隋書卷二十三
序(視之不明)
『洪範五行伝』は、視ることが明らかでないことを「不知」といい、その咎は緩み、罰は異常な暑さに現れ、極みは疾病に及ぶとする。草妖・羽虫の孽・羊禍・目の病・赤眚赤祥が生じ、水が火を沴す(損なう)とされる。
常燠
- 北斉天保8年(557年)3月、酷暑で人が熱死した。劉向『五行伝』は「視ることが明らかでなく側近ばかり用い賢者が進まないと政教が緩む」と説く。後主の狂躁・荒淫への応とされる。
草妖
- 高祖(文帝)の代、上党の民家で夜な夜な人の呼び声がし、探すと人参の根が人の形をして生えていた。掘り起こすと声が絶えた。晋王が皇太子を讒言で陥れようとした企みへの応とされ、高祖はこれを悟らず無実の太子を廃した。
羽虫之孽
- 梁中大同元年(546年)、邵陵王綸の邸で数百羽の鳥が梁に群がり忽然と消えた。後に綸は湘東王に敗れ西魏に殺害された。
- 侯景が梁から爵命を受けようとした際、鳥が冊書の上に集まり鴟鴞が殿で鳴いた。侯景はまもなく敗死し海上で殺された。
- 陳後主の代、蔣山(呉の望山)で鳥が「奈何帝」と鳴くように羽ばたいた。陳が滅び建康が廃墟となったことに応じたとされる。また一足の鳥が地に「独足上高台、盛草変成灰」と文字を描いたのは、後主が長安の都水台に幽閉されたことに符合したとされる。
- 北斉孝昭帝即位後、雉が御座に飛び込み、赤い九頭の鳥が後園に現れた。その年帝は崩じた。
- 天統3年(567年)9月、万春鳥が仙都苑に集まる。周軍の鄴入城に応じたとされる。
- 武成帝の胡后が後主を産んだ時、梟が帳に鳴いた(不孝の鳥、不祥の兆し)。後に胡后の淫乱が露見し幽閉された。
- 武平7年(576年)、鸛が太極殿・并州嘉陽殿に巣を作り、雉が晋陽宮の御座に集まった。その年、斉は滅んだ。
- 北周大象2年(580年)2月、禿鷲が洛陽宮太極殿に集まる。その年帝は崩じ後宮は空となった。
- 開皇初、梁主蕭琮の帳の隅に鵂鶹が集まった。まもなく琮は長安に留められ梁国は廃された。
- 大業末、宮室に無数の雁が群れ集まった。まもなく長安は陥落した。大業13年(617年)11月、烏鵲が帝の帳幄に巣を作り追い払えなかった。まもなく帝は弑逆された。
羊禍
- 開皇12年(592年)6月、繁昌の楊悦が空中で2頭の羝羊のような黄色い獣が争って落ちるのを見た。楊(羊、国姓)の羔(子羊)が争う象徴とされ、皇太子勇の廃黜に応じたとされる。
- 恭帝義寧2年(618年)、麟游太守司馬武が尾のない羊の子を献上した。楊氏の子孫断絶の象徴とされ、この年煬帝は江都で殺され恭帝も譲位した。
赤眚赤祥
- 梁天監15年(516年)7月、荊州の市で処刑された者の首が落ちても口が動き血が高く噴き上がった。同年荊州で大旱があった。
- 陳太建14年(582年)3月、御座の幄上に赤い車輪状の物が現れ、まもなく帝が大叫して崩じた。
- 至徳3年(585年)12月、太極殿前に赤い物が落ち鐘が鳴った。また白い飲み物が血に変わる怪異、殿の階段に血が滴る怪異も続き、まもなく陳は滅んだ。
- 北斉河清2年(563年)、太原に血の雨が降った。翌年、周・突厥の并州侵攻で伏屍百余里の大戦となった。
- 河清4年(565年)3・4月、殿庭に赤い物が落ち、婁太后が崩じた。
