車輦の変遷――梁
- 車輦の等威は時代により変遷した。梁は初め斉制を踏襲し、武帝が礼儀を議定する中で漸次変革された。永明中、伏曼容・荀万秋の議論を経て天監三年に五輅・旗を共に赤に統一(旒の数のみ差)。七年には周捨の議で「玉輅は祭祀、金輅は賓」の礼に基づき陵廟には玉輅を用いることとし、太僕卿・奉車郎がそれぞれ大駕・法駕で御した。永明制の重屋・鳳凰・金鈴等の装飾は天監十二年に省かれた。
- 輦車は斉の武帝が造った軺車形式のものから梁では笨輦(犢車形、金龍・重層飾)に発展。羊車(羊車小史と呼ばれる童子が引く)、画輪車、衣書車(副車)、皇太子の鸞輅(駕三馬)なども梁朝の制度として整えられた。二千石・四品以上・列侯には軺車が身分に応じ細かく給された(鹿幡軺・鳳轄軺・聊泥軺・龍雀軺・方蓋軺など)。諸王三公には皁輪車・油幢絡車、方州刺史には通幰平肩輿が給された。五牛旗(五色の副車、青・赤・白・黒・黄)、指南車、記里車(一里ごとに木人が槌を打つ)、鼓吹車なども整備された。
車輦の変遷――陳・北魏・北斉
- 陳は梁末の兵火(王琳の放火)で車府を焼失し、天嘉元年、到仲挙に玉金象革木の五輅と五色副車の再造を命じた(金薄交龍の飾り、玳瑁の鵾翅飾りから俗に「金鵾車」と呼ばれた)。
- 北魏は天興初め董謐が朝饗儀を撰したが古式に違うことが多く、孝文帝の代に李韶が経籍に基づき改定、熙平中には崔光・元延明・崔瓚が皇太子(金輅)・三公及び王(高車)・庶姓王侯以下(軺車)の制を整え、北斉もこれを継承し以後増損なく用いた。
北周の輅制
- 北周は六官制のもと司輅の職を置き、皇帝の輅を十二等(蒼輅=昊天上帝祭祀、青輅=東方上帝、朱輅=南方上帝・朝日、黄輅=地祇・中央上帝、白輅=西方上帝・夕月、玄輅=北方上帝・感帝・神州祭祀の六輅は素漆のみ、玉輅=先皇享祀・元服・納后、碧輅=社稷・先帝・耕籍等、金輅=星辰祭祀・視朔・大射・饗群臣、象輅=群祀・視朝・燕諸侯、革輅=征戦、木輅=田猟の六輅は玉碧金象革木で装飾)に分けた。皇后の車も十二等(重翟=皇帝随行・祭郊禖等、厭翟=祭陰社、翟輅=採桑、翠輅=賓客随行、雕輅=帰寧、篆輅=道法門巡行、及び五時の蒼青朱黄白玄の六輅)とされた。諸公・諸侯・諸伯・諸子・諸男及びその夫人、三公・三孤・六卿・大夫・士に至るまで、輅の等級・鞶纓の就数(一就=一帀)が爵位に応じ厳密に定められ、旗(旜・物・旟・旌・旗・旐)の意匠や闟戟の規格も身分により差等があった。
隋の輅制の整備
- 開皇元年、内史令李德林は「北周・北魏の輿輦は制度が乱れている」として廃毀を奏し高祖はこれに従ったが、北魏太和年間に李韶が製した五輅(北斉天保でも遵用)と、北魏熙平中に穆紹が議定した皇后の輅(従祭は金根車、親桑は雲母車、帰寧は紫罽車、遊行は安車、弔問は紺罽輧車)は留め、五輅の制を令に著した。
- 皇帝の玉輅(青質、玉飾り、青龍白虎の意匠、十二旒の旗、祭祀・納后に使用)、金輅(赤質、金飾り、旟を建て朝覲・饗射に使用)、象輅(黄質、旌を建て行道に使用)、革輅(白質、革張り、旗を建て巡守・臨兵事に使用)、木輅(漆塗り、旐を建て田猟に使用)が定められ、いずれも旗色・鞶纓の色は輅の色に従い蓋の裏は黄で統一。安車・四望車も用途別に整備された。
