隋書卷一 高祖上
隋の初代皇帝、高祖文皇帝楊堅(541年-604年)。弘農郡華陰の出身で、北周の重臣楊忠の子。北周の外戚として台頭し、大象二年(580年)に静帝の摂政となって尉遅迥ら三方の乱を鎮定、開皇元年(581年)に禅譲を受けて隋を建国した。即位後は寛政・倹約を旨とし、律令の整備や新都大興城の造営を進めた。
出自と生い立ち
- 高祖文皇帝、姓は楊氏、諱は堅。弘農郡華陰の人。漢の太尉楊震の八代孫楊鉉は燕に仕え北平太守となった。楊鉉の子楊元壽は後魏で武川鎮司馬となり、子孫はこの地に住んだ。楊元壽―太原太守楊惠嘏―平原太守楊烈―寧遠将軍楊禎―楊忠(高祖の父、皇考)と続く。楊忠は北周太祖に従い関西で挙兵し、普六茹氏の姓を賜り、柱国・大司空・隋国公に至った。没後、太保を贈られ、諡は桓。
- 母の呂氏は西魏大統七年(541年)六月癸丑の夜、馮翊の般若寺で高祖を生んだ。産室に紫気が満ち、河東から来た尼が「この子の出自は尋常でないので俗間に置いてはならない」と言い、別館に引き取って自ら養育した。母が高祖を抱いた際、頭に角が現れ全身に鱗が立つのを見て驚き取り落としたところ、尼は「もう我が子を驚かせた、天下を得るのが遅れるだろう」と言ったという。容貌は龍顔で、額に五本の柱状の骨が頂まで通り、目は外に光を放ち、手には「王」の文があった。上半身が長く下半身が短く、沈深で厳重な人柄。太学に入っても親しい者すら軽々しく近づけなかった。
北周における昇進と危難
- 十四歳で京兆尹薛善に功曹として召され、十五歳で父の勲功により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司を授けられ成紀県公に封ぜられる。十六歳で驃騎大将軍に進み開府を加えられた。北周太祖はこれを見て「この子の風骨は代間の人物ではない」と嘆じた。明帝即位後、右小宮伯を授かり大興郡公に進封。占相の趙昭は表向き「柱国止まり」と答えつつ、内密に「公は天下の君となるが、必ず大いに誅殺した後に定まる」と告げた。
- 武帝即位後、左小宮伯に遷り、隋州刺史として出て大将軍に進む。召還後、母の病に三年間昼夜付き添い純孝と称えられた。宇文護執政期には特に忌まれ再三害されかけたが、大将軍侯伏侯寿らに救われた。後に隋国公を襲爵。武帝は高祖の長女を皇太子妃に迎え礼遇を厚くした。斉王宇文憲・内史王軌はそれぞれ帝に高祖の相貌の異常や反相を訴えたが、帝は取り上げず、高祖は深く自らを晦まし匿した。
- 建徳年間、水軍三万を率い河橋で北斉軍を破る。翌年、帝の斉平定に従い柱国に進む。宇文憲と共に冀州で斉の任城王高湝を破り定州総管となる。定州の城西門は長く閉ざされていたが高祖の着任で開かれ人々を驚かせた。亳州総管に転じる。宣帝即位後、皇后の父として上柱国・大司馬を拝命。大象初め、大後丞・右司武を経て大前疑に転じ、帝巡幸の際は常に留守を委ねられた。宣帝の刑法が苛酷であったため高祖は諫めたが容れられなかった。
- 高祖の位望が高まるにつれ帝は忌み、四人の寵姫を皆皇后とした後宮の争寵の中で「必ずお前の一族を滅ぼす」と言い高祖を呼んで顔色が動けば殺せと命じたが、高祖は顔色を変えず難を逃れた。
