隋書卷二十二

『易』は八卦で吉凶を定め、『書』は九疇(洪範)で禍福を論じ、『春秋』は災祥で行事を証し、天文は星象で興廃を示す。漢代の伏生・董仲舒・京房・劉向らはみな災異を説いてよく六経を顧みた。劉向は「君道が正しければ和気が応じ吉兆が生じ、君道に背けば乖気が応じ凶兆が現れる」と述べた。天には七曜、地には五行があり、人事の五事(貌・言・視・聴・思)が乱れれば天地に異変が現れる。梁武帝の仏教への傾倒、斉文宣帝の市中への微行、陳の蔣山の鳥の異音、北周の陽武の魚の異変、隋の鵲の巣・宮門の火災など、いずれも天道であると同時に人妖でもある。以下、五行災異とそれに対応した史実を略記する。

木不曲直

『洪範五行伝』は、木は東方・威儀容貌を司り、古の聖王は容貌動作を節し田狩・飲食に礼制を守ったが、人君が威儀を失い田猟に耽り礼を顧みなければ「木不曲直」(木がまっすぐ育たない異変)が起こるとする。

  • 斉後主武平5年(574年)、鄴城東の青桐樹が人の形に生える。京房『易伝』は「王徳衰え下人が起こる兆し」とする。後主は国政を怠り酒色に耽り威儀を乱していたが、2年後に斉は滅んだ。
  • 武平7年(576年)、宮中の大樹が夜半に自ら根こそぎ倒れる(斉は木徳を以て王としており亡国の兆し)。同年、斉は滅んだ。
  • 開皇8年(588年)、幽州の白楊木・仁寿2年(602年)盩厔の楊木がそれぞれ久しく枯れていたのに新芽を吹く。京房『易伝』は「妃后の専横、枯木の再生」を占う。独孤皇后の専恣に応じたとされる。
  • 仁寿元年(601年)10月、蘭州の楊樹に松が生える。『宋志』は「危脆の木に永久の業が宿るのは、危亡の地に向かう兆し」とする。文帝が讒言に惑わされ嫡子を廃し晋王を皇太子に立てたことに応じ、後に煬帝の代で亡国に至った。
  • 仁寿4年(604年)8月、河間の柳が枯れ落ちて後に再び花葉が生じる(国に大喪ある兆し)。この年、文帝が崩じた。

金不從革

『洪範五行伝』は、金は西方・殺気の始めを司り、王者が正しく兵を用い義に応じて誅罰を行えば金気に順うが、人君が好戦的で百姓の命を軽んじれば「金不從革」が起こるとする。

  • 陳禎明2年(588年)5月、東冶の鋳鉄場に赤い物が天から落ち、雷鳴とともに鉄が飛び散り民家を焼く。当時、陳は隋と和好しつつも兵を出して隋の城鎮を襲っており、この異変は民を害する好戦への戒めとされた。後主は悟らず陳紀・任蠻奴・蕭摩訶らを再三出兵させ、隋軍渡江の際に二将が降伏し陳は滅んだ。

火失其性

『洪範五行伝』は、火は南方・明を司り、聖帝明王は南面して天下を聴断し賢俊を招き邪臣を退けて火気に順うが、讒言に惑わされ骨肉を離間し太子を殺し功臣を逐えば「火失其性」(火災)が起こるとする。

