隋書卷二十一

十煇

『周礼』では眡祲氏が「十煇」の法を掌り、妖祥を観て吉凶を弁じたという。十煇とは、祲(陰陽五色の気が入り混じるもの)、象(雲が赤烏のような形をなし日を挟んで飛ぶもの)、鑴(日の傍らを刺す気)、監(雲気が日の上に臨むもの)、暗(日月食や日光の暗さ)、瞢(光が晴れないもの)、彌(白虹が天に満ちて日を貫くもの)、序(山のような気が日の上にあるもの)、U(暈気、虹)、想(五色の気が人獣の形をなし吉凶を思わせるもの、青=饑、赤=兵、白=喪、黒=憂、黄=熟)の十種をいう。

日は君が土に乗じて王たる象徴とされ、政治が太平であれば日は五色に輝くとされる。日の色の変化・暈・戴(日の上に現れる気)・珥(日の左右に現れる気)・抱(日を包む気)・背(日に背く気)・璚・直・提・格・承・履など、様々な形状の気象について、それぞれ細かく吉凶(喜事・戦勝・叛乱・破軍殺将など)が占われる。特に両軍が対峙する際は、日月の暈気の起こり方・遠近・厚薄・長短・抱背の多少などを詳しく観察し、近い方が勝つ、疾い方が勝つ、厚い方が勝つ、長い方が勝つ、抱く方が背く方より勝つ、といった比較の原則が説かれる。月の暈・珥・蜺雲についても同様の軍事占が伝えられている。

雑気

天子の気は内が赤く外が黄色で四角く発し、王者が現れる場所やこれから行幸する場所に先立って現れるとされる。城門・華蓋・倉・楼・山鎮のような形を取り、五帝(蒼・赤・黄・白・黒)それぞれに応じた色の雲が日を扶けるという。敵陣にこの気が現れれば攻撃してはならず、自軍にあれば必ず大勝するとされる。

猛将の気は龍や虎の形を取り、両軍対峙時にその上に発すれば将は猛々しく鋭いとされる。軍の勝気は堤・阪のような形、火光のような形、山堤のような形などを取り、士卒が強盛で攻撃してはならないとされる。逆に敗気は乍ち現れ乍ち消える霧のような気、馬肝色・死灰色の気、偃蓋・偃魚のような形を取り、これは攻撃してよい兆しとされる。降伏の気は人が叉手して頭を下げる形、城中の気は南北に白気が出れば攻めてはならず、黒雲が星のように現れれば急ぎ包囲を解くべきとされる。暴兵の気・戦気・久しく晴れない陰雨(蒙、臣が君を謀る兆し)・白虹(百殃の本)・霧(衆邪の気)などについても、それぞれの占法が詳述される。海辺の蜃気楼、北夷・南夷それぞれの気の形状、韓・趙・楚・宋・魯・衛・周・秦・魏・鄭斉・越・蜀など諸国ごとに固有の雲の形(布・牛・日・車・馬・犬・車輪・行人・鼠・絳衣・龍・囷など)があるとされる。気を観測する方法として、初めて気が現れる高さや見える距離(千五百里外から三千里以内まで)による判断基準も示される。

