隋書卷三 煬帝上
隋の第二代皇帝、煬帝楊広(?-618年)。高祖の第二子で、晋王として陳討伐に功をあげ、兄の皇太子勇廃立ののち皇太子となり、大業元年(605年)に即位した。東京洛陽の造営、大運河の開削、西域・吐谷渾への遠征など大規模事業を次々に推し進めた治世前半を収める。
出自と生い立ち
- 煬皇帝、諱は広、一名英、小字阿𡡉。高祖の第二子、母は文献独孤皇后。容姿美しく幼くして敏慧で、高祖と后は諸子の中でも特に鍾愛した。北周時代、父の勲功により雁門郡公に封ぜられる。
晋王時代
- 開皇元年、晋王に立てられ柱国・并州総管を拝命、時に十三歳。まもなく武衞大将軍、進んで上柱国・河北道行台尚書令・大将軍。高祖は項城公韶・安道公李徹に輔導させた。学を好み文を善くし、沈深厳重で朝野の期待を集めた。高祖が人相見の来和に諸子を見せた際、来和は「晋王は眉上の骨が隆起し貴きこと言うべからず」と評した。高祖が晋王邸を訪れた際、楽器の絃が多く断絶し塵埃を被り使われていない様子を見て、声妓を好まぬ質実な人柄と善しとした。晋王は自ら矯飾し当時仁孝と称された。狩猟中の雨に際し左右が油衣を勧めたが「士卒は皆濡れているのに私だけこれを着るのか」と言い退けたという。
- 開皇六年、淮南道行台尚書令に転じ、同年雍州牧・内史令を拝命。八年冬、陳討伐の行軍元帥となる。陳平定に際し陳の湘州刺史施文慶・散騎常侍沈客卿・市令陽慧朗・刑法監徐析・尚書都令史暨慧を邪佞として右闕下で斬り三呉に謝した。府庫を封じ資財を取らず天下に賢と称された。太尉に進み輅車・乗馬・袞冕の服・玄珪白璧を賜り、并州総管に復す。江南で高智慧らの乱が起こると揚州総管に徙り江都を鎮し毎年一朝することとなった。高祖の泰山祭祀の際は武候大将軍を領した。翌年藩に帰る。数年後、突厥の辺境侵犯に対し行軍元帥として霊武に出るも虜と遇わず帰還。
- 太子勇が廃されると皇太子に立てられた。冊立の夜、烈風大雪・地震山崩により民家が多く壊れ死者百余人に及んだ。仁寿初め、詔により東南を巡撫。以後高祖が仁寿宮で避暑する際は監国を任された。
大業元年(605年)――即位
- 四年七月、高祖崩御、上は仁寿宮で皇帝位に即く。八月、梓宮を奉じ京師に還る。并州総管漢王諒が挙兵し反したため楊素に討平を命じる。九月、崔彭を左領軍大将軍とする。十一月、洛陽に行幸し丁男数十万を発して龍門から長平・汲郡を経て臨清関に至り黄河を渡り浚儀・襄城から上洛に達する塹を掘らせ関防を置く。癸丑、洛邑遷都の理由を長大に述べる詔(変化・遷移の理、漢祖の洛陽讃、漢王諒の乱鎮圧の教訓、宮室は節倹を旨とすべきこと等)。
- 十二月、来護児を右驍衞大将軍、李景を右武衞大将軍、周羅睺を右武候大将軍とする。
- 大業元年正月、大赦、改元。妃蕭氏を皇后に立てる。豫州を溱州、洛州を豫州と改称。諸州総管府を廃す。晋王昭を皇太子とする。宇文述を左衞大将軍、郭衍を左武衞大将軍、于仲文を右衞大将軍とする。豫章王暕を豫州牧とする。八使を風俗巡省に発する。愛民・寛大の詔(孝悌力田の優復、鰥寡孤独の振済、義夫節婦の旌表、高年への版授、人材登用等)。宇文㢸を刑部尚書とする。
- 二月、楊素を尚書令とする。
- 三月、楊素・楊達・宇文愷に東京の営建を命じ、豫州郭下の居人を移す。訴えの直達を求める詔。皁澗に顕仁宮を営み海内の奇禽異獣草木を集める。天下の富商大賈数万家を東京に徙す。河南諸郡の男女百余万を発して通済渠を開く(西苑から穀・洛水を引き黄河に達し、板渚から黄河を淮に通す)。王弘・於士澄を江南に遣わし木材を採り龍舟・鳳艒・黄龍・赤艦・楼船等数万艘を造らせる。