  • 梁天監元年(502年)5月、盗が神武門の総章観を焼く。まもなく太子が薨じ皇孫は立てられず、晩年には朱異の讒言により侯景の乱が起き宮室が焼かれた。
  • 普通2年(521年)琬琰殿の火災、中大通元年(529年)朱雀航華表の災、同2年同泰寺の災、大同3年(537年)朱雀門の災が相次いだ。武帝が仏道に傾倒し同泰寺で捨身を繰り返したことへの天誡とされ、後に江陵の陥落で武帝の一族は捨身の応報のように賤隷となった。
  • 陳永定3年(559年)重雲殿の火災。
  • 東魏天平2年(535年)11月、閶闔門の火災。斉神武(高歓)が讒言により大野拔・樊子鵠を殺し司空元暉を免じたことへの応とされる。
  • 武定5年(547年)8月、広宗郡で数千戸が焼失。
  • 北斉後主天統3年(567年)九龍殿の火災、4年昭陽・宣光・瑤華三殿の火災。讒言が用いられ斛律明月が誅死したことへの応。
  • 開皇14年(594年)泰山への祭祀に赴く途中、石像の神祠が野火で砕ける。滕王瓚の失志死、創業功臣の粛清、太子勇の廃黜の前兆とされた。
  • 大業12年(616年)顕陽門の火災(「広陽」は帝の姓名に通じる)。裴蘊・虞世基らの阿諛、宇文述の讒邪の重用への天誡とされた。

水不潤下

『洪範五行伝』は、水は北方の陰気を司り、天子が親耕し王后が親蚕して祭祀を敬えば水気は順うが、宗廟を疎かにし天時に逆らえば「水不潤下」(水害)が起こるとする。

  • 梁天監2年(503年)6月、太末・信安・豊安三県の大水。江州刺史陳伯之・益州刺史劉季連の反乱に応じたとされる。
  • 天監6〜7年(507〜508年)建康の大水。魏軍への出兵に応じたとされる。天監12年(513年)建康の大水。浮山堰築造の労役への応。
  • 中大通5年(533年)建康の大水。蕭棟・侯景の僭称に応じたとされる。
  • 北斉河清2年(563年)兗・趙・魏三州の大水、天統3年(567年)并州汾水の氾濫。和士開・元文遙・趙彦深の専権への応。
  • 武平6年(575年)山東諸州の大水。閹豎・伶人の重用への応。
  • 開皇18年(598年)河南八州の大水。独孤皇后の政治干渉・楊素の専権への応。
  • 仁寿2年(602年)河南・河北諸州の大水。文帝の刑罰の厳急、史万歳の誅殺への応。
  • 大業3年(607年)河南の大水で三十余郡が水没。煬帝が即位以来郊廟の礼を行わなかったことへの応。

稼穡不成

『洪範五行伝』は、土は中央・宮室と夫婦親属の事を司り、明王賢君が宮室の制を守り夫婦・親戚を大切にすれば中気は和するが、宮室を過度に営み妻妾を淫らにすれば「稼穡不成」(凶作)が起こるとする。

  • 斉後主武平4年(573年)、山東の饑饉。仙都苑・邯鄲の宮の大土木事業への応とされる。
  • 煬帝大業5年(609年)、燕・代・斉・魯諸郡の饑饉。東都建設と諸王の遠隔地転封への応とされる。

貌不恭

『洪範五行伝』は、容貌の不敬(貌不恭)は臣下の不敬を招き、常雨・服妖・龜孽・雞禍・青眚青祥などの異変を生じるとする。

貌不恭の実例

  • 侯景が帝位を僭称し円丘に登る際、正しく歩けなかった。まもなく敗死。
  • 梁元帝は侯景・蕭紀を破った後に驕慢となり、臣下の離反を招き即位3年で西魏に滅ぼされた。
  • 陳後主は郊廟の祭祀を仮病で避け、諫言した建甯令章華を斬った。江総・孔範らと宴に耽り国政を顧みず、秘書監傅縡の諫言も聞かず、まもなく国が滅んだ。
  • 陳の司空侯安都は驕慢が甚だしく、文帝の前でも無礼な態度を取り、後に誅死した。
  • 東魏武定5年(547年)、後の斉文襄帝(高澄)が父の死を秘して魏帝に朝見し、宴で無礼な振る舞いをした。後に暗殺された。
  • 高歓の時、司徒高昂が相府に無断で押し入ろうとし門者を射たが罰されず、後に西魏に殺された。
  • 北斉後主が周軍に迫られ鄴で兵を集めた際、将士を激励するはずが赧然と笑い出し、士気を失って周軍に虜われた。
  • 煬帝は自らの才学を誇り天下の士を驕り見下し、「謂人莫己若者亡」(自分に及ぶ者なしと思う者は滅びる)の戒めに反して驕慢を深め、最後は江都で終わった。

