受禅の儀
- 北周大定元年、静帝は太傅杞国公宇文椿・大宗伯金城公煚に璽紱と策書を奉じさせ隋への禅位を行った。壇の設置場所を巡り博士何妥は「魏の受禅は繁昌に壇を設けたのは行旅中の事情による例外で、漢高祖・光武帝も京邑での築壇ではない。晋宋以来の禅譲は南郊で行うのが通例で、北魏の朱雀観・北周の路門での即位はいずれも非礼」と論じ、結局丞相府をそのまま壇として用いることとなった。
- 二月甲子、宇文椿らが象輅・鹵簿を備え百官と共に至り、策を奉じて次に入った。高祖は遠遊冠で府僚と共に迎え、椿が策書を、煚が璽紱を奉じて進む中、高祖は北面再拝して一旦辞退。上柱国李穆が朝旨を諭し百官も勧進したが高祖は受けず、椿らが再度策書を進めるとようやく再拝して受け、高熲に策を、虞慶則に璽を授けて退いた。使者と百官は北面再拝し三度万歳を称えた。高祖は法駕を辞し紗帽・黄袍で臨光殿に入り、袞冕に改め小輿で西序より出、元会の儀に倣った。礼部尚書が符命・祥瑞の牒を進め、内史令が大赦・改元(開皇)の詔を宣した。この日、有司に南郊での祀天も命じられた。
皇太后・皇后・皇太子の冊立
- 北斉の皇太后崇建の礼では太尉が円丘方沢に玉帛を、廟に幣を告げ、皇帝は臨軒し太保に持節させ璽綬冊を皇太后(昭陽殿で褘衣を着し公主・命婦を陪列させる)に伝えた。皇后冊立も同様の礼。
- 北斉の皇太子冊立では皇帝臨軒、司徒が使者となり皇太子は遠遊冠で冊を受け中庶子に授け、璽綬を尚書から受けて庶子に授けた(幼少なら太師が抱く)。翌日以降、東宮での謝表・崇正殿での斎・廟謁でと段階を踏む。諸王の冊命も類似の儀次第(吏部令史が召版を届け、王が高車で赴き軺車に乗り換えて冊を受ける)で行われ、在州鎮の場合は使者が節冊を持って王第へ赴いた。
- 隋の臨軒冊命は三師・諸王・三公には車輅を陳ね、内史令が冊を読み受冊者が拝受して退出、開国の冊立では郊社令が茅土を奉じ受冊後に授けた。
加元服(元服の礼)
- 北斉の皇帝加元服では円丘方沢・廟への告祭の後、臨軒し太尉が空頂幘を黒介幘に改め、太保が冕を加え袞服を著せ、事終われば太保が上寿し群官が万歳を称えた。
- 皇太子の冠礼では太尉が七廟に制幣を告げ、崇正殿で使者が緇布冠→頍纓→遠遊冠→冕と段階的に加冠し、光禄卿が盥櫛を行い、最後に醴を受ける儀があった。
- 隋の皇太子加冠では前日に皇帝が大興殿で斎し、当日は賓(介添役)が緇布冠→頍纓→遠遊冠→冕と加冠し、皇太子は醴を受けて祭酒し、納言が皇帝の戒めを伝え、賓が字(あざな)を授けた。礼を終えると皇后への拝謁も行われた。
婚礼(納后・皇太子納妃)
- 北斉の皇帝納后の礼は納采・問名・納徴を経て円丘方沢・廟に告げ、皇帝臨軒し太尉を使者として璽綬冊を皇后行宮に届け、行殿で受冊。同牢の儀(皇后が大厳繡衣で入り、皇帝と共に三飯・二爵一巹を行う)、翌日の拝表謝、また翌日の皇太后への謁見、群官の上礼、廟への告祭という次第。
- 皇太子納妃の礼も同様の六礼次第(納采・問名・納吉・納徴・請期・親迎)を踏み、三日目に妃が皇帝・皇后に朝見した。
- 隋の皇太子納妃礼では皇帝が臨軒し使者を発し、納采・問名・納吉・納徴(玉帛乗馬)・告期を経て有司が特牲で廟に告げ妃を冊した。親迎に際し皇帝は皇太子を醮して「往きて汝の相を迎え我が宗事を承け、勗めて敬を帥いよ」と誡め、皇太子は廟の几筵の前で雁を奠じ拝礼、妃の父母が衿を結び鞶を施し、妃は輅に乗り皇太子が輪を三周させた後、宮に還った。三日目に妃は鶏鳴とともに起き皇帝・皇后それぞれに笲を奠じた。
