隋書卷二 高祖下

隋の初代皇帝、高祖文皇帝楊堅(541年-604年)の在位後半(開皇八年~仁寿四年)を収める。開皇九年(589年)に陳を平定して南北を統一し天下太平の基礎を築いた。晩年は皇太子勇を廃して晋王広(後の煬帝)を立てるなど宮廷内の疑心と粛清が続き、仁寿四年(604年)仁寿宮にて崩御した(享年64)。

年表(12件)

開皇八年(588年)

  • 正月、陳使来聘。
  • 二月、鎮星が東井に入る。陳が硤州に侵攻。
  • 三月、李詢卒去。姜須達を会州総管とする。程尚賢らを陳に遣わす。戊寅、陳討伐を正当化する詔。有苗・孫皓の故事に擬え、陳頊・叔宝の悪政(女子の徴発・宮室造営・淫楽・直言の士の誅殺・肝を剖き血を分かつ酷刑・重税・略奪・生き埋め等)を数え上げ、梁国の招誘への非難も含め、益部楼船が出た際に神龍数十が出現した瑞祥を述べ、討伐を布告。
  • 秋八月、河北諸州の饑饉に蘇威を遣わし賑恤。
  • 九月、南征諸将を宴す。嘉州で龍の出現が奏される。
  • 冬十月、太白が西方に出る。淮南行台省を寿春に置き晋王広を尚書令とする。陳使王琬・許善心を拘留。太廟を祀り伐陳を告げる。晋王広・秦王俊・清河公楊素を行軍元帥とし、晋王広は六合、秦王俊は襄陽、清河公楊素は信州、劉仁恩は江陵、王世積は蘄春、韓擒虎は廬江、賀若弼は呉州、燕栄は東海より進発。総管九十、兵五十一万八千、皆晋王の節度を受ける。東は滄海、西は巴蜀に至り、旌旗舟楫が数千里にわたる。陳国を曲赦。牽牛に彗星が現れる。
  • 十一月、車駕が師を餞す。陳叔宝を捕らえた者に上柱国・万戸公を懸賞。定城に行幸し陳への出師を誓う。河東に行幸。
  • 十二月、河東より帰還。

開皇九年(589年)――陳の平定

  • 正月、白虹が日を挟む。賀若弼が陳の京口を、韓擒虎が南豫州を陥す。虞慶則を右衞大将軍とする。賀若弼が蒋山で陳軍を破り将の蕭摩訶を捕らえる。韓擒虎が建鄴に入り将の任蛮奴を捕らえ陳主叔宝を捕獲。陳国平定、合わせて州三十・郡百・県四百を得る。使者を遣わし巡撫。
  • 二月、淮南行台省を廃す。五百家を郷(正一人)、百家を里(長一人)とする制度。韋世康を安州総管とする。
  • 夏四月、驪山に行幸し親しく凱旋の軍をねぎらう。三軍が凱旋し太廟に献俘。晋王広を太尉とする。広陽門で将士を宴す。大赦。陳の孔範・王瑳・王儀・沈観ら佞臣を辺境に流す。楊素を荊州総管、宇文㢸を刑部尚書、楊异を工部尚書とする。壬戌の詔(呉越平定を機に太平の法を布き、君臣・父子・夫婦の道を正し、武を戢め兵器を廃し文を学ばせ、儒学を興す旨)。
  • 続く詔(開直言之路の九年間を振り返り、切諫を求める旨)。
  • 閏月、韋世康を信州総管とする。木魚符を総管・刺史に頒布(雌雄一対)。蘇威を尚書右僕射とする。
  • 六月、楊素を納言とする。盧愷を礼部尚書とする。
  • 朝野が封禅を望むが、秋七月丙午、上は「小国を除いただけで太平と言えない、以後封禅を口にすることを禁ずる」と詔す。
  • 八月、楊雄を司空とする。
  • 冬十一月、定州刺史豆盧通らの封禅上表を上は許さず。虞慶則を右武候大将軍、李安を右領軍大将軍とする。囚徒を降す。
  • 十二月、雅楽の再整備を命ずる詔(鄭衛の淫声・魚龍雑戯を除き律呂を改める)。太常牛弘・許善心・姚察・虞世基らに作楽を議定させる。周法尚を永州総管とする。

開皇十年(590年)