- 武平年間、咸陽王斛律明月の邸から太廟まで血の点が続いた。後主が明月を讒言で殺したことへの天誡とされ、国祚は絶えた。
序(聽之不聰)
『洪範五行伝』は、聴くことが聡くないことを「不謀」といい、その咎は性急さ、罰は異常な寒さ、極みは貧困に現れ、鼓妖・魚の孽・彘禍・黒眚黒祥が生じ、火が水を沴すとされる。
寒
- 東魏武定4年(546年)2月、大寒で人畜が凍死した。斉神武が爾朱文暢らの謀反に連座して多くを誅殺したことへの応とされる。
- 北斉河清元年(562年)、酷寒。武成帝が李后との子・太原王紹徳を殺し、皇后も打擲して水に投げた冤酷への応とされる。
- 梁天監3・6年(504・507年)3月、霜が降り草を枯らす。魏軍との連年の交戦への応。
- 大同3年(537年)6月、朐山で霜。
- 陳太建10年(578年)8月、霜が稲豆を枯らす。呉明徹の呂梁出兵への応。
鼓妖
- 梁天監4年(505年)11月、晴天に雷鳴のような音がした(鼓妖)。交州刺史李凱の反乱に応じたとされる。
- 天監19年(520年)9月、雷鳴のような音と赤気。東莞・琅邪二郡守の殺害・朐山での魏軍引き入れに応じた。
- 中大通6年(534年)12月、雷鳴のような音。北梁州刺史蘭欽の反乱に応じた。
- 陳太建2年(570年)12月、雷鳴のような音。湘州刺史華皎の反乱に応じた。
- 北斉天保4年(553年)4月、雷鳴のような音。帝の頻繁な出兵に応じた。
- 北周建徳6年(577年)正月、雷鳴のような音。まもなく吐谷渾が辺境を侵した。
- 開皇14年(594年)正月、廓州で雷鳴のような音。羌族の反乱に応じた。開皇20年、無雲での雷。文帝崩御・漢王諒の反乱に応じたとされる。
- 大業年間、滏陽の石鼓が連年鳴った。後の天下大乱・兵戎並起に応じたとされる。
魚孽
- 梁大同10年(544年)3月、玄武湖で魚が皆頭をもたげ皇帝の車を見るように現れた。後の侯景の乱に応じたとされる。
- 北斉後主武平7年(576年)、相州の鸕鷀泊で魚が飛び去り水が涸れた。翌年、斉は滅んだ。
- 北周大象元年(579年)6月、陽武で鯉が空中で争った。臣下の挙兵の象徴とされ、翌年帝が崩じ尉遅迥が相州で挙兵した。
- 開皇17年(597年)、大興城郊外で怪しい老人が現れ、後に巨大な白魚と判明した怪異があり、後日漕渠が氾濫し溺死者が出た。
- 大業12年(616年)、淮陽郡で城壁工事中に7尺余りの鯉が見つかった。長白山の賊による河南侵攻・郡兵の敗北に応じたとされる。
蟲妖(虫害)
- 梁大同初、大蝗害で籬門の松柏の葉まで食い尽くされた。公卿が虚談を美徳とし職務を怠ったことへの応とされる。
- 北斉天保8〜10年、河北・河南諸州で蝗害が続いた。帝が土木工事を強行したことを咎めた崔叔瓚を殴打するなど、暴虐な労役への応とされる。
- 北周建徳2年(573年)、関中で大蝗害。
- 開皇16年(596年)、并州で蝗害。秦孝王俊の百姓収奪・邸宅造営への応とされ、後に俊は譴責を受け死んだ。
彘禍
- 開皇末、渭南の沙門3人が大豚と小豚10余頭の怪異に遭遇し「賢聖の道を得たいが一命を負う」との言葉を聞いた。皇太子勇の廃囚・煬帝による殺害を予言したものとされる。
- 開皇末、渭南で2頭の豚が「歳末に殺される、どこに逃げるか」「水北の姉の家へ」と語り合う声を聞いた者があった。後に蜀王秀が罪を得て帝に殺されかけたが楽平公主の取りなしで助命され、帝は歳末に崩じたことに符合したとされる。
