら流蕃服へ、蕃服以下は徒五年までとし以降は一等ずつ差をつけた。盗賊・謀反大逆降叛悪逆で流罪相当の者は一房を雑戸に配し、逃亡した盗賊は懸名注配(指名手配)とし、再犯の徒・三犯の鞭は終身下役に配した。贖金に代わる絹は鞭杖十につき中絹一疋、流徒者は年に絹十二疋、死罪は百疋とし、贖罪の期限(死罪五旬・流刑四旬・徒刑三旬・鞭刑二旬・杖刑一旬)を過ぎれば法どおりの刑罰に戻し、貧者は情状により免除した。定めた法は総計一千五百三十七条で天下に頒布されたが、大略が煩雑で条流が苛密であり、北斉の法に比べ煩わしく要を得ないものであった。
- また復讐の法を初めて廃し、犯す者は殺人罪で論じた。当時晋公宇文護は寛政で人心を得ようとしたが人を見る目に暗く、委任した者の多くが職に不適格であった。法が寛弛で姦を制しきれず子弟・僚属が権を私したため百姓は愁怨したが訴える所もなかった。武帝は明察な性格で宇文護誅殺後は自ら万機を覧て骨肉にも容赦せず法を厳正に用い、内外は粛然となった。魏・晋以来、死罪の重い者は妻子を補兵とし、魏が西涼の民を没収した者を「隷戸」と称し、魏の武帝(孝武帝西遷後、東魏に留まった)から北斉にかけて厮役に供されてきた制度があったが、建徳6年(577年)に斉を平定した後、帝は新国に軽典を施そうとし、雑戸をすべて百姓とする詔を出し、以後雑戸は無くなった。しかしその後、斉の旧俗がなお改まらず賊盗姦宄が憲章に反することが多かったため、同年「刑書要制」を作って督励した。武器を持つ群盗一匹以上、武器を持たない群盗五匹以上、監臨主掌の自盗二十匹以上、盗みや詐取の官物三十匹以上、正長が五戸・十丁・地三頃以上を隠匿した場合はすべて死罪とし、他は大律に依った。これにより浮薄な詐りはやや収まった。
- 宣帝は残忍暴戻な性格で、皇太子時代から叔父の斉王憲や王軌・宇文孝伯らを憎み、即位すると先に誅戮したため内外が不安で危惧を抱いた。帝は人望を失うことを恐れ寛法を行い人心を取ろうとし、宣政元年(578年)8月に九条の詔を州郡に下した。大象元年(579年)には「高祖の定めた刑書要制は用法が重すぎるので一切これを除く」と詔した。しかし帝の荒淫は日に増し過ちを聞くことを嫌い誅殺は際限なく大臣を疎斥した。しばしば赦を行ったため姦を犯す者は刑罰を軽く見るようになり政令は一定せず下は従うところがなかった。そこで刑書要制をさらに広げ法をより峻厳にし「刑経聖制」と称した。宿衛の官が一日でも直(勤務)を怠れば削除(免職)に処し、逃亡者は死罪で家口を没官とし、上書の字を誤った者にも罪を科した。鞭杖は百二十を基準の「天杖」とし、後には二百四十に増した。婦人を威嚇する礔礰車も作られた。決罪の際「杖を与える」といえば実際は百二十、「多く打つ」といえば二百四十であった。帝は酒に溺れ、飲酒中に下士楊文祐が宮伯長孫覧に「朝も酔い暮れも酔う。日々常に酔い、政事に秩序がない」との歌を求めたのを鄭訳が奏上すると、帝は怒り杖二百四十を賜って死に至らしめた。後に中士皇甫猛が歌を作って諷諫すると、鄭訳がまた奏上し猛に杖百二十が科された。このように公卿から妃后に至るまで棰楚(鞭打ち)を加えられ上下は愁怨した。帝が病に伏すと内外の心は離れそれぞれ苟免を求めるようになった。隋の高祖(楊堅)は丞相として寛大な典を行い旧律を刪略し「刑書要制」を作って上奏、静帝が詔して頒行し、未決の罪はすべてこの制で処断された。
隋文帝の刑法
- 高祖は周の禅を受けると、開皇元年(581年)、尚書左僕射勃海公高熲・上柱国沛公鄭訳・上柱国清河郡公楊素・大理前少卿平源県公常明・刑部侍郎保城県公韓濬・比部侍郎李諤・兼考功侍郎柳雄亮らに新律の改定を命じ奏上させた。刑名は五等。死刑二(絞・斬)、流刑三(千里・千五百里・二千里、それぞれ居作二年・二年半・三年、住居作の場合はいずれも三年役し近流には杖百を加え等ごとに三十を加える)、徒刑五(一年・一年半・二年・二年半・三年)、杖刑五(五十から百)、笞刑五(十から五十)とし、前代の鞭刑・梟首・轘裂の法を廃した。流徒の罪はすべて軽減し、大逆謀反叛のみ父子兄弟を斬り家口を没官とした。十悪の条(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不睦・不義・内乱)を新たに置き、多くは北斉の制に倣いつつ増減した。十悪と故意の殺人が確定した場合は、たとえ赦にあっても除名は免れなかった。