  • 正月、皇孫昭を河南王、楷を華陽王とする。
  • 二月、并州に行幸。
  • 夏四月、并州より帰還。
  • 五月、軍人を州県に属させ墾田籍帳を民と同じくする詔(新設の軍府を廃止)。
  • 六月、五十歳以上の免役収庸制。王世積を荊州総管、元冑を霊州総管とする。
  • 秋七月、楊素を内史令とする。囚徒を親録。高陽卒去。吐谷渾の使者来朝。
  • 八月、韋洸・王景を嶺南巡撫に遣わし百越が服す。
  • 冬十月、木魚符を京師五品以上の官に頒布。周法尚を桂州総管とする。
  • 十一月、国学に行幸し賜物。契丹朝貢。南郊を祀る。この月、婺州の汪文進・会稽の高智慧・蘇州の沈玄懀が挙兵し天子を称し百官を置く。楽安の蔡道人・蒋山の李稜・饒州の呉代華・永嘉の沈孝澈・泉州の王国慶・餘杭の楊宝英・交趾の李春らも大都督を称し州県を陥す。楊素にこれを討平させる詔。

開皇十一年(591年)

  • 正月、平陳で得た古器の妖変を疑い破棄。高麗使来朝。皇太子妃元氏薨去。
  • 二月、吐谷渾使来貢。蘇孝慈を工部尚書とする。県令劉曠の治績により莒州刺史に抜擢。突厥使が七宝椀を献ず。日蝕。
  • 三月、若干洽を吐谷渾に遣わす。周搖を寿州総管、吐万緒を夏州総管とする。
  • 夏四月、突厥雍虞閭可汗の特勤来朝。
  • 五月、高麗使来貢。百官に封事を上らせる詔。元旻を左衞大将軍とする。
  • 秋七月、杜彦を洪州総管とする。
  • 八月、栗園に行幸。滕王瓚薨去。栗園より帰還。鄭訳卒去。
  • 十二月、靺鞨使来貢。

開皇十二年(592年)

  • 正月、皇甫績を信州総管、席代雅を広州総管とする。
  • 二月、蜀王秀を内史令兼右領軍大将軍、漢王諒を雍州牧・右衞大将軍とする。
  • 夏四月、周搖を襄州総管とする。
  • 五月、席代雅卒去。
  • 秋七月、蘇威・盧愷が事に坐し除名。昆明池に行幸。太廟を祀る。日蝕。
  • 八月、天下の死罪を大理での再審に付す制。竜首池に行幸。宿衞者の職守離脱を禁ず。豆盧勣卒去。囚徒を親録。
  • 九月、楊异を呉州総管とする。
  • 冬十月、遂安王集を衞王とする。太廟を祀り、太祖の神主前で流涕する。
  • 十一月、南郊を祀る。百官を宴す。韓擒虎卒去。権武を潭州総管とする。武徳殿で大射。
  • 十二月、突厥使来朝。楊素を尚書右僕射とする。吐谷渾・靺鞨使来貢。

開皇十三年(593年)

  • 正月、韓建業卒去。契丹・奚・霫・室韋の使者来貢。感帝を親祀。韋世康を吏部尚書とする。岐州に行幸。
  • 二月、仁寿宮の造営を詔す。岐州より帰還。考使を宴す。皇孫暕を豫章王とする。賈悉達・韓延ら賄賂により誅される。坐事去官者の配流一年制。緯候図讖の私蔵を禁ず。
  • 夏四月、戦没者の家に一年の徭役免除。
  • 五月、国史撰集・人物臧否の禁絶を詔す。
  • 秋七月、靺鞨使来貢。賀婁子幹卒去。昆明池に行幸。日蝕。
  • 九月、囚徒を降す。楊綸を滕王とする。杜彦を雲州総管とする。
  • 冬十月、梁彦光卒去。

開皇十四年(594年)

  • 夏四月、雅楽整備完了により施行する詔。
  • 五月、京師地震。関内諸州旱魃。
  • 六月、府州県に公廨田を給し民と利を争わせぬよう詔。
  • 秋七月、蘇威を納言とする。
  • 八月、関中大旱により上が戸口を率いて洛陽に就食。
  • 九月、樊子蓋を循州総管、崔仲方を会州総管とする。
  • 冬閏十月、斉・梁・陳の宗祀を蕭琮・高仁英・陳叔宝らに継続させる詔。外官の父母・子を任地に伴うことを禁ず。
  • 十一月、州県佐吏の三年任期制。角亢に彗星。
  • 十二月、東巡狩。