黑眚黑祥
- 梁承聖3年(554年)6月、殿内に龍のような黒気が現れた(周の尚ぶ色)。その年、梁は北周に滅ぼされ帝も殺害された。
- 陳太建5年(573年)6月、西北に黒雲が地に垂れ豚のような形に散った。翌年、北周の呉明徹軍が全滅する応となった。
火沴水
- 北斉河清元年(562年)4月、黄河・済水が澄んだ(諸侯が天子となる兆し)。10余年後、隋が天下を得た。
- 大業3年(607年)・12年(616年)にも河水の清澄が記録され、2年後の唐の受禅に応じたとされる。
- 陳太建14年(582年)・禎明年間、江水が血のように赤くなった。後主の刑罰の酷薄への応とされ、後に隋に滅ぼされた。
- 禎明2年(588年)4月、郢州南浦の水が墨のように黒くなった。淮南の地が関中(隋)に陥る予兆とされた。
- 北周大象元年(579年)6月、咸陽の池水が血に変わった。厳しい刑罰への応とされ、まもなく国は滅んだ。
序(思心不容)
『洪範五行伝』は、思慮が寛容でないことを「不聖」といい、その咎は目の眩み、罰は異常な風、極みは凶事・夭折に現れ、脂夜の妖・華の孽・牛禍・心腹の病・黄眚黄祥が生じ、木金水火が土を沴すとされる。
常風
- 梁天監6年(507年)8月、大風で木が折れる。魏軍の鐘離侵入に応じた。
- 承聖3年(554年)11月、閲兵中に大風で天地が暗くなった。元帝の猜疑心の深さへの応とされ、その年西魏に滅ぼされた。
- 陳天嘉6年(565年)7月、大風で候楼が倒れる。安成王頊の専政への応とされ、翌年帝が崩じ頊が幼帝を廃した。
- 太建12年(580年)6月・9月、大風で屋根や樹木が飛ばされた。始興王叔陵の専恣への応。
- 至徳年間、大風で朱雀門が倒れた。
- 禎明3年(589年)6月、大風。司馬申・沈客卿・施文慶・江総・孔範らの専横への応とされる。
- 北斉河清2年(563年)、大風30日。和士開の専政への応。天統3年(567年)5月、大風。趙郡王睿・馮翊王潤が士開を弾劾したが逆に讒言され睿は死罪となり、士開自身も後に琅邪王儼に誅殺された。
- 武平7年(576年)3月、大風。高阿那瑰・駱提婆らの専恣への応。
- 開皇20年(600年)11月、京都の大風・地震で多数が圧死し、寺院で異音が続いた。独孤皇后の政治干渉と楊素の権勢、僕射高熲の罷免・太子勇の廃黜への応とされる。
- 仁寿2年(602年)、西河で胡人が旋風にさらわれ車ごと空高く舞い上がり墜落死した。2年後、漢王諒の并州での謀反(車騎の象徴)に応じたとされる。
夜妖(脂夜之妖)
- 梁承聖2年(553年)10月、大風で昼が暗くなった。3年後西魏に滅ぼされた。
- 陳禎明3年(589年)正月朔、雲霧が立ち込め鼻を刺した。後主が孔範の言に惑わされ北軍の侵攻を軽視し敗北した。
- 東魏武定4年(546年)冬、6日間霧が晴れなかった。翌年、元瑾・劉思逸の大将軍暗殺計画に応じた。
- 北周大象2年(580年)、尉遅迥の一党数万人が処刑された遊豫園で夜な夜な鬼哭の声が聞こえた。翌年、周の王公が皆殺され周室も滅んだ。
- 仁寿年間、仁寿宮・長城下でしばしば鬼哭が聞こえ、まもなく独孤皇后と文帝が相次いで仁寿宮で崩じた。