- 八議の対象や官品七品以上の犯罪は一等減じ、九品以上の犯罪は贖罪が許され、贖は銅で絹の代わりとした(銅一斤を一負とし十負で殿とする)。笞十で銅一斤、杖百で十斤、徒一年で銅二十斤、以後等ごとに十斤ずつ加え三年で六十斤、流一千里で八十斤、以後等ごとに十斤ずつ加え二千里で百斤、死罪二種はいずれも百二十斤とした。私罪で官位により徒罪を相殺する場合、五品以上は一官で徒二年、九品以上は一官で徒一年に当て、流罪は三流いずれも徒三年に相当。公罪の場合は徒に各一年、流に各一等を加えた。累積して徒九年を超える場合は流二千里とした。
- 律令完成の際の詔で「帝王の作法は時代により沿革が異なり時に適うよう損益がある。絞は致死、斬は身を裂く極刑であり悪を除く体としてこれで十分。梟首・轘身は懲粛の理に益なく、ただ残忍さを表すのみ。鞭は肌膚を裂き骨に達し臠切に等しい酷さで、古式とはいえ仁の刑にそぐわないので梟・轘・鞭はすべて廃する。士人の身分は徒罰にそぐわず、官爵の恩蔭は諸親にも及ぼす。流役六年を五年に、徒刑五年を三年に改める。他にも軽きをもって重きに代え死を生に変える条目が多く簡策に備わる。天下に頒ち時の軌範とし、雑格・厳科はすべて削除せよ。法令を先に示すのは人に犯罪の心を持たせないためであり、常刑があっても誅して怒らぬ理を持つ。用いずに済むことこそ理想であり、万方百辟にこの心を知らしめよ」と述べた。前代からの慣行で有司の訊考には法外の拷問(大棒・束杖・車輻・鞋底・圧踝杖桄など)が用いられ苦痛のあまり誣伏することが多かったが、これらの苛慘な法をすべて廃し、訊囚は二百を超えず、枷杖の大小に定めを設け、行杖者の交替も禁じた。帝は律令施行初期で人が禁を知らず犯法者が多いこと、下吏が苛政の後を承け無理に罪を作り上げる傾向を憂い、四方に敦理辞訟を命じる詔を出し、県で訴えが理されなければ郡・州へ、省でも理されなければ闕への直訴を認め、それでも納得できなければ登聞鼓を撾かせ有司が状況を録して奏上させた。
- 帝は季ごとに自ら囚徒を録し、秋分前には諸州の申奏罪状を省閲した。開皇3年(583年)、刑部の奏で断獄数がなお万条に及ぶことを知り、律がなお厳密すぎて多くの人が罪に陥ると考え、蘇威・牛弘らに新律の改定を命じた。死罪八十一条・流罪百五十四条・徒杖等千余条を除き、定めて残したのは五百条、十二巻(名例・衛禁・職制・戸婚・廐庫・擅興・賊盗・鬬訟・詐偽・雑律・捕亡・断獄)となった。以後刑網は簡要となり疎にして失うことがなかった。律博士弟子員を置き、大獄の断決には先に明法(法律専門官)に牒し罪名を定めてから断ずるようにした。開皇5年(585年)、侍官慕容天遠が都督田元の義倉冒請を糾弾した事件で始平県の律生輔恩が文を弄んで天遠を陥れ逆に有罪とされたことが発覚した。帝はこれを聞き「人命の重さは律文にかかっている。科条を刊定し分かりやすくしたのは、循吏を選び大小の獄を誤りなく理するためだ。それなのに旧習で別に律官を置き、報判の者がその判断の首となっている。生殺の権を小人に委ねていることが刑罰の不清・威福の乱れを招く元凶だ。大理律博士・尚書刑部曹明法・州県律生はすべて廃止せよ」と詔し、以後諸曹の決事はすべて律文を具写して判断するようにした。開皇6年(586年)、諸州の長史以下行参軍以上に律の習得を命じ、京師に集まる際にその通否を試すこととした。また尉迥・王謙・司馬消難の三反乱に連座し没官された家口を官の負担で贖い編戸に戻すよう詔し、孥戮相坐の法を除き、諸州の死刑囚は駅伝を馳せて即決処刑することを禁じた。