開皇十五年(595年)

  • 正月、斉州で民の疾苦を親問。旱魃により泰山を祀り咎を謝す。大赦。
  • 二月、天下の兵器を収める(関中縁辺は除外)。梁睿卒去。東巡狩より帰還。五嶽海瀆を望祭。仁寿宮に行幸。韋芸卒去。
  • 夏四月、大赦。楊達を工部尚書とする。韋沖を営州総管とする。
  • 五月、吐谷渾朝貢。京官五品以上に銅魚符を佩用させる。
  • 六月、底柱を鑿らせる。豆盧通の綾文布献上を朝堂で焼く。林邑使来貢。祀典に無い名山大川をすべて祀る詔。
  • 秋七月、晋王広が毛亀を献ず。蘇威を江南巡省に遣わす。仁寿宮より帰還。理由で去職の九品以上官に笏の携行を許す。
  • 冬十月、韋世康を荊州総管とする。
  • 十一月、温湯に行幸、帰還。
  • 十二月、辺境の糧を盗む者を斬刑・籍没とする令。文武官の四考交代を詔す。

開皇十六年(596年)

  • 正月、皇孫裕を平原王、筠を安成王、嶷を安平王、恪を襄城王、該を高陽王、韶を建安王、煚を潁川王とする。
  • 夏五月、龐晃を夏州総管、姚辯を霊州総管とする。
  • 六月、工商の進仕を禁ず。并州で蝗害。九品以上の妻・五品以上の妾の改嫁を禁ず。
  • 秋八月、死罪三奏後行刑を詔す。
  • 冬十月、長春宮に行幸。
  • 十一月、長春宮より帰還。

開皇十七年(597年)

  • 二月、史万歳が西寧羌を撃ち平定。仁寿宮に行幸。王世積が桂州の李光仕の乱を平定。河南王昭の納妃を祝い群臣を宴す。
  • 三月、官人の敬憚不足による怠慢を戒め、律外での杖刑を許す詔。囚徒を親録。劉昶が罪により誅される。柳彧・皇甫誕を河南・河北巡省に遣わす。
  • 夏四月、新暦を頒布。周室平定に功のあった申明公穆・鄖襄公孝寛・広平王雄・蒋国公睿・楚国公勣・斉国公熲・越国公素・魯国公慶則・新寧公長叉・宜陽公世積・趙国公羅雲・隴西公詢・広業公景・真昌公振・沛国公訳・項城公子相・鉅鹿公子幹らの功を称え、世子世孫の登用を詔す。
  • 五月、玉女泉で百官を宴す。蜀王秀来朝。高麗使来貢。独孤羅雲を涼州総管とする。
  • 閏月、群鹿が殿門に入り馴れ従う。
  • 秋七月、桂州の李代賢の反乱を虞慶則が討平。秦王俊が事に坐し免職。突厥使来貢。
  • 八月、韋世康卒去。
  • 九月、仁寿宮より帰還。祭祀の心構えについて侍臣に語る。
  • 冬十月、銅獣符を驃騎・車騎府に頒布。道王静薨去。祭祀日の鼓吹・楽懸を廃す詔。京師で大索。
  • 十一月、突厥使来朝。
  • 十二月、虞慶則が罪により誅される。

開皇十八年(598年)

  • 正月、江南の大船(三丈以上)を官に収める詔。
  • 二月、仁寿宮に行幸。漢王諒を行軍元帥とし水陸三十万で高麗を伐つ。
  • 三月、杜彦を朔州総管とする。
  • 夏四月、郭衍を洪州総管とする。
  • 五月、猫鬼・蠱毒・厭魅・野道の家を辺境に流す詔。
  • 六月、高麗王高元の官爵を黜す詔。
  • 秋七月、河南八州の水害に課役を免ず。志行修謹・清平幹済の二科で人材を挙げる詔。
  • 九月、漢王諒の軍が疫病により撤退、死者十のうち八九。舎客の無公験を刺史・県令の責とする。仁寿宮より帰還。
  • 冬十一月、囚徒を親録。南郊を祀る。
  • 十二月、王景が罪により誅される。この月、仁寿宮までに行宮十二所を設置。

開皇十九年(599年)