- 大象二年(580年)五月、高祖は揚州総管に任じられ赴任直前に急病となり出発できずにいた乙未の日、帝が崩じた。静帝が幼く親政できぬ中、内史上大夫鄭訳・御正大夫劉昉は高祖を皇后の父として推し、矯詔により朝政を総べさせ内外諸軍事を統率させた。藩にある北周諸王の変を恐れ、趙王招の娘を突厥に嫁がせるとの名目で召還。丁未に発喪、庚戌に高祖は仮黄鉞・左大丞相を拝し百官を統べた。正陽宮を丞相府とし鄭訳を長史、劉昉を司馬とした。宣帝の苛政に懲りた高祖は寛政・法令の清簡・節倹を旨とし天下の支持を得た。
大象二年(580年)――三方の乱鎮定と禅譲
- 六月、趙王招・陳王純・越王盛・代王達・滕王逌が長安に至る。相州総管尉遅迥は東夏で挙兵、十余日で衆十余万に達し、宇文冑(滎州)・石愻(建州)・席毗(沛郡)・席叉羅(兗州)が呼応、迥は子を陳に質として援を求めた。高祖は上柱国鄖国公韋孝寛を討伐に遣わす。雍州牧畢王賢と趙・陳ら五王は高祖への人望を妬み謀反を企てたが、高祖は畢王賢を斬り、趙王らの罪は伏せて五王に剣履上殿・入朝不趨を許し安心させた。
- 七月、陳の陳紀・蕭摩訶らが広陵に侵攻するも呉州総管于顗が撃破。広陵の杜喬生の反乱は刺史元義が平定。韋孝寛は相州で尉遅迥を破り首を都に伝え残党を平定。鄖州総管司馬消難の呼応した淮南諸州は襄州総管王誼が討ち、消難は陳へ奔る。荊・郢の蛮族の乱は亳州総管賀若誼が平定。益州総管王謙は匡復を名目に巴蜀の兵を興し剣閣に進出し始州を陥したが、行軍元帥梁睿が討平し首を都へ伝えた。巴蜀の険阻さゆえの反乱を戒め平道を開き剣閣の路を毀し銘を立てた。五王の陰謀が募る中、高祖が趙王招の邸を訪ねた際に伏兵で危うく害されかけたが元冑に救われ(詳細は元冑伝)、趙王招・越王盛は誅された。
- 九月、世子勇が洛州総管・東京小冢宰となる。壬子、周帝は詔して高祖を大丞相に任じ左右丞相の官を廃した。冬十月壬申、高祖の曾祖楊烈を柱国・太保・隋国公(諡康)、祖楊禎を柱国・太傅・隋国公(諡献)、父楊忠を上柱国・太師・大冢宰・雍州牧に追贈。陳王純を誅殺。癸酉、韋孝寛卒去。十一月辛未、代王達・滕王逌を誅殺。十二月甲子、周帝は詔して高祖を隋国王に進封、崇業・安陸・城陽・宜人・平靖・上明・淮南・永川・広昌・安昌・義陽・淮安・新蔡・建安・汝南・臨潁・広寧・初安・蔡陽・漢東の二十郡を隋国とし、劍履上殿・入朝不趨・賛拝不名・九錫の礼を備え、位を諸侯王の上とした。高祖は再三辞退したが結局王爵と十郡のみを受けた。皇祖・考も王爵、夫人も王妃とされた。辛巳、司馬消難が陳軍を率い江州に侵攻したが刺史成休寧が撃退。
開皇元年(581年)
- 春二月壬子、以前の賜姓を旧に復す令。周帝の詔で百官が隋王宮に勧進を重ね、癸丑に文武百官が敦勧、甲寅、高祖は策命を受け大丞相・隋王としての功績を称える長大な冊文が下された(東夏平定、呉越懐柔、宣帝輔弼、尉遅迥の乱鎮定、青斉・宇文冑・檀讓・席毗・司馬消難・王謙・陳頊への対処など多岐にわたる功が列挙され、九錫として大輅・戎輅・玄牡二駟、袞冕の服・赤舄、軒懸の楽・六佾の舞、朱戸、納陛、武賁三百人、鈇鉞、彤弓一・彤矢百・盧弓十・盧矢千、秬鬯一卣・珪瓚が下賜された)。ここに相国の台官が建てられた。丙辰、王の冕に十二旒、天子旌旗、金根車・六馬・五時副車、旄頭雲罕、八佾の楽、鍾虡宮懸を許され、王妃を王后、長子を太子とすることが三譲の末に受けられた。