- 皇后・皇太后の重翟(青質、金飾り、受冊・従郊禖・享廟)、厭翟(赤質、親桑)、翟車(黄質、帰寧)、安車(赤質、臨幸・弔問)も定められた。皇太子の金輅(赤質、従祀享・正冬大朝・納妃)、軺車(常朝・出入)、四望車(弔臨)、及び公・一品の象輅、侯伯・二三品の革輅、子男・四品の木輅(いずれも受冊告廟・親迎・葬に使用)も品階別に定められたが、開皇三年閏十二月、新造を停め旧物を用いることとされ、九年の陳平定で得た輿輦も既定のものは有司に付し、著令に無いものは毀棄された。
- 開皇十四年、現行の車輅が「近代に因循し経典に非ず」として改めて有司に考証させ、玉輅(祭祀)・金輅(朝会還御)・象輅(臨幸)・革輅(戎事)・木輅(耕藉)の五輅と副車を定め、いずれも朱斑輪・龍輈・重輿・十二旒(升龍を画く)とし、王・五等開国・一二品官及び刺史の輅は朱質で旂(龍一升一降)、三四品官の輅は朱質で旜(赤一色)とし、旒・鞶纓の就数は品階により差等をつけた。
大業の輿輦制度改革
- 大業元年、煬帝は楊素・牛弘・宇文愷・虞世基・許善心・何稠・閻毗らに命じ五輅の外に副車を新設させ、前朝の故事を審査して取捨させた。
- 玉輅は白虎通・周礼・大戴礼・蔡邕独断等を博く考証し、青質・玉飾り・左龍右獣・金鳳翅の意匠、太常の旗十二旒(升龍日月を画き地に曳く長さ)、闟戟(長四尺広三尺、黻文)を備え、蒼龍を駕し金鋄方釳・翟尾五隼・鏤鍚・鞶纓十二就とし、祭祀・納后に用いた(馭士二十八人)。
- 副車は蔡邕独断の五色安車・立車の故事(張良が誤って副車を撃った逸話も引用)に基づき、開皇中は置かれていなかったものを大業に至り正輅に準じ二等格下げした形で全て復活させた(副玉輅は駕四馬・馭士二十四人、他四副もこれに準ずる)。
- 金輅(周官の金輅・大旂の故事、赤質、旟を建て朝会・饗射・飲至に使用)、皇太子の輅(南朝以来の議論を踏まえ宇文愷・閻毗が「太子は金輅、皇嫡孫・親王も金輅とし装飾で差等をつける」と奏し許可、皇太子は赤質・駕四馬・馭士二十人、皇嫡孫は緑質で一等格下げ、親王は在国・納妃親迎時のみ金輅で常朝は象輅)、象輅(黄質、旌を建て祀后土に使用)、革輅(白質、旗=騶虞を画く、巡守臨兵に使用、三品以下は朱質革輅を使用)、木輅(黒質漆塗り、旐=玄武を画く、畋猟に使用、四品方伯は赤質木輅)がそれぞれ考証の上、規格化された。
- 安車(省問・臨幸用、皇太子安車は斑輪赤質)、四望車(拝陵・臨弔用、皇太子は緑油幢)、耕根車(沈約の故事に基づき新設、青質三重蓋、駕六馬、親耕に使用)、羊車(開皇にはなかったものを新設、羊車小史と呼ばれる十四五歳の童子二十人が引く)、屬車(秦漢以来の八十一乗の故事から宋の十二乗まで沿革を閻毗が考証し、帝の裁断で大駕三十六乗・法駕十二乗・小駕は廃止と決定)、輦・副輦(笨輦、梁武帝に始まる蓬輦)、輿・小輿、軺車、犢車(王公から五品以上に品階別の幰の色・材質で給付、六品以下は幰なしの犢車のみ自弁で許可)、馬珂(品階により三品九子・四品七子・五品五子)まで、いずれも故実を考証した上で細目が定められた。
- 皇后の重翟車・厭翟・翟車・安車・輦車も皇帝の副車に準じ整備され、皇后の属車の数については宇文愷・閻毗が皇帝の半数(十八乗)を提案したが、礼部侍郎許善心が周礼・宋大明の故事(王燮之の議「后は王に同じく十二乗」)を根拠に反対し、皇帝と同数(三十六乗)とすることが裁可された。三妃・皇太子妃・良娣以下・三公夫人・公主・王妃・五品以上命婦の車も、それぞれの身分に応じ翟車・犢車の色・幰の材質で差等が定められた。