  • 正月、大赦。武徳殿で大射、百官を宴す。晋王広来朝。仁寿宮に行幸。
  • 夏四月、突厥利可汗が内附。達頭可汗の侵犯を史万歳が撃破。
  • 六月、豫章王暕を内史令とする。
  • 秋八月、高熲が事に坐し免職。張威卒去。李徹卒去。
  • 九月、牛弘を吏部尚書とする。
  • 冬十月、突厥利可汗を啓民可汗とし大利城を築いてその部落を処する。
  • 十二月、突厥都藍可汗が部下に殺される。星が渤海に隕ちる。

開皇二十年(600年)

  • 正月、仁寿宮に在り、突厥・高麗・契丹の使者来貢。
  • 二月、崔弘度を原州総管とする。雲もないのに雷が鳴る。
  • 三月、熙州の李英林の反乱を張衡が討平。
  • 夏四月、突厥の侵犯を晋王広が撃破。天から水を注ぐような音が南から北へ響く。
  • 六月、秦王俊薨去。
  • 秋八月、老人星が現れる。
  • 九月、仁寿宮より帰還。楊异卒去。
  • 冬十月、太白昼見。皇太子勇及び諸子が廃されて庶人となる。史万歳・元旻が殺される。
  • 十一月、天下地震、京師大風雪。晋王広を皇太子とする。
  • 十二月、東宮官属が皇太子に臣と称することを禁ずる詔。仏法・道教および五嶽四鎮・江河淮海の神を崇敬し、その像を毀損・盗取する者を不道論、沙門・道士による破壊は悪逆論とする詔。

仁寿元年(601年)

  • 正月、大赦、改元。楊素を尚書左僕射、蘇威を尚書右僕射とする。河南王昭を晋王に徙す。突厥の恒安侵犯を韓洪が撃つも敗れる。晋王昭を内史令とする。戦亡者の墓域入りを許す詔。
  • 二月、日蝕。独孤楷を原州総管とする。
  • 三月、豫章王暕を揚州総管とする。
  • 夏四月、蘇孝慈を洪州総管とする。
  • 五月、突厥男女九万口が来降。驟雨震雷・大風で宜君湫水が移動。
  • 六月、蘇孝慈卒去。十六使を風俗巡省に遣わす。国学冑子・州県諸生の実効を疑い簡素化を詔す(国子学に学生七十人のみ残し太学・四門・州県学を廃す)。諸州に舎利を頒布。
  • 秋七月、国子を太学と改称。
  • 九月、杜彦を雲州総管とする。
  • 十一月、南郊を祀る。衞玄を遂州総管とする。

仁寿二年(602年)

  • 二月、侯莫陳頴を桂州総管、楊祀を荊州総管とする。
  • 三月、仁寿宮に行幸。張喬を潭州総管とする。
  • 夏四月、岐・雍二州地震。
  • 秋七月、内外官の推挙を詔す。独孤楷を益州総管とする。
  • 八月、皇后独孤氏崩去。
  • 九月、仁寿宮より帰還。河南北諸州の大水に楊達を賑恤に遣わす。周搖卒去。隴西地震。
  • 冬十月、益州管内を曲赦。楊達を納言とする。
  • 閏月、楊素らに陰陽の誤りを刊定させる詔。礼制の整備(楊素・蘇威・牛弘・薛道衡・許善心・虞世基・王劭に五礼の修定を委ねる)詔。献皇后を太陵に葬る。
  • 十二月、蜀王秀が廃され庶人となる。交州の李仏子の反乱を劉方が討平。

仁寿三年(603年)

  • 二月、龐晃卒去。姚辯を左武候大将軍とする。
  • 夏五月、六月十三日の生日を武元皇帝・元明皇后のため断屠とする詔。
  • 六月、喪服礼制について長大な議論の詔(父存喪母の期喪と練祭の理を論じ、十三月而祥・中月而禫とする)。
  • 秋七月、賢才の推挙を詔す。
  • 八月、燕栄が罪により誅される。
  • 九月、常平官を置く。韋沖を民部尚書とする。
  • 十二月、河南諸州の水害に楊達を賑恤に遣わす。