- 周帝は隋の受禅の詔を発し、高祖は三譲の末に受禅、大宗伯趙煚が冊を奉じた。開皇元年二月甲子、高祖は相府から常服のまま入宮し臨光殿で即皇帝位、南郊に壇を設け柴燎して天に告げ、大赦・改元。京師に慶雲が現れる。周氏の官制を改め漢魏の旧に依った。高熲を尚書左僕射兼納言、虞慶則を内史監兼吏部尚書、李徳林を内史令、韋世康を礼部尚書、元暉を都官尚書、元巌を兵部尚書、長孫毗を工部尚書、楊尚希を度支尚書、楊恵を左衞大将軍とする。乙丑、父を武元皇帝(廟号太祖)、母を元明皇后と追尊。八使を遣わし風俗を巡省。丙寅、廟社を修める。独孤氏を皇后、王太子勇を皇太子に立てる。丁卯、趙煚を尚書右僕射、伊婁彦恭を左武候大将軍とする。己巳、周帝を介国公(食邑五千戸)とし隋室の賓とする(旌旗車服礼楽は旧のまま、上書は表とせず答表は詔と称さない)。周氏諸王はすべて公に降す。辛未、皇弟楊爽を雍州牧とする。乙亥、皇弟楊慧を滕王、楊爽を衞王、皇子楊広を晋王、楊俊を秦王、楊秀を越王、楊諒を漢王に封ずる。李穆を太師、竇熾を太傅、于翼を太尉、田仁恭を太子太師、柳敏を太子太保、孫恕を太子少傅、蘇威を太子少保とする。丁丑、晋王広を并州総管、楊智積を蔡王、楊静を道王とする。戊寅、官牛五千頭を貧民に分与。
- 三月、高平・太原・長安で赤雀・蒼烏・白雀を得る、宣仁門の槐の連理。白狼国が方物を献ず。太白昼見(二度)。元景山を安州総管とする。犬馬器玩・口味の献上を禁ずる詔。山沢の禁を弛める。賀若弼を楚州総管、韓擒を廬州総管とする。盩厔県が連理樹を献じ宮庭に植える。竇毅を定州総管とする。蘇威が納言・吏部尚書を兼ねる。前代の品爵を旧に依らせる詔。梁主蕭巋の使者が来賀。
- 四月、大赦。太白・歳星昼見。太常散楽を放って百姓とし雑楽百戯を禁ずる。陳の使者が来聘した際すでに受禅済みで介国に引き渡す。稽胡に長城を修築させる(二旬で終了)。
- 五月、楊雄を広平王、楊弘を河間王に封ず。介国公(前の周帝)薨去、上は朝堂で哀悼、族人洛が跡を嗣ぐ。
- 六月、初めて天命を受け赤雀が降った瑞祥により五行の相生で赤を火の色とし、郊祀・社廟の服冕、朝会の服・旗幟・犠牲を尽く赤にする詔。戎服は黄。
- 秋七月、上が初めて黄色の服を着し百官が祝賀。靺鞨の酋長が方物を貢す。
- 八月、東京の官を廃す。突厥阿波可汗が方物を貢す。元諧を青海に遣わし吐谷渾を破り降す。
- 九月、戦没者の家に賑給。陳将周羅睺が胡墅を陥し蕭摩訶が江北に侵攻。越王秀を益州総管とし蜀王に改封。長孫覧・元景山を行軍元帥として陳討伐に、高熲に諸軍を節度させる。突厥沙鉢略可汗の使者来貢。この月、五銖銭を施行。
- 冬十月、百済王扶余昌の使者が来賀し昌に上開府・儀同三司・帯方郡公を授ける。新律を施行。岐州に行幸。
- 十一月、竇栄定を右武候大将軍とする。鄭撝を陳に遣わす。流星が牆の崩れるような音を立て地を照らす。
- 十二月、尒朱敞を金州総管とする。