常雨水

  • 梁天監7年(508年)7〜10月、長雨が続く。武帝の連年の出兵・北伐による陰気の蓄積への応。
  • 陳太建12年(580年)8月、大雨霖。始興王叔陵の驕恣への応。翌年、宣帝が崩じ叔陵が乱を起こした。
  • 東魏武定5年(547年)秋、70余日の大雨。元瑾・劉思逸の文襄暗殺計画に応じたとされる。
  • 北斉河清3年(564年)6月、大雨により山東で大水、多数が餓死。突厥の并州侵攻に応じた。
  • 天統3年(567年)10月、長雨。胡太后の淫乱に応じたとされる。
  • 武平7年(576年)7月、大霖雨で水害・流民。駱提婆・韓長鸞ら小人の専政への応。
  • 北周建徳3年(574年)7月、30日間の霖雨。衛刺王直の謀反に応じ、尉遅運がこれを破った日に雨が止んだ。

大雨雪

  • 梁普通2年(521年)3月、大雪(平地3尺)。義州刺史文僧朗の魏への叛服への応。
  • 大同3年(537年)7月、青州の雪害。李賁の反乱に応じた。
  • 大同10年(544年)12月、大雪(平地3尺)。邵陵王綸・湘東王繹・武陵王紀ら諸王の驕恣に応じ、後の侯景の乱で諸王が互いに争い国が滅んだ。
  • 東魏興和2年(540年)5月、大雪。斉神武の鄴城築造の労役への応。
  • 武定4年(546年)2月、大雪で人畜が凍死。歩落稽の反乱への応。
  • 北斉河清2年(563年)2月、大雪連雨(南北千余里)。突厥木杆可汗と周軍の并州侵攻への応。
  • 天統2〜3年・武平3年、大雪が相次ぐ。馮淑妃・陸令萱の朝政専断への応とされる。
  • 陳太建元年(569年)7月、雷震で人が死ぬ。蔡景暦・陸繕の讒言重用への応。
  • 太建10年(578年)3月・6月、武庫や寺院が相次いで震撃される。呉明徹の北伐失敗、後の陳の亡国への天誡とされた。
  • 斉武平元年(570年)夏、丞相段孝先の門柱に雷が落ちる。「貴臣の門を撃つ雷は3年以内に佞臣が誅される兆し」とされ、翌年和士開が誅殺された。

木冰

  • 東魏武定4年(546年)冬、樹木が雨氷に覆われる(貴臣に害ある兆し)。侯景の反乱、慕容紹宗の渦陽での勝利に応じたとされる。
  • 北斉天保2年(551年)、清河王岳の憂死に応じた。
  • 武平元〜2年(570〜571年)、和士開の専政とその誅殺、琅邪王儼の遇害に応じた。
  • 武平6〜7年(575〜576年)、周軍の晋陽侵攻・鄴都陥落に応じた。

大雨雹

  • 梁中大通元年(529年)4月、大雹。武帝の捨身と仏門への拘束に応じた。
  • 陳太建2・10・13年(570・578・581年)、大雹が相次ぐ。始興王叔陵の陰謀と乱に応じた。

服妖

  • 北斉婁太后が病臥中、寝衣が自然に動く。まもなく崩じた。
  • 文宣帝末年、錦繍を着け化粧をし胡服で市中を微行した。太子は即位後まもなく済南王に廃された。
  • 後主は宮人に白い越布で額を折らせ髽幗のようにし、白い蓋を用いた(いずれも喪服に類する)。後に周に滅ぼされ父子ともに殺された。
  • 武平年間、後主が苑内に「貧児村」を作り自らぼろを着て物乞いの真似をして楽しんだ。後に周に敗れ、妃后は蝋燭売りにまで零落した。
  • 北周大象元年(579年)、冕に24旒、車服旗鼓もすべて24を単位とした。五皇后それぞれに送葬用の帳を作らせ祭器を並べて祭った。帝はまもなく崩じ政は隋に移った。
  • 開皇年間、皇太子勇と宜陽公王世積の家の婦人の領巾が軍旗の形に似ていた(兵禍の兆し)。勇は遇害、世積は誅殺された。