- 大業8年(612年)、楊玄感の党与数万人が処刑された長夏門外で鬼哭が聞こえ、後に王世充が越王侗を殺害した。
華孽
- 北斉武平元年(570年)、槐(三公の位の象徴)が花を咲かせても実を結ばなかった。翌年、和士開・胡長仁・琅邪王儼・段韶ら重臣が相次いで死んだ。
- 陳後主の張貴妃・孔貴嬪への溺愛は「華孽」(女色による国乱)とされ、国庫が尽き民が怨み将士が離心する中で陳は滅び、張貴妃は処刑された。
- 北斉後主の寵姫馮小憐への溺愛も同様とされ、晋州の防衛が疎かになり、周軍との戦で機を逸し国が滅んだ。
牛禍
- 梁武陵王紀が城隍神を祭る際、牛を屠ろうとして赤蛇が牛の口に絡みついた(牛禍・龍蛇の孽)。魯宣公の故事に准え、紀の身の程知らずな野心への天誡とされ、果たして元帝に敗れた。
- 北斉武平2年(571年)、并州で五本足の牛が献上された。宮室造営への応とされ、仙都苑の工事完成とともに国が滅んだ。
- 北周建徳6年(577年)、陽武で3頭の水牛のような獣(黄・赤・黒)のうち黒(周の尚ぶ色)が争いに敗れて死んだ。数年後、周は滅び隋(赤を尚ぶ)が天下を得た。
- 大業初、恒山で膝の上にもう一つ蹄を持つ牛が生まれ、後の東都建設・長城築造・溝洫開削に応じたとされる。
心腹之屙
- 陳禎明3年(589年)、隋軍の江侵攻を前に後主が「長江の天塹を北軍が渡れるはずがない」と楽観し、都官尚書孔範も追従して宴楽を続けた。まもなく陳は滅んだ。
- 北斉文宣帝は宴の席で激怒して西伐を詔したがすぐに涙して撤回し、識者は帝の精神の乱れを見抜いた。後に心疾を患い早世した。
- 武成帝が丁太后の喪中に緋袍を着続け、白袍を献じられて激怒した。まもなく崩じた。
黄眚黄祥
- 梁大同元・2年、天から土や灰が降った(賢者を蔽う咎の兆し)。武帝の自負と仏教への傾倒への応とされる。
- 大宝元年(550年)正月、黄色い砂が降った。2年、簡文帝が土の丸薬を飲む夢を見た。まもなく侯景に廃され土嚢で圧殺され諸子も殺された。
- 陳後主が黄衣の人に城を囲まれる夢を見て橘の木を伐採させたが、隋の受禅後は上下が黄衣を着るようになり、まもなく隋軍に攻囲された。
- 北周大象2年(580年)正月、黄土が降った。帝は1年余りで崩じ、静帝も譲位した。
- 開皇2年(582年)、京師に土が降った。文帝が北周の諸侯弱体化を教訓に諸子を分封し方面を専制させたことへの応とされ、後に諸王が相次いで謀反した。仁寿宮の造営でも多数の職人が死んだ。
裸蟲之孽
- 梁太清元年(547年)、丹陽の莫氏の妻が頂に目のある子を産み、「旱疫の鬼」と名乗って絳の帽子を求めた。以後2年間、揚・徐・兗・豫で旱疫が流行した。
- 大宝2年(551年)、京口の童子が城楼で「長江櫑」を打ち鳴らした(兵の象徴)。侯景の江南での乱に応じた。
- 陳永定3年(559年)、羅浮山に3丈の巨人が現れた。2年後、武帝が崩じた。
- 後主が太子であった時、婦人が東宮に乱入し「畢国主」と叫んだ。後主の即位と陳の滅亡に応じたとされる。
- 至徳3年(585年)8月、建康で死んだ婢が9日後に蘇生した。
- 禎明2年(588年)、頭のない死んだ嬰児が発見され「明年乱る」との声が聞こえた。翌年陳は滅んだ。
- 北斉天保中、臨漳で頭が2つ体が1つの子が生まれた(奸佞専横・上下無別の象徴)。
