隋書卷七 礼儀二

雩祭(祈雨の礼)

  • 梁制では雩は恒祀とせず、四月以後の旱に際し理冤獄・振鰥寡孤独・省徭薄賦・挙賢良・黜貪邪・恤怨曠・撤膳弛楽の七事を行い、七日ごとに社稷→山林川澤→太廟の群廟→古来の百辟卿士→大雩(上帝に徧く祈る)と段階的に祈った。大雩の礼は南郊の左に円壇(高・輪広四丈、周十二丈)を立て黄牯牛一頭で五天帝・五人帝を太祖配で祀り、舞童六十四人が雲漢詩を歌った。澍雨があれば太牢で報謝するが雩自体には報謝しない。郡国県の祈雨も同様の五事を段階的に行った。
  • 陳は梁制に依り澍雨には少牢で報謝。天監九年、武帝は雨は陰に類するとして雩壇を東郊に移し、十年には燔柴を廃し瘞埋に改めた。十一年には四望の祭祀の再興を議し、鄭衆・鄭玄の解釈の相違を検討のうえ復活させた。
  • 北斉は孟夏の龍星出現時に太微五精帝を夏郊の東の円壇で顕宗文宣帝配により祀穀し、雩・南郊・堯廟・孔顔廟・社稷・五岳・四瀆・滏口・豹祠の九所で水旱疫癘に祈った。
  • 隋の雩壇は国南十三里啓夏門外にあり(高一丈・周百二十尺)、孟夏の龍星出現時に五方上帝・五人帝を太祖武元帝配で祀った(犢十)。京師で孟夏後に旱があれば理冤獄・存鰥寡孤独等の善政を七日ごとに岳鎮海瀆→社稷百辟卿士→宗廟古帝王→神州→再度岳瀆と巡り祈り、秋分後は雩をせず祷るのみとした。二十日不雨なら市を徙し屠殺を禁じ、皇帝は素服・避正殿・減膳撤楽、あるいは露坐して聴政した。霖雨には京城諸門を禜し、止まなければ山川岳鎮海瀆社稷、さらに宗廟神州へと祈りを広げた。

五時迎気(四立と季夏の祭)

  • 天子は四立の日と季夏に、その方の近郊で五帝(春の霊威仰・夏の赤熛怒・秋の白招拒・冬の叶光紀・中央の含枢紐、いずれもその徳による名)を迎え祭る。梁・陳・北斉・北周・隋は制度を継承し、太皥ら五人帝を配し五官・三辰・七宿を従祀した。梁は天監七年、昆虫がまだ蟄伏する時期の殺生を避けるため迎気の祭に牲を用いず珪璧皮幣のみとし、八年には大裘での一献に統一した。北斉は五郊に壇を築き(黄壇は未の方)北斉の儀は南郊に同じ、立春前五日に青土牛を作り立春に東郊で迎春した。北周も五郊壇を設け冢宰亜献・宗伯終献とした。
  • 隋の五時迎気壇は青郊(春明門外、高八尺)・赤郊(明徳門外、高七尺)・黄郊(安化門外、高七尺、季夏土王日)・白郊(開遠門外、高九尺)・黒郊(宮北丑地、高六尺)にあり、各方の帝を人帝配・太祖武元帝配で祀り(犢二、星辰に羊豕各一)、岳瀆鎮海は各迎気日に使者を派遣し太牢で祭った。