- 夏四月、劉方が林邑を撃破。
- 五月、韋沖卒去。
- 六月、熒惑が太微に入る。
- 秋七月、戦亡の家に十年の徭役免除を制定。滕王綸・衞王集の爵を奪い辺境に徙す。
- 閏七月、楊素を太子太師、雄を太子太傅、河間王弘を太子太保とする。学問振興の詔(漢の焚書・晋の乱離以来学が衰えた経緯を述べ、人材の採訪と登用、国子学の整備を命ずる)。
- 八月、龍舟に乗り江都に行幸。郭衍を前軍、李景を後軍とし、五品以上に楼船、九品以上に黄蔑を給う。舳艫が二百余里続く。
- 冬十月、江淮以南を赦す。揚州に五年、旧総管内に三年の給復。崔仲方を礼部尚書とする。
大業二年(606年)
- 正月、東京完成し監督者を賞す。梁毗を刑部尚書とする。十使を遣わし州県を併省。
- 二月、楊素・牛弘・宇文愷・虞世基・許善心に輿服を制定させる。輦路・五時副車を整備。皮弁・弁服・佩玉・犢車・通幰・油絡・平巾幘・袴褶・瓟槊等の服制を階級ごとに定める。都尉官を置く。
- 三月、江都より発つ。何稠・雲定興が儀仗を修めるため州県に羽毛を求めさせ百姓が禽獣を捕らえ尽くす。
- 夏四月、伊闕から千乗万騎を備え東京に入る。端門に御し大赦、今年の租税を免ず。楊文思を民部尚書とする。
- 五月、李通が事に坐し免職。先哲を祀る詔。
- 六月、楊素を司徒とする。豫章王暕を斉王に進封。
- 秋七月、衞玄を工部尚書とする。考課の乱を戒め徳行功能で抜擢する制。藩邸の旧臣鮮于羅ら二十七人を抜擢。皇太子昭薨去。楊素薨去。
- 八月、皇孫倓を燕王、侗を越王、侑を代王とする。
- 九月、秦孝王俊の子浩を秦王とする。
- 冬十月、段文振を兵部尚書とする。
- 十二月、帝王陵墓に十戸を給し守視させる詔。
大業三年(607年)
- 正月、并州逆党で流配後逃亡した者は捕えた場所で即決斬とする。長星が東壁から二旬にわたり現れる。武陽郡が黄河の清らかさを言上。
- 二月、彗星が奎から文昌・大陵・五車・北河・太微を経て帝坐を掃い百余日続く。
- 三月、京師に還る。姚辯を左屯衞将軍とする。朱寛を流求国に遣わす。河間王弘薨去。
- 夏四月、河北巡撫の詔。律令を頒布し大赦、関内に三年の給復。州を郡と改称。度量権衡を古式に改める。上柱国以下の官名を大夫と改める。人材登用の十科挙人制の詔。
- 北巡狩、太師李穆の墓を太牢で祭る。
- 五月、突厥啓民可汗の子拓特勤来朝。河北十余郡の丁男に太行山を鑿らせ并州に達する馳道を通す。啓民可汗の兄子毗黎伽特勤来朝。啓民可汗の入塞奉迎の申し出を上は許さず。文昌上将に彗星。
- 六月、連谷で狩猟。廟制整備の詔(高祖文皇帝のため別に廟宇を建て月祭を行うこと)。榆林郡に至る。啓民可汗来朝。吐谷渾・高昌の使者来貢。北楼で漁を観て百僚を宴す。
- 秋七月、啓民可汗が服制改変を上表。啓民に賛拝不名・諸侯王上位を許す。郡城東の大帳で啓民及びその部落三千五百人を宴し百戯の楽を奏す。賀若弼・宇文㢸・高熲を殺害。蘇威が事に坐し免職。丁男百余万で長城を築く(榆林から紫河まで一旬、死者十五六)。
- 八月、榆林を発つ。啓民が廬を飾り道を清め迎える。太原に至り晋陽宮の営造を詔す。御史大夫張衡邸で宴。東都に至る。斉王暕を河南尹・開府儀同三司とする。楊文思を納言とする。
大業四年(608年)
- 正月、河北諸郡の男女百余万で永済渠を開く(沁水から黄河、涿郡に通ず)。允武殿で大射。城内居民に米十石を賜う。元寿を内史令、楊玄感を礼部尚書とする。衞玄を右候衞大将軍、長孫熾を民部尚書とする。
- 二月、崔毅を突厥処羅に遣わし汗血馬を得る。