- 後主の代、烏を礼拝し沙門を殴る狂人がいた(烏は周の色)。まもなく斉は周に滅ぼされ仏法も廃された。
- 北周保定3年(563年)、背に尾のような陰部を持ち爪のある足を持つ子が生まれた(君臣転倒・簒奪の兆し)。宇文護の専権に応じたとされたが、武帝はこれを悟り護を誅殺し克く斉を平定した。
- 武帝の代、強練という狂人が晋蕩公宇文護の門で瓢箪を割り「身はまだしも子は苦しむ」と予言し、後に護の諸子は残酷な刑に処された。強練はまた「盛空」と嘲笑い、まもなく周は滅び都は廃墟となった。
- 開皇6年(586年)霍州で老翁が猛獣に変じた怪異、7年相州で沙門が蛇に変じた怪異があった。
- 仁寿4年(604年)、応門に巨人の足跡が現れ、その年文帝は崩じた。
- 大業元年(605年)、雁門の房回安の百歳の母の額に角が生えた(下が上に逆らう兆し)。後に天下大乱し帝は雁門で包囲された。
- 大業4・6年、婦人が卵のような肉塊を産む怪異が相次いだ。
- 大業6年正月、白練の衣を着た者が弥勒仏を自称し反乱を企てたが斉王暕に斬られた。3年後、楊玄感が挙兵し敗死した。
- 大業8・12年、狂人が「賊」と叫び続け、まもなく楊玄感・李密の反乱が起きた。
- 大業9年、唐県の宋子賢が幻術で弥勒出世を自称し反乱を企てたが討たれた。同様に扶風の向海明も弥勒仏を自称し反乱を起こしたが平定された。以後天下は大乱し道に人影が絶えた。
木金水火沴土
- 梁天監5年(506年)11月、京師で地震。交州刺史李凱の反乱への応。
- 普通3年(522年)正月、建康で地震。義州刺史文僧朗の叛服への応。
- 普通6年(525年)12月、地震。豫章王琮の北伐に応じた。
- 中大通5年(533年)正月、建康で地震。大水・饑饉に応じた。
- 大同3年(537年)10・11月、建康で地震。会稽の山賊蜂起、霜害・饑饉に応じた。
- 大同7年(541年)2月、建康で地震。李賁の反乱に応じた。
- 大同9年(543年)閏正月、地震。李賁の皇帝僭称に応じた。
- 太清3年(549年)4月、建康で再度地震。侯景の専権と武帝の憂憤崩御に応じた。
- 陳永定2年(558年)5月、建康で地震。王琳の蕭荘擁立に応じた。
- 太建4年(572年)11月、地震。陳宝応の閩中での反乱に応じた。
- 禎明元年(587年)正月、地震。施文慶・沈客卿の専恣への応。
- 東魏武定2年(544年)11月、西河の地が陥没し燃えた。斉神武と侯景の専擅、後の侯景の乱への応とされる。
- 北斉河清2年(563年)、并州で地震。和士開の専恣への応。
- 北周建徳2年(573年)、涼州で地震が頻発し城郭が壊れ地が裂けて泉が出た。吐谷渾の河西侵攻への応。
- 開皇14年(594年)5月、京師で地震。関中の饑饉、民の関東への移住に応じた。
- 仁寿2年(602年)4月、岐・雍で地震。五穀不熟・大饑饉に応じた。
- 仁寿3年、梁州就穀山が崩れた(背反の象徴)。翌年、漢王諒が反乱を起こした。
- 大業7年(611年)、砥柱山が崩れ黄河を塞き止め逆流した。煬帝の遼東遠征による民の疲弊への応とされ、帝は悟らず滅亡に至った。
序(皇之不極)
『洪範五行伝』は、皇の道が極まらないことを「不建」といい、その咎は目の眩み、罰は常なる陰気、極みは弱体に現れ、射妖・龍蛇の孽・馬禍が生じるとする。
雲陰