宗廟

  • 晋の江左以降、宋・斉は受命の主が六廟を立て太祖の位を虚しくした。梁の武帝は中興二年、梁公となった際に東城に四親廟と妃郗氏の廟で五廟を建て、即位後に東廟の神主を太廟へ遷し、皇高祖以下六廟(皇考を文皇帝・廟号太祖に追尊)とし、太祖廟は不毀とした。春祠・夏礿・秋嘗・冬蒸に臘を合わせ年五回の時祭、三年一禘・五年一祫の殷祭を功臣配で行った。天監三年、何佟之の議で祫祭にのみ功臣を配することとされ、哭泣の禁止範囲も六門を境と定められた。
  • 陳は七廟を立て年五祠、五歳に再殷(大祫)。文帝の父始興昭烈王の廟(東廟)は天嘉四年に梁の小廟へ祔祀され国廟と改称された。
  • 北斉の文襄帝は魏臣として四廟を置き、文宣帝受禅後は六廟(獻武帝以下不毀)とし、文襄・文宣は共に太祖の子であったため昭穆の序について議論の末、二年秋に太廟へ祔祀した。河清定令では四時祭廟に庭燎を設けた。王・五等開国以下庶人まで、身分に応じ祀る世数・牲(太牢~特牲)・廟数が定められた。
  • 北周は宗廟を右(社稷を左)に置き、太祖廟と高祖以下二昭二穆の五廟とし、徳のある者は祧廟として毀たなかった。閔帝受禅時に皇祖を徳皇帝、文王を文皇帝(廟号太祖)と追尊、明帝は世宗、武帝は高祖としていずれも祧廟とし毀たなかった。
  • 高祖(隋文帝)は受命後、太保宇文善・太尉李詢を同州に遣わし桓王廟(父)に告げ女巫を用いる家人の礼を行い、皇考桓王を武元皇帝、皇妣を元明皇后と追尊し神主を京師に迎えた。犠牲は赤を尚び祭は日の出に行う。宗廟を左、社稷を右とし(北周制の逆)、始祖を立てず高祖以下四親廟(太原府君・康王・献王・太祖武元皇帝)を同殿異室とした。三年一祫(孟冬)・五年一禘(孟夏)を行い、その月には瑞物や征伐で得た珍奇の品を廟庭に陳列し功臣を配饗、また先代の帝王(堯・舜・禹・湯・文武王・漢高帝)をそれぞれの旧地で契・咎繇・伯益・伊尹・周公召公・蕭何配により太牢一頭で祭った。
  • 大業元年、煬帝は周法に倣い七廟の造営を議させ、許善心・褚亮らが鄭玄・王粛の七廟説の異同を詳論し、隋は古典に依拠し七廟(太祖・高祖の二廟を周の文武二祧に準じ別立、始祖と合わせ三廟、他は分室で祭祀)を崇建すべきと奏し詔許されたが、実際の創制には至らなかった。東都造営後、洛陽の固本里北に天経宮を起こし高祖の衣冠を四時祭ったが、宗廟の東京建立は行役に紛れ再び停止した。

封禅

  • 帝王の興りは五精の気を稟け、太平を告げるため太山で封じ梁甫で禅ずる。斉桓公・秦始皇・漢武帝・光武帝が行ったが、晋・宋・斉・梁・陳はいずれも議論に至らなかった。北斉には巡狩の礼と登封の儀があったが実行はされなかった。
  • 開皇十四年、群臣が封禅を求めたが高祖は納れず、晋王広の抗表にも「事は重大で朕にその徳はない、東狩の折に岱山を拝するのみ」と答えた。十五年春、兗州行幸の際、岱岳で南郊に準じた壇を築き(壝外に柴壇、宮懸を設置)、袞冕・金輅・法駕で礼を行い青帝壇で祭った。
  • 開皇十四年閏十月、東鎮沂山・南鎮会稽山・北鎮医無閭山・冀州鎮霍山にそれぞれ祠を立て、東海(会稽県界)・南海(南海鎮南)にも近海に祠を立てる詔。四瀆・呉山も含め巫一人を置き松柏を植えさせた。十六年正月には北鎮を営州龍山に立てる詔。
  • 大業中、煬帝は晋陽行幸の折に恒岳を祭り、高祖の岱宗拝礼の儀に倣い壇を増設し道士女官数十人に醮を行わせた。十年、東都行幸の際には華岳を過祀し廟側に場を築いたが、いずれも有司の定めた正式な礼ではなかった。

朝日・夕月

  • 天子は春分に東郊で日を朝し秋分に西郊で月を夕する礼。漢は泰畤で朝夕行い、魏文帝はこれを煩瑣として正月に朝日のみ東門外で行ったが史書に非時と評された。魏の明帝太和元年に至り二月に朝日・八月に夕月と分けて古礼に合致した。
  • 北周は国東門外に壇を築き春分に朝日(特牲青幣、青圭有邸、皇帝は青輅・青冕)、国西門外に坎中の壇を築き秋分に夕月した。
  • 隋は開皇初め、国東春明門外に壇を築き春分に朝日、国西開遠門外に坎(深三尺・広四丈)とその中の壇(高一尺・広四尺)を築き秋分に夕月、牲幣は北周と同じくした。

社稷

  • 土穀は偏って祭れないため社稷を立てて祀り、勾龍を社、周棄(后稷)を稷の主とし配した。年二回(春の求め・秋の報い)祭る。
  • 梁の社稷は太廟の西にあり、太社・帝社・太稷の三壇(晋元帝建武元年創設)。仲春仲秋に郡国県も社稷・先農を祀った。天監四年、明山賓の議により太常丞が牲を牽き太祝令が賛牲する形に定め、大同初めには官社・官稷を加え五壇とした。
  • 陳は梁の旧制に依り、帝社は三牲首を用いた。太史署は二月八日に太牢で老人星ほか四十六座を祀った。
  • 北斉は国の右に太社・帝社・太稷の三壇を立て仲春仲秋の元辰と臘にそれぞれ太牢で祭り、皇帝親祭の際は司農卿省牲・司空亜献・司農終献。北周は冢宰亜献・宗伯終献。
  • 隋は開皇初め、社稷を含光門内の右に並べ仲春仲秋の吉戊に各太牢一で祭り(牲色は黒)、孟冬下亥にも臘祭。州郡県は二仲月に少牢で祭り百姓も各社を持った。また延興門外に霊星壇を立て立秋後の辰の日に少牢で祭った。