- 高祖は猜忌深く学問を好まず、智謀で大位を得たため文法を誇り明察をもって臣下に臨んだ。常に左右に内外を見張らせ小さな過失にも重罪を科し、令史の贓汚を憂い私に人を遣り銭帛を贈らせては犯した者を即斬することもあった。殿廷で人を打つことも一日に数度に及び、問事(拷問吏)の打ち方が弱いと怒って斬らせたこともあった。開皇10年(590年)、尚書左僕射高熲・治書侍御史柳彧らが「朝堂は殺人の場ではなく殿庭は決罰の地ではない」と諫めたが帝は聞き入れなかった。高熲らは朝堂に赴き「陛下が民を慈しみ弊を除こうとされても無知な百姓の犯罪は絶えず、陛下の決罰が厳しくなっています。臣らの補佐が至らぬためです。退いて賢路を譲りたい」と請罪した。帝は領左右都督田元に「私の杖は重いか」と問うと元は「重い」と答え、「陛下の杖は指ほどの太さで、三十打てば通常の杖の数百打に相当し、多くが死に至ります」と説明した。帝は不快になり殿内から杖を除き決罰は各所管に委ねると命じたが、後に楚州行参軍李君才が高熲への寵愛過多を上言すると帝は激怒し杖を命じたものの殿内に杖がなく馬鞭で笞殺した。以後殿内に再び杖が置かれた。まもなく帝は激怒し殿庭で人を殺そうとし、兵部侍郎馮基が固く諫めたが従わず殿庭で処刑した。帝は後に悔い馮基を慰めたが諫めなかった群僚には怒った。開皇12年(592年)、律の適用が区々になり同罪でも判断が異なることを憂い、諸州の死罪は即決を禁じすべて大理に移して案覆させ、事が尽きてから省に上奏裁定させるとした。開皇13年(593年)、徒・流を配防(辺境警備への配置)に改めた。開皇15年(595年)の制で死罪は三度の上奏を経てから決するとした。開皇16年(596年)、合川倉の粟が七千石不足していることが有司から奏上されると斛律孝卿に鞫問させ主典の窃盗と判明し、駅を馳せて斬らせ家は没官して奴婢とし粟を売って補填させた。以後辺境の糧を盗む者は一升以上でもすべて死罪、家口は没官とされた。帝はまた典吏が長く同職にあると姦を恣にすると考え、諸州県の佐史は三年ごとに交代させ再任を禁じた。開皇17年(597年)、官人が互いに敬憚せず寛縦になりがちなことを憂い、殿失が科条にあっても律では軽く情理では重い場合、即決しなければ懲粛できないとして諸司の属官の過失には律外での杖罰の裁量を認めた。これにより上下が互いに棰楚を行い、残暴を有能とし守法を懦弱とする風潮が生まれた。
- 当時京市では白昼公然と強奪が行われ、民間の強盗も後を絶たなかった。帝が群臣に禁絶の法を問うと楊素らが答える前に帝自ら「分かった」と言い、告発者に賊の家産を与える詔を出した。時月の間に内外は静まったが、その後無頼の徒が富人の子弟の通行を狙い故意に物を落として拾わせ、それを盗みとして官に送り賞金を得るという冤罪事件が続出した。帝はこれを知ると盗み一銭以上すべて棄市とする法を作り、人々は懍然として旅も早め早め動くようになった。さらに一銭以上の盗みを見聞きしながら告発しない者も死罪とする制が定められ、四人で榱桶一本、三人で瓜一個を盗んだだけで即時処刑される事態になった。数人の者が政務担当者を捕らえて「私たちは財を求めているのではない、無実の者のために来た。古来国を建て法を立てるにあたり一銭を盗んで死に至ることはなかった。至尊にこれを奏上しなければ、我らはまた来るぞ」と告げると、帝はこれを聞き一銭盗み棄市の法を停めた。
- ある時帝が怒り六月に人を棒殺しようとした際、大理少卿趙綽が「季夏の月は天地が万物を成長させる時期であり、この時に誅殺すべきではありません」と固く争ったが、帝は「六月は生長の季節だが雷霆も必ずある。天道が炎陽の時に威怒を震わせるなら、私も天に則って行うだけだ」と答え結局処刑した。大理の掌固来曠が大理官司の寛大さを訴える上書をしたため帝はこれを忠直として重用したが、来曠が今度は少卿趙綽の徒囚放免を濫りだと告発したところ、帝が調べさせても不正はなく、帝は逆に来曠に怒り斬を命じた。趙綽は「来曠を死罪にすべきでない」と固く争い、帝は不機嫌になり閣に入ろうとしたが、綽は「来曠のことではなく他に奏上したいことがある」と偽って引見を求め、「私には死罪が三つあります。大理少卿として掌固を制御できず来曠を天刑に触れさせたのが一つ、囚人が死に値しないのに死を賭して争わなかったのが二つ、他に用事がないのに嘘をついて求見したのが三つです」と再拝して述べた。帝は表情を和らげ、たまたま座にいた独孤皇后が金杯の酒を綽に賜り、飲み終えると杯もそのまま与えた。来曠は死を免れ広州へ流罪となった。