- 三月、宇文愷を工部尚書とする。百済・倭・赤土・迦羅舎国の使者来貢。五原に行幸し塞外を巡る。常駿を赤土に遣わす。
- 夏四月、樓煩郡を置く。汾陽宮を起こす。張定和を左屯衞大将軍とする。啓民可汗のため万寿戍に城屋を造る詔。
- 五月、蜀郡で三足烏、張掖で玄狐を得る。
- 秋七月、丁男二十余万で長城を築く(榆谷以東)。宇文述が曼頭・赤水で吐谷渾を破る。
- 八月、恒岳を親祀。大赦。行経の郡県に一年の租調を免ず。
- 九月、天下の鷹師を東京に徴す(万余人)。彗星が五車から房に至り消える。長城役者の一年租賦を免ず。
- 冬十月、孔子の後裔を紹聖侯とする詔。周・殷の後を立て継絶の義を存す詔。新式を頒布。
大業五年(609年)
- 正月、東京を東都と改称。天下均田の詔。京師に還る。民間の鉄叉・搭鈎等を禁絶。
- 二月、閿郷にて古帝王陵と開皇功臣墓を祭る詔。魏・周官の蔭を禁ず。赤土国使来貢。京師に至る。武徳殿で耆旧四百人を宴す。崇徳殿で往時を偲び感傷を語る。父母が子の任地に随うことを許す制。
- 三月、河右巡狩。武功の史永遵の孝行を賞す。扶風の旧宅に行幸。
- 夏四月、隴西で大猟。高昌・吐谷渾・伊吾の使者来朝。狄道に至り党項羌が方物を貢す。臨津関を出て黄河を渡り西平に至り講武。
- 五月、拔延山で大猟(周囲二千里)。長寧谷に入る。星嶺を渡る。金山上で群臣を宴す。浩亹で御馬が渡る際橋が壊れ黄亘ら督役者九人を斬る。吐谷渾王が覆袁川に籠るを元寿・段文振・楊義臣・張寿の四面から囲み、渾主伏允は数十騎で逃亡、その名王が身代わりに立つ。張定和がこれを討つも戦死、柳武建が撃破し数百級を斬る。仙頭王が包囲され男女十余万口で降る。
- 六月、梁黙・李瓊らが渾主を追撃するも戦死。大斗抜谷を経て風霰晦冥の中で従官と離散し士卒の凍死多数。張掖に至る。四科挙人の詔。高昌王麹伯雅来朝、伊吾吐屯設らが西域数千里の地を献ず。観風行殿で高昌王・吐屯設を宴す(陪列の蛮夷三十余国)。大赦、開皇以来の流配者を放還(晋陽逆党を除く)。隴右諸郡に一年、行経地に二年の給復。
- 秋七月、青海渚中に馬牧を置き龍種を求めるも効なく中止。
- 九月、長安に入る。
- 冬十月、耆老登用の詔。
- 十一月、東都に行幸。
大業六年(610年)
- 正月、弥勒仏を称する盗数十人が建国門より侵入するも斉王暕がこれを斬る。都下で大索し連座千余家。端門街で角抵大戯(一月続く)。倭国使来貢。
- 二月、陳稜・張鎮州が流求を破り俘一万七千口を献ず。功勲による封授制の詔。安徳王雄を観王、河間王子慶を郇王に改封。魏・斉・周・陳の楽人を太常に配す。江都宮に行幸。史祥を左驍衞大将軍とする。
- 夏四月、江淮以南の父老を宴す。
- 六月、室韋・赤土使来貢。雁門の賊帥尉文通を楊伯泉が撃破。江都太守の秩を京尹と同等とする。
- 冬十月、梁毗卒去。長孫熾卒去。
- 十二月、牛弘卒去。王万昌の乱を韓洪が討平。
大業七年(611年)
- 正月、郭衍卒去。
- 二月、釣台に登り揚子津を臨み百僚を大宴。百済朝貢。江都から龍舟で通済渠に入り涿郡に行幸。高麗高元の非礼を問い遼左征討を告げる詔(河北・山西・山東の九十歳以上に太守、八十歳以上に県令の版授)。
- 三月、姚辯卒去。
- 夏四月、涿郡臨朔宮に至る。
- 五月、樊子蓋を民部尚書とする。
- 秋、大水害により山東・河南三十余郡が漂没し民が奴婢に身売りする。
- 冬十月、底柱山が崩れ黄河が数十里逆流。吐万緒を左屯衞大将軍とする。
- 十二月、西面突厥処羅多利可汗来朝、上は殊礼で接する。遼東への出征・輸送に人夫が道に絶えず、苦役の民が盗賊化し始める。都尉・鷹揚に追捕を命じ随時斬決させる。