五代災変応

以下、梁・陳・東魏北斉・西魏北周・隋の五代について、天文の異変とそれに対応した史実を年代順に略記する。

  • 天監元年(502年)8月、熒惑が南斗を守る。占いは「穀物高騰・大旱・宰相の死」。同年大旱で米価高騰、多数が餓死。翌年、尚書范雲が没した。
  • 天監2年(503年)5月、月が心宿を犯す。占いは「乱臣あり、三年以内に亡国」。4年後、交州刺史李凱が挙兵した。
  • 天監4年(505年)6月、歳星が昼間に見える。占いは「豊作」。この年大豊作。また「星が日と光を争えば文が武に勝る」とされ、以後帝は文治を尊び武備を怠った。8月、老人星が現れ「人主の寿昌」を占う。以後毎年秋分後に現れ、武帝の長寿の兆しとされた。
  • 天監7年(508年)9月、月が東井を犯す。占いは「水災」。同年、都で大水。
  • 天監10年(511年)9月、天の西北で雷鳴とともに赤気が地に至る。占いは「天狗、流血の兆し、君主が土地を失う」。同年12月、馬仙琕が魏軍を大破し朐山城を回復。
  • 天監13年(514年)2月、太白が天関で異常な動きを見せる。占いは「津渡が通じず兵乱」。同年填星が天江を守り「河川の決壊・土木工事」を占う。この年、浮山堰の築造が始まり、翌年填星が去ると堰が決壊した。
  • 普通元年(520年)正月、日食。占いは「大水」。同年7月、江・淮・海が氾濫。9月、国皇星が現れ「内乱・急な反乱兵」を占う。3年後、義州刺史文僧朗が叛いた。
  • 普通6年(525年)、歳星が南斗に入り月食があり、太白が昼間に見え経天する現象が相次いだ。
  • 普通7年(526年)正月、太白と歳星が牛宿で相犯す。占いは「君主凶・政治改まる」。翌年改元・大赦。大通元年、月が填星を掩う(大喪・天下無主の兆し)。中大通元年、帝が同泰寺で捨身し王公が贖い、太子が薨じるなど、いずれもこの兆しに応じた。
  • 中大通元年(529年)閏月、熒惑が鬼積屍を犯す(大喪・大兵の兆し)。翌年、蕭玩が魏梁州軍に敗死。
  • 中大通4年(532年)7月、星が雨のように隕ちる(人民離反の兆し)。後の侯景の乱と武帝の憂死はこの応とされた。
  • 中大通6年(534年)4月、熒惑が南斗にある(賊臣の反乱の兆し)。同年12月、北梁州刺史蘭欽が挙兵。
  • 大同3年(537年)3月、歳星が建星を掩う(反臣の兆し)。会稽の山賊蜂起、交州刺史李賁の反乱が続いた。
  • 大同5年(539年)10月、彗星が南斗に出現し婁宿で消える(王を謀る者の兆し)。翌年、劉敬躬の反乱、李賁の交州での皇帝僭称が起きた。
  • 太清2年(548年)5月、二つの月が見える(国乱・亡国の兆し)。
  • 太清3年(549年)正月、熒惑が心宿を守る(王者に凶)。太白が昼間に見え「大喪・革命」を占う。3月、熒惑再び心宿を守り「主が宮を去る」兆し。この年、武帝は侯景に幽閉され崩御、9月には月が歳星を掩い「天下亡君」を占い、まもなく侯景の簒奪が起きた。
  • 簡文帝大宝元年(550年)正月、月が昼間に光る(隠謀・国が乱れる兆し)。まもなく侯景の簒奪。
  • 元帝承聖3年(554年)9月、月が心中星を犯す(反臣・亡国の兆し)。3年後、元帝は西魏に捕らえられ、陳氏が国を奪い梁は滅んだ。

  • 武帝永定3年(559年)9月、月が南斗に入る(大人の憂い・太子の殃の兆し)。2年後、武帝が崩じ、質として周にあった太子昌は帰国後暗殺された。同年5月、日食(君の傷・帝徳消滅の兆し)。6月、填星と太白が並ぶ(疾病・内乱の兆し)。
  • 文帝天嘉元年(560年)5月、熒惑が右執法を犯す(大臣の憂い・執法者の誅殺)。4年後、司空侯安都が賜死。9月、彗星出現(敵国の兵起こる兆し)。この年、周将独孤盛が破られた。
  • 天嘉2〜5年(561〜564年)にかけて、歳星・熒惑・太白の動きが頻繁に記録され、廃帝天康元年(566年)には月が軒轅・執法星を犯し(女主の憂い)、翌年慈訓太后が崩じた。
  • 光大元〜2年(567〜568年)、月・歳星・辰星・太白の異変が相次ぎ「国亡君」「改立侯王」の占いが下され、太建2年に慈訓太后が廃帝を臨海王に廃した。
  • 宣帝太建7年(575年)4月、星孛が大角に現れる(人主の亡の兆し)。
  • 太建10年(578年)2月、日に背気(失地・叛兵の兆し)。将軍呉明徹が呂梁で敗れ、淮南の地を周に奪われた。10月、月が熒惑を食する(国敗君亡・大兵起の兆し)。翌年呉明徹再び敗れ、太建13年に帝が崩じた。
  • 太建12年(580年)2月、白虹が西方に見える(喪の兆し)。翌年帝が崩じた。10月、月が牽牛を犯す(国の亡・君の憂いの兆し)。彗星も出現し「兵喪」を占う。翌年帝が崩じ、始興王叔陵が乱を起こした。
  • 後主至徳元年(583年)正月、蓬星が現れる(亡国乱臣の兆し)。後主は太皇寺で捨身し国政を顧みず、施文慶らに惑わされて国を滅ぼした。