雞禍

  • 開皇年間、鶏が翅を鼓たずに鳴くとの上書があった(大臣の変事の兆し)。後に大臣の粛清、諸王の廃黜、太子の幽廃が相次いだ。
  • 大業初年、天下の鶏が夜鳴きするようになった。軍国の務めが増し重税と厳令が課され、各地で盗賊が起こり戦乱が絶えなかった。

龜孽

  • 開皇年間、掖庭宮に夜な夜な人が現れ宮人にいたずらをした。宮人が斬りつけると枯れ骨のような感触があり、追うと池に消えた。池を涸らすと大亀が見つかり、これを殺すと怪異は絶えた(晋王の後宮への諂媚に応じたとされる)。

青眚青祥

  • 陳禎明2年(588年)4月、無数の鼠が石頭淮に群がり数日で死んで川に流れた。まもなく陳は滅んだ。

金沴木

  • 陳天嘉6年(565年)7月、儀賢堂が理由なく自壊した。宮室の大改修と失政への天誡とされ、翌年帝は崩じた。
  • 禎明元年(587年)水殿が刀鋸で切るような音を立てて倒れ、朱雀航も自沈した。後主は悟らず陳は隋に滅ぼされた。
  • 北斉孝昭帝が楊愔を誅殺する途上、旗竿が自ら折れた。1年余りで帝は崩じた。
  • 河清3年(564年)長広郡の庁舎の梁が人の形に剥がれた。長広は帝の本封地で、その年帝は崩じた。
  • 武平7年(576年)穆后の乗る宝車が地に陥没した。同年斉は滅び穆后は長安に虜われた。
  • 北周建徳6年(577年)青城門が理由なく崩れた(皇太子の不適任の兆し)。翌年即位した太子は無道であった。
  • 大業年間、斉王暕の邸宅の梁が理由なく折れた(暕の野心への応)。後に帝の勘気を被った。

言不從

『洪範五行伝』は、言葉が道理に従わないことを「不乂」といい、その咎は僭越に、罰は日照りに現れ、詩妖・毛虫の孽・犬禍・口舌の病・白眚白祥が生じ、木が金を沴す(損なう)とする。

言不從の実例

  • 梁武陵王蕭紀は帝位を僭称し年号を天正としたが、永豊侯蕭捴は「天正」の字が分解すると「一止」となり長続きしないと予言し、果たして1年で敗れた。
  • 北斉文宣帝の太子殷の字を邢子才が「正道」と名付けたが、帝は「正は一止なり」と字の分解から不吉を悟った。太子は即位後まもなく常山王に廃され殺害された。
  • 武成帝は左僕射和士開の享楽を勧める言葉を悦び淫侈を深めたが、士開自身も後に御史中丞に殺された。
  • 武平年間、陳の彭城侵攻に侍中韓長鸞が「楽しめばよい」と帝に進言し、帝はこれを悦んだが、まもなく周に滅ぼされた。
  • 武平7年、後主は周軍に敗れて自ら太上皇と称し年号を隆化としたが、人々は字を分解して「降死」と読み、実際に降伏して死んだ。
  • 周武帝が年号を宣政に改めた際、梁主蕭巋はその字を分解して「宇文亡日」と読み、同年6月に帝が崩じた。宣帝が即位後大象と改元した際も蕭巋は「天子塚」と読み解き、翌年帝は崩じた。
  • 開皇初年、梁王蕭琮が年号を広運に改めた際、江陵の父老は「運の字は軍走なり」と評し、後に琮は入京して抑留され梁国は廃された。
  • 文帝が皇太子を勇、諸子を英・俊・秀と名付けたことに対し、これらは布衣の美称であって帝王の名にふさわしくないとの上書があった。後に勇・俊・秀はみな廃黜され、煬帝の代で天下を失った。
  • 煬帝が即位し年号を大業としたことについて、識者は字を分解して「大苦来」と読み、まもなく天下が乱れた。
  • 煬帝は秘書郎虞世南に対し諫言を嫌う心情を語ったが、識者は古の聖王が諫言の道を大切にしたことと対比し、直言を嫌う者は長続きしないと評した。果たして弑逆に遭った。