仁寿四年(604年)――高祖崩御

  • 正月、大赦。仁寿宮に行幸。賞罰の支度を皇太子に委ねる詔。
  • 夏四月、上、不予(病臥)。
  • 六月、大赦天下。星が月中に入り数日で退く。長人が雁門に現れる。
  • 秋七月、日が青く光を失い八日後に復す。段文振を雲州総管とする。上は病篤く仁寿宮の大宝殿に臥し百僚に別れを告げ手を握り歔欷。丁未、大宝殿で崩御。時に年六十四。
  • 遺詔にて、晋室以来三百年の戦乱の中で天命を受け撥乱反正した経緯、日々親政に励んだこと、勇・秀を廃した理由(「知臣莫若於君、知子莫若於父」)、皇太子広の仁孝を称え後事を託すこと、葬礼を簡素にし節倹を務め諸州総管・刺史は奔赴不要とすること、律令格式は事情に応じ改めるべきことを述べる。
  • 乙卯、発喪。河間の楊柳四株が理由なく黄落しのち再び花葉を生じる。
  • 八月、梓宮が仁寿宮より至り大興前殿に殯す。
  • 冬十月、太陵に合葬(同墳異穴)。

高祖の人物評

  • 性は厳重で威容があり、外は質朴だが内は明敏で大略があった。即位当初、諸子は幼く六王の謀・三方の乱に見舞われたが、周の旧臣の兵権を掌握する者たちに赤心を推して用い、朞月のうちに三辺を定め十年足らずで四海を統一。賦斂を薄くし刑罰を軽くし、内は制度を修め外は戎夷を撫した。毎朝聴政に日が傾くまで倦むことなく、居処服玩は節倹を旨とし、令行禁止で上下が化した。開皇・仁寿の間、男は綾綺を着ず金玉の飾りもなく、常服は多く布帛、装帯は銅鉄骨角に過ぎなかった。財を惜しむ一方、功のあった者への賞賜は惜しまなかった。関中の飢饉の際、豆屑雑糠を食う民の様子を聞き涙を流して群臣に示し、自ら膳を徹して酒肉を絶つこと一年近くに及んだ。東の泰山拝礼の際、洛陽に就食する関中の民に驚かせぬよう斥候に命じ、老幼を負う者に道を譲り慰労した。艱険の地で荷を負う者を見れば左右に扶助を命じた。戦没の将士には必ず優賞し使者を遣わし遺族を慰問した。自ら勉め励み倦むことなく、人口が殷賑となり帑蔵が充実、近代の良主と称された。
  • 一方で天性沈猜で学術に乏しく小術を好み大体を悟らず、忠臣義士は心を尽くせなかった。草創の元勲・有功の諸将は誅殺・退けられ生き残る者が少なかった。詩書を悦ばず学校を廃し、婦人の言を用いて諸子を廃黜した。晩年は法を峻厳にし喜怒常なく殺戮が過ぎた。西域朝貢使を送った者が牧宰から鸚鵡・麖皮・馬鞭等の贈り物を受けたことに大怒し、また武庫の荒廃を見て武庫令や賄賂を受けた者数十人を開遠門外で処刑した。密かに人を遣わし令史・府史に賂を贈らせ、受けた者は必ず死罪とし容赦しなかった。識者はこれを短所とした。

史論

史臣は言う。高祖は龍徳を潜め奇表を隠し晦明を蔵したため理解する者は少なかった。外戚の尊さから託孤の任を受けたが、当時は周室の旧臣に憤懣を抱かれた。王謙・尉遅迥の乱を一戦・一月余りで平らげたのは人謀のみならず天の助けでもあった。南は金陵を落とし北は突厥を款塞させ、禹貢の地を悉く正朔に帰させた功は晋武帝の呉平定や漢宣帝の業にも劣らない。躬ら節倹を行い徭賦を平らげ倉廩を実らせ法令を行き渡らせ、二十年間天下無事であったことは前代の盛烈に匹敵する。しかし学術がなく寛仁の度に乏しく刻薄の資があり、晩年その傾向が強まった。符瑞を好み大道に暗く、諸王を京室と同等の権を持たせて制度を混乱させ、哲婦の言を聴き邪臣の説に惑わされて廃嫡し、父子・兄弟の道を破って本枝を伐った。墳土も乾かぬうちに子孫が屠戮され天下は隋のものでなくなった。衰亡の兆しは高祖に始まり煬帝に成る、一朝一夕のことではない。隋の祭祀が絶えたのも不幸とばかりは言えない。