- 帝は晩年になるほど仏道を尊び鬼神を信じるようになった。開皇20年(600年)、僧侶・道士が仏像・天尊像を壊す行為、百姓が岳瀆の神像を壊す行為をすべて悪逆罪として詔した。帝は猜忌が深く、朝臣への用法は特に峻厳で、正月元日に武官の衣剣の不揃いを弾劾しなかった御史監師は帝に報告されると処刑され、諫議大夫毛思祖が諫めるとこれも殺された。左領軍府長史の考課の不公平、将作寺丞の麦𪌭の遅れへの諫言、武庫令の署庭の荒廃、独孤師が蕃客の鸚鵡を受け取った件、いずれも帝が知ると自ら臨んで斬らせた。
- 仁寿年間には用法がさらに峻厳になり、帝は喜怒常なく科律に依らなくなった。楊素が信任され、その性格も高圧的で公卿は震え上がって発言できなかった。楊素は鴻臚少卿陳延と不和で、蕃客館の庭に馬糞があり庶僕が氈の上で樗蒲(賭博)をしていたのを見つけると帝に告げ、帝は「主客令が庭を掃除せず、掌固が私的な遊興で官氈を汚した」と激怒し西市で棒殺させ、陳延にも杖責を加えほとんど死に至らしめた。大理寺丞楊遠・劉子通らは深文(厳しい法解釈)を好み帝の意向に順って奏獄し、帝はこれを喜んで殿庭三品の待遇で供奉させ、詔獄があれば専らこれを担当させた。帝が不快な相手には重刑を科し、罪に相応しない死者は数え切れなかった。楊遠は楊素にもよく取り入り、途中で待ち構えては囚人の名を告げ楊素の意向に応じて軽重を決めた。処刑地へ向かう者はみな途中で冤枉を叫び天を仰いで泣いた。楊素は朝権を弄んだが帝はそれを十分には把握していなかった。
隋煬帝の刑法
- 煬帝は即位すると高祖の刑法が厳しすぎたとして律令の改定を命じ十悪の条を除いた。斗・称は旧の二倍の大きさとし贖銅も二倍の差とした(杖百で三十斤、徒一年で六十斤、以後等ごとに三十斤加算し三年で百八十斤、流罪は等の差なく二百四十斤、二死罪はいずれも三百六十斤とし、実質は変わらなかった)。開皇の旧制では罪門の子弟は宿衛近侍の官に就けなかったが、蕭巌が謀反で誅された際、それに連座した崔君綽の娘が中宮(皇后)に寵愛されていたことを機に、帝は「罪は嗣子に及ぼさぬのが至孝の道であり、恩を義によって断つことが事君の節を勧める。羊鮒の戮死は叔向の誠を示し、季布の功績は丁公の禍を招かなかった。私は虚心に政を為し旧典に従い、常に寛政をもって臨みたい。罪により誅せられた家門でも期服以下の親族には仕官と宿衛近侍の官への任官を許す」との詔を出し前制を改めた。
- 大業3年(607年)、新律五百条・十八篇(名例・衛宮・違制・請求・戸・婚・擅興・告劾・賊・盗・鬬・捕亡・倉庫・廐牧・関市・雑・詐偽・断獄)が完成し「大業律」として施行された。五刑のうち二百余条が旧律より軽減され、枷杖決罰訊囚の制もすべて旧より軽くなり、長く厳刻に苦しんだ百姓は刑罰の緩和を喜んだ。しかし帝は後に外は四夷を征し内は欲を窮め、兵革が年ごとに動き賦斂は増える一方となった。有司は臨時に迫られ事を済ませることを優先し憲章は顧みられず賄賂が公然と行われ、困窮した人々は訴える所もなく盗賊に集まった。帝はさらに厳刑を立て、天下の窃盗以上の罪はすべて軽重を問わず上奏を待たず斬に処すと命じたが、百姓はかえって群れをなして城邑を攻め剽掠し、誅罰も止められなかった。帝は盗賊がやまないことにさらに淫刑を強め、大業9年(613年)には盗賊の家をすべて籍没する詔を出した。以後群賊が大いに起こり郡県の官人も各々威福を専らにし生殺は恣意的になった。楊玄感の反乱の際は誅殺が九族に及び、特に重い者には轘裂梟首の刑が科され、磔にして射殺し公卿以下にその肉を臠噉させることもあった。百姓は怨嗟し天下は大いに乱れ、恭帝の即位に至ってようやく獄訟は落ち着くところを得た。