  • 梁天監元年(502年)、大旱で米価高騰、多数餓死。武帝の連年の出兵による民の疲弊への応。
  • 陳太建12年(580年)春、雨が降らず。周軍の淮北侵攻・始興王叔陵の敗績への応。
  • 東魏天平4年(537年)、并・肆・汾・建・晋・絳・秦・陝諸州の大旱。斉神武の沙苑での敗戦への応。
  • 武定2年(544年)冬春、旱。西魏軍の洛陽侵攻・邙山の激戦への応。
  • 北斉天保9年(558年)夏、大旱。長城400余里の築造の労役への応。
  • 乾明元年(560年)春、旱。金鳳・聖応・崇光の三台築造への応。
  • 河清2年(563年)4月、并・晋以西5州の旱。軹関の築造、突厥の恒州侵攻への応。
  • 天統2年(566年)春、旱。大明宮の造営への応。
  • 開皇4年(584年)以後、京師で頻繁に旱。龍首への遷都・宮室建設の労役への応。
  • 大業4年(608年)、燕・代辺境諸郡の旱。長城築造100余万人の労役、帝の巡幸への応。
  • 大業8年(612年)、天下の旱と流民。高句麗遠征での六軍の凍餓への応。大業13年(617年)、天下の大旱。諸郡の築城労役への応。

詩妖

  • 梁天監3年(504年)6月、沙門志公が重雲殿で舞い歌い五言詩を賦した。詩中の年数・地名が後の侯景の乱の経過(懸瓠からの投降、丹陽での決起、汝陰での死)と符合したとされる。
  • 天監中、茅山の隠士陶弘景の五言詩「夷甫任散誕、平叔坐談空、不意昭陽殿、忽作単于宮」も、後に侯景が昭陽殿に居座ったことと符合したとされる。
  • 大同年間の童謡「青糸白馬寿陽来」は侯景が白馬に青い羈勒で丹陽を破ったことに、陳初の童謡「黄班青驄馬」は韓擒虎(黄班)が青驄馬で建康を破ったことにそれぞれ符合したとされる。
  • 陳の江南で歌われた王献之「桃葉」の詞は、晋王(煬帝)の陳討伐の陣立てと符合したとされる。
  • 陳後主の造った「斉雲観」の歌、および禎明初の哀切な新歌「玉樹後庭花」は、いずれも陳の滅亡を予言したものとされた。
  • 斉神武の鄴遷都の際の童謡は、孝静帝の運命(禅譲後の崩御)と符合したとされる。
  • 武定中の童謡「百尺高竿摧折、水底燃灯澄滅」は、高歓(姓が高)の崩御と高澄(字が澄)の遇害に符合したとされる。
  • 天保中、陸法和が壁に記した「十年天子」「百日天子」「周年天子」の予言は、文宣帝の在位10年、廃帝の在位百余日、孝昭帝の在位1年とそれぞれ符合したとされる。
  • 武平元〜2年の童謡は、隴東王胡長仁の失脚、和士開の誅殺、琅邪王儼の遇害、趙彦深の左遷の時期と符合したとされる。
  • 武平末の童謡「黄花勢欲落」は穆后(小字黄花)の没落を、鄴中の童謡「金作掃帚玉作把」は周軍の鄴入城を、それぞれ予言したとされる。
  • 周初の童謡「白楊樹頭金鶏鳴」は静帝(隋の甥)の運命を、宣帝が宮人と夜に歌った「自知身命促」は在位3年での崩御を、それぞれ符合したとされる。
  • 開皇10年(590年)、高祖が并州で秦孝王・王子相に賦した詩「紅顔詎幾」は、翌年の王子相の死、18年後の秦孝王の薨去と符合したとされる。
  • 大業11年(615年)、煬帝が長楽宮で賦した五言詩、江都での詩「求帰不得去」、夢に聞いた童子の歌「住亦死、去亦死」は、いずれも煬帝の非業の死を予言したとされた。
  • 大業中の童謡「桃李子」は、李密の挙兵と洛口倉の襲撃、宇文化及の自称「許国」の滅亡を予言したとされる。