東魏・北斉

  • 魏普泰元年(531年)10月、歳星・熒惑・填星・太白が觜参に集まる(王者の興る兆し)。同月、高祖(高歓)が信都で挙兵し、後に爾朱兆を破って覇業を開いた。
  • 魏武定4年(546年)9月、高祖が玉壁城を包囲中、営に星が墜ち驢馬が鳴く(破軍殺将の兆し)。高祖は病み、翌年正月に崩じた。
  • 斉文宣帝天保元年(550年)12月、熒惑が房宿・鉤鈐を犯す(大臣の反逆の兆し)。翌年、太尉彭楽の謀反が発覚し誅殺。
  • 天保8年(557年)、歳星が少微を守り「五官の乱」を占う。太尉上将を犯し「大将の憂い・大臣の死」を占う。後の元氏宗室・楊遵彦らの誅殺はこの応とされた。7月、月が心星を掩う(人主の凶兆)。天保10年10月、帝が崩じた。
  • 天保9年、熒惑が鬼質を犯し「大喪」を占い、軒轅を犯し「女主の凶」を占う。魏氏宗室の誅殺、帝の崩御はこの応。
  • 天保10年(559年)6月、填星が井鉞を犯し太白と並ぶ(大臣誅殺・斧鉞使用の兆し)。翌年、常山王が楊遵彦らを誅殺、少帝を済南王に廃した。
  • 廃帝乾明元年(560年)3月、熒惑が軒轅に入る(女主の凶)。翌年太后が崩じた。
  • 粛宗皇建2年(561年)4月、日食。7月、熒惑が鬼中に入り鬼質を犯す(大喪の兆し)。11月、帝が急病で崩じた。
  • 武成帝河清元年(562年)7月、太白が輿鬼を犯す(兵謀・大臣誅殺の兆し)。冀州刺史高帰彦の反乱が誅され、太原王紹徳も殺害された。8月、月が畢を掩う(君死・大臣誅殺・辺境大戦の兆し)。高帰彦の誅殺、周・突厥の并州侵攻が応じた。
  • 河清4年(565年)正月、太白と熒惑が接近し、歳星も奎・婁で合する(兵喪・改立侯王の兆し)。3月、彗星出現(易王の兆し)。4月、帝は太子に譲位し改元した。
  • 後主天統元年(565年)6月、彗星が文昌に現れ紫微・危を経て一丈余りに達する(大喪・亡国易政の兆し)。4年後、太上皇(武成帝)が崩じた。
  • 天統3年(567年)5月・10月、天の西北に赤気(大兵大戦の兆し)。後に北周武帝の親征・大戦が応じた。
  • 天統4年(568年)6月、彗星が東井に現れる(大乱・国易政の兆し)。7月、孛星が房心に現れ、天市・室・離宮を経て奎に至り消える(兵喪並起・大臣誅殺の兆し)。太上皇が崩じ、後に琅邪王儼が和士開を誅殺、馮子琮が賜死した。
  • 天統5年(569年)2月、歳星が太微上将を犯す(四輔の誅殺の兆し)。5月、熒惑が鬼積屍を犯す(大臣誅殺・大喪の兆し)。以後、琅邪王儼・斛律明月・蘭陵王長恭・崔季舒らが相次いで誅殺された。
  • 武平3年(572年)8月、填星・歳星・太白が氐宿で合する(兵喪・改立侯王の兆し)。崔季舒ら諫言した重臣が誅殺され、内外に兵喪が続いた。9月、月が婁宿で食される(女主凶の兆し)。斛律皇后・胡皇后が相次いで廃された。11月、天狗が西北に落ちる(大戦流血の兆し)。周武帝の晋州攻撃・并州平定が応じた。
  • 武平3年12月、日が歳星を食する(亡国の兆し)。7年後、斉は滅んだ。
  • 武平4年(573年)5月、熒惑が右執法を犯す(大将の死・執法者の誅殺の兆し)。斛律明月・蘭陵王長恭・崔季舒の誅殺が相次いだ。