- 開皇20年(600年)10月、久しく陰って雨が降らなかった。劉向は「王者が中道を失い臣下が強くなり君主の明を蔽うと雲陰が生じる」と説く。独孤皇后と楊素が謀って太子勇を廃したことへの応とされる。
射妖
- 東魏武定4年(546年)、斉神武が玉壁の西魏城を攻めた際、韋孝寬の弩で射殺されたとの流言が広まり、神武は病を悪化させた(射妖)。5旬布陣したが戦果なく、7万の死者を出し、その年神武は崩じた。
- 北斉武平年間、後主が并州から鄴へ帰る途上、発狂した者が弓で射かけ数人を負傷させたが後主は難を逃れた。まもなく国は滅んだ。
龍蛇之孽
- 梁天監2年(503年)、北梁州の淵で龍が争い数里に霧が立った。陳伯之・劉季連の乱への応。
- 普通5年(524年)6月、曲阿から建陵まで龍が争い樹木が数十丈にわたり折れた。武帝が講論に耽り軍備を怠ったことへの応とされ、太清元年にも黎州で龍が争い、その年侯景が投降し翌年乱を起こした。
- 大同10年(544年)夏、龍が延陵の人家の井戸に落ち、庭に驢馬ほどの大蛇が現れた。後の侯景の乱で簡文帝が酒庫で殺害され宗室が幽死したことへの応とされる。
- 陳太建11年(579年)正月、南兗州の池に龍が見られた。後主の驕奢と陳の滅亡に応じたとされる。
- 東魏武定元年(543年)、武牢城に大蛇が現れた。北豫州刺史高仲密の妻を巡る争いから武牢で叛乱が起き、河陽での大戦で神武は辛くも逃れた。
- 北斉天保9年(558年)、7〜8丈の龍が斉州の大堂に現れた。常山王・長広王の権勢増大に応じ、翌年帝が崩じ常山王が幼帝を廃し幽殺した。
- 河清元年(562年)、龍が済州の浴堂に現れた。平秦王高帰彦による長広王擁立と楽陵王廃死に応じたとされる。
- 天統4年(568年)、貴郷で枯木から黄龍の死骸が見つかった(斉は木徳)。その年武成帝が崩じた。
- 武平3年(572年)、邯鄲・汲郡の井戸に龍が現れた。後主は周に降伏し誅殺された。
- 武平7年(576年)、并州で赤蛇(斉の色)と黒蛇(周の色)が争い赤蛇が死んだ。後主が晋州で周軍に敗れ虜われた。
- 琅邪王儼が石趙時代の澄公建立の浮図を壊した際、白蛇が現れ消えた。儼の専断は後に難を招いた。
- 北周建徳5年(576年)、亳州で黒龍(周の色)が墜死した。皇太子の不才を憂えた直臣の諫言が用いられず、後に太子が斉王らを虐殺し国が乱れた。
- 仁寿4年(604年)、代州総管府の井戸に龍が現れ鉄馬甲士に変じ弓を引く形を取った(兵革・幽囚の兆し)。漢王諒の謀反とその後の幽囚に応じたとされる。
馬禍
- 侯景が帝位を僭称した際、乗馬の状態(長嘶か俯首か)で戦の勝敗を占ったが、西州の戦では馬が立たず大敗した。
- 陳太建5年(573年)、衡州で馬に角が生えた(敗亡の兆し)。呉明徹の呂梁遠征の全軍覆没に応じた。
- 北斉天保中、広宗の馬に羊の尾のような角が生えた。文宣帝が契丹討伐に親征したことに応じたとされる。
- 大業4年(608年)、太原の厩馬が大量に死んだ。巫者は遼東遠征の予兆と讒言し帝は喜んだが、実際は長城築造・西域経営による国力消耗への戒めであった。
- 大業11年(615年)、河南・扶風で馬に角が生える怪異が続いた。帝の高句麗遠征への応。
- 義寧元年(617年)、江都の竜厩馬が理由なく数百匹死んだ。大業4年と同占とされる。