毛蟲之孽

  • 梁邵陵王綸の邸内での狸の異変、蟄熊による馬の負傷は、後の綸の敗死(王僧辯に敗れ西魏に殺害)に応じたとされる。
  • 中大同年間、闕下で連年狐が鳴いたのは、丹陽での戦乱・多数の死者に応じたとされる。
  • 陳禎明初、狐が床下に入り捕えられなかったのは陳の滅亡に応じたとされる。
  • 東魏武定年間、豹が鄴城に入ったのは、東魏軍の玉壁での敗北・神武の病死に応じたとされる。
  • 北斉武平年間、兎が廟社に入ったのは5年後の周軍の鄴入城・後主の東奔に応じたとされる。
  • 武平末、并・肆諸州で狼が人を食う被害が続いたのは、帝の無道な小人重用と、まもなくの周軍による滅亡に応じたとされる。

犬禍

  • 北斉天保4年、犬と女子の交わりの怪異が帝の失政の応とされた。
  • 後主の代、犬に官位を与える異常な寵愛は、群臣を犬同然に見る後主の態度への皮肉とされ、まもなく国が滅んだ。
  • 北周保定3年、両身6足の子犬が生まれたのは、宇文護らの謀反への応とされた。
  • 大業元年、雁門で犬が主人を離れ狼のように人を襲う怪異が数年続いたのは、煬帝の労役過重・臣下の離反への応とされ、後に長城の役・西域遼東への出兵・天下の怨叛、そして江都の変(宿衛の臣による弑逆)に至った。

白眚白祥

  • 梁大同2年、地に白毛が生えたのは、浮山堰築造の労役の疲弊への応とされる。
  • 北斉河清元年、滄州・長城下に毛が生えたのも、長城築造・三台造営の労役への応。
  • 開皇6年(586年)7月、京師に毛が降る異変があり、関中の旱・穀物高騰に応じたとされる。
  • 北斉天統初、岱山の封禅壇の玉璧が自然に地上に現れたのは、後の易姓革命(斉滅亡・隋の受命・封禅)を予言したものとされる。
  • 武平3年、白水岩下の石壁に「斉亡走」の文字が現れ、人々が「上延」と読み替えて瑞祥として祝ったが、実際には後主が鄴を捨てて逃走する結果となった。
  • 開皇17年(597年)、武安・滏陽間に石が10余個隕ちた(君主の危殆の兆し)。7年後、文帝は崩じた。
  • 開皇末、高祖が宮中に埋めた2個の小石が玉に変じた怪異は、大業末の群盗僭号の予兆とされた。
  • 大業13年、西平郡の石に「天子立千年」の文字が現れ祝賀されたが、識者は「千年万歳とは死後の意」と評し、翌年帝は殺害された。

木沴金

  • 梁大同12年、曲阿の建陵の石麒麟が動いた怪異は、園陵の無主化・国の滅亡を予言したとされる。
  • 北斉河清4年、殿上の石が自ら動き衝突した怪異は、寵臣らの離反・北周への降伏に応じたとされる。
  • 梁大同12年正月、建陵への辟邪像の運搬中に車が3度折れ跳躍した怪異は、劉向の説くところの「衆心を失い令が行われない」ことの象徴とされ、後の侯景の乱に応じたとされる。
  • 北周建徳元年、濮陽郡の石像が金を削り取ろうとした官に対し2度も地に躍り出た怪異は、武帝の征伐続きによる民心離反への応とされる。