西魏・北周

  • 閔帝元年(557年)5月、太白が軒轅を犯す(大臣が令を出す・皇后失勢の兆し)。熒惑が東井を犯す(国乱・大旱の兆し)。同年9月、塚宰宇文護が帝に譲位を迫り幽閉して殺害、李植・孫恒・乙弗鳳らが誅殺された。冬に大旱があった。
  • 明帝2年(558年)3月、熒惑が軒轅に入る(女主の凶)。王后独孤氏が崩じた。6月、填星が井鉞を犯し太白と並ぶ(君の戮死の兆し)。太師宇文護の毒殺により帝が崩じた。
  • 武帝保定元〜4年(561〜564年)にかけて、客星・日食・熒惑の太微犯しなど頻繁な異変が記録された。
  • 天和元〜6年(566〜571年)にも日食・彗星・歳星と熒惑の合などが相次ぎ、「兵起」「大臣匿謀」「饑旱」などが占われた。特に天和2年閏6月、歳星と太白が柳宿で合し「内兵・主人凶憂・失城」を占い、陳の華皎が来附し衛公直との戦で不利となった。
  • 建徳元年(572年)3月、熒惑・太白が合璧する(兵喪・改立侯王の兆し)。同月、晋公宇文護とその一族が誅殺された。
  • 建徳2〜3年、白虹貫日・客星・彗星などの異変があり「臣謀君」「亡国」の兆しが占われ、衛王直の挙兵、皇太后の崩御が続いた。
  • 建徳6年(577年)8月、皇太子(後の宣帝)が西方を巡撫し吐谷渾を討つ。同年、帝が晋州を攻略し北斉と大戦、翌年北斉を平定した。10月、月食があり「国敗君亡・破軍殺将」を占い、陳の呉明徹が捕らえられた。
  • 宣政元年(578年)、武帝が北伐の途上崩じ、幽州の盧昌期の反乱、突厥の侵攻が相次いだ。12月、熒惑が氐宿に長く留まり「天子失其宮・賊臣在内」を占い、後に静帝が譲位を迫られ隋高祖に幽殺された。
  • 大成元年(579年)正月、日に背気が二度現れる(臣下の反逆の兆し)。後に尉遅迥・王謙・司馬消難が挙兵した。
  • 大象元〜2年(579〜580年)、太白・歳星・辰星の合、流星、熒惑の動きなどが相次ぎ「改立王公」「国失君」の兆しが占われ、五王の誅殺、宣帝の崩御、静帝の即位、そして隋の受命へと続いた。

  • 高祖開皇元年(581年)3月、太白が昼間に見える(革政の兆し)。4月、歳星が昼間に見える(大臣の逆謀の兆し)。まもなく劉昉らの謀反が誅された。11月、流星が現れ「国安・喜事」を占う。9年後の陳平定・天下統一の兆しとされた。
  • 開皇8年(588年)2月、填星が東井に入る(用兵に利ありの兆し)。この年、陳討伐が始まり克服した。10月、星孛が牽牛に現れる(臣が君を殺す・大兵の兆し)。翌年陳が滅んだ。
  • 開皇9年(589年)正月、白虹が日を挟む(臣の背反の兆し)。同月、陳を滅ぼした。
  • 開皇14年(594年)11月、彗星が虚危・奎婁(斉・魯の分野)に現れる。後に魯公虞慶則が処刑され、斉公高熲が除名された。
  • 開皇19〜20年(599〜600年)、星の墜落・太白の昼間出現などがあり「革政・易王」を占う。楊素らの讒言により皇太子勇が廃されたことが応じた。
  • 仁寿4年(604年)6月、星が月に入る(大喪・大兵・亡国の兆し)。7月、日が青く光を失う(帝の死の兆し)。文帝が崩じ、漢王諒の反乱が楊素により平定された。
  • 煬帝大業元年(605年)6月、熒惑が太微に入る(賊乱・宮中不安の兆し)。
  • 大業3年(607年)、長星(彗星)が天を横切り、奎婁・角亢を経て9月に南方でも見られ、「兵大起・国大乱にして亡ぶ」と占われた。以後、長城築造・吐谷渾討伐・高句麗遠征が続き、水旱饑饉・土功疾疫が相次ぎ、群盗が各地で蜂起した(楊玄感の反乱、朱燮・管崇の反乱など)。
  • 大業11年(615年)6月、彗星が文昌に現れる(急な兵乱の兆し)。8月、突厥が雁門で帝を包囲。7月、熒惑が羽林を守る(衛兵反乱の兆し)。12月、大流星が賊将盧明月の営に墜ちる(破軍殺将の兆し)。王充がこれを撃破した。
  • 大業12年(616年)5月、日食(人主の亡・下が上を伐つ兆し)。後に宇文化及の弑逆に応じた。他にも大流星が呉郡に落ち劉元進の乱と重なり、枉矢(矢のような流星)が北斗から南斗に注ぎ「兵を以て乱を伐つ」兆しとされ、後の宇文化及・王充による帝殺・簒奪に対応した。
  • 大業13年(617年)5月、大流星が江都に墜ちる(大戦・破軍殺将の兆し)。6月、星孛が太微五帝座に現れる(亡国・殺君の兆し)。翌年、宇文化及らが煬帝を弑逆した。11月、熒惑が太微を犯し「賊入宮・臣逆君」を占う。翌年の弑逆・諸王の殺害はこの応とされた。