- 北斉の娉礼(婚約の礼)は品階に応じ羔羊・雁・酒黍稷稲米麪、納徴の玄纁束帛・璧玉・獣皮・錦綵・絹・羊犢等の数量が細かく定められ(皇子王は玄三匹・纁二匹・束帛十匹・大璋一等、一品以下は逓減)、婚礼の従車数も皇子百乗から庶人五乗まで差等があった。
釈奠(孔子祭祀と経書の講義)
- 北斉の天子講経では孔子廟で経を定め、執経・侍講・執読等の役を置き、講義後に太牢で孔子を釈奠し顔回を配し軒懸の楽・六佾の舞を用いた。皇太子も一経に通じるごとに釈奠を行った。
- 梁の天監八年、皇太子釈奠については周捨の議で東宮元会に準じた儀とし、太子の昇降の際の阼階・西階の使い分けについて徐勉が「釈奠・宴会いずれも東階から昇るべき」と整理した。大同七年には皇太子の子(寧国・臨城公)の入学に際し師道の礼を害さないとして許可された。
- 北斉は新学の立学に必ず先聖先師を釈奠し、春秋二仲に常礼を行い、毎月朔には祭酒以下国子生まで孔顔廟に拝謁した。隋は国子寺で四仲月上丁に釈奠し、年一回郷飲酒礼、州郡学は春秋仲月に釈奠、州郡県も年一回郷飲酒礼を行った。
元会(正月朝賀)の儀
- 梁の元会は未明の庭燎から始まり、王公卿尹の拝礼、皇帝が袞冕で出御し珪璧を受ける儀、通天冠に改め即位、王公の上寿・宴・楽、尚書による五条詔の宣読、計吏への応対まで長大な次第があった。天監六年、御座の向きを東向から南向に改め、五等の贄玉の受納を主客郎に委ねる等の改訂が行われた。
- 陳は元会前十日に百官が儀を習い、庭燎・厳兵の中で朝賀、宮人が東堂で観覧する等、概ね梁礼に依った。
- 北斉は正日に侍中が州郡国使に慰労の詔を宣し、五条の詔書(正身愛民・勧農桑・寛養六極の民・戒めるべき奢侈と朋党等)を頒布、上計吏の応対が悪ければ墨水を飲ませる等の罰則もあった。元正大饗では品階により昇殿の可否が分かれた。
- 隋制では正旦・冬至に皇帝が出御、皇太子が鹵簿で入賀し皇后にも拝賀、群官・客使が拝礼、諸州の表を奏し、上寿・万歳三唱の儀で締めくくられた。
- 北斉・隋の中宮朝会では皇后が褘衣で昭陽殿に出御し内外命婦が拝礼、長公主が上寿した。隋では皇后自ら受賀に加え内侍が群臣の拝を取り次ぐ儀も加わった。
皇太子の朝参と東西面論争
- 北斉の皇太子監国時の座次(東面か西面か)を巡り、天保元年以降、邢子才は「東面は君臣通礼で避ける理由がない」と東面を主張し、魏収は「東宮は震の位、北城では東北にあたり南面すれば背を向ける形になる」等の易理・旧事を根拠に西面を主張、双方が経籍を引いて激しく往復論争したが最終的に西面で定まった。宮吏の姓名が太子の名と同じ場合の処遇(改姓させず配置転換で対応)も邢子才の議で定められた。
- 北周は正月二日に皇太子が南面し軒懸を列ね宮官が朝賀した。開皇初め、皇太子勇が旧例に倣い張楽して受朝し宮臣・京官が北面して称慶したところ高祖に誚められ、以後は西面で座し宮臣のみ称慶し台官は総集しない儀に改められた。煬帝が皇太子だった頃は章服の格下げと宮官の称臣不要を奏し許された。
その他の儀礼(読令・策秀孝・宗室宴・汎舟・養老)
- 北斉の立春日、皇帝は青服で太極殿に朝を受け三公郎中が時令を読む儀があり、立夏・季夏・立秋・立冬もそれぞれの色の服でこれに倣った。策秀孝(秀才・孝廉の試問)では答案に誤りがあれば墨水を飲ませ容刀を取り上げる等の罰があった。
- 北斉の宗室宴では皇帝が別殿西廂に出御し七廟の子孫が公服または単衣介幘で参集、七十歳は二人に扶けられて拝、八十歳は拝を免除された。正月晦日の汎舟の礼もあった。
- 仲春の養老礼では三老五更を国学に迎え、皇帝が親ら肉を割き醤を執って饋し爵を執って酳する等、丁重な礼が尽くされ、三老が五孝六順の教えを説いた。北周保定三年には于謹を三老とし高祖(宇文氏の太祖)が太学に幸して饗した例がある。