藉田(親耕の礼)

  • 梁は初め正月に斎せず祭らず行っていたが、天監十二年、武帝は「啓蟄而耕」の古義により二月に改め、散斎七日・致斎三日を経て先農神座を設け、耒耜を象輅に載せることを侍中に命じた。普通二年には建康北岸に藉田を移し望耕台・祈年殿を設けた。
  • 北斉は帝城東南千畝に赤粱・白穀・大豆等を植え、正月上辛後の吉亥に公卿が太牢で先農神農氏を祭り、皇帝が三推三反、官の品階に応じ五推五反~九推九反、藉田令が牛耕で千畝を終えた。
  • 隋制は国南十四里啓夏門外に千畝の壇を設け、孟春吉亥に先農を后稷配で太牢一頭で祭り、皇帝は袞冕・金根車で三献の後三推、以下官品に応じ五推・九推、司徒が属官を率い千畝を終え、九穀を神倉に納めた。

先蚕(皇后の親桑の礼)

  • 周礼では王后は北郊で蚕し、漢法では東郊。魏は周礼に依り北郊、呉の孫氏にも西蚕頌が伝わる。晋は武帝楊皇后が西郊、宋孝武帝大明四年に台城西白石里に西蚕の兆域が設けられた。
  • 北斉は京城北西に蚕坊(方千歩)を設け、季春穀雨後の吉日に公卿が太牢で先蚕黄帝軒轅氏を祭り、皇后が桑壇で親桑(三条を躬桑)した。
  • 北周は皇后が翠輅で三妃以下を率い太牢で先蚕西陵氏を祭った。隋は宮北三里の壇(高四尺)で季春上巳に皇后が三夫人・九嬪・内外命婦を率い一献礼で先蚕を祭り桑を採った。

高禖(子授けの祭)

  • 仲春の玄鳥飛来の日に太牢で高禖を祀る。漢武帝は太子を得て城南に禖祠を立てた。晋恵帝の代、禖壇の石が破損した際の処遇を巡り議論があり、魏青龍中の故事により旧に依り造り置くこととなった。梁の太廟北門内にも竹葉紋の石があり郊禖の石とされる。
  • 北斉は南郊の傍に壇を築き春分の玄鳥至の日に皇帝が六宮を率い青帝を太昊配で祀り高禖の神に子を祈った。隋制も同日に南郊壇で高禖を太牢一で祀った。

司中・司命・風師・雨師

  • 風師は西方、司中・司命は南郊(陽の神ゆえ)、雨師は北郊(水位にあるため)に兆する古法があった。隋制では国城西北十里亥地に司中・司命・司禄の三壇を同じ壝内に立て立冬後の亥日に、東北七里通化門外に風師壇を立春後の丑日に、西南八里金光門外に雨師壇を立夏後の申日に祀った(各壇高三尺、少牢)。

蜡(年末の百神祭)と臘

  • 伊耆氏が蜡を始めた。周法では十二月に万物を合わせ索饗した。北周も十一月に神農・伊耆・后稷・田畯及び鱗羽臝毛介・水墉坊郵表畷・獣猫の神を五郊で祭り、皇帝初献、冢宰亜献、宗伯終献とした。
  • 隋初は北周制により孟冬下亥に百神を蜡し、宗廟を臘し、社稷を祭った(不作の方角は蜡を欠く)。仲冬に名源川沢を北郊で太牢で、井を社宮で少牢で祭った。季冬に氷を蔵し仲春に氷を開く際は黒牡秬黍を用い冰室で司寒神を祭り、開氷には桃弧棘矢を加えた。開皇四年十一月、「臘」の字義(新故交接)を考証し、北周が夏の暦法で十月に蜡を行っていたのを改め十二月を臘とする詔が下された。

淫祀への戒め

  • 北斉の後主末年には非礼の鬼を祭り自ら鼓儛して胡天に仕え、鄴中で淫祀が盛んになった風潮は後まで絶えなかった。北周も西域を招くため拝胡天の制を設け皇帝自ら行ったが、その儀は夷俗に依り記録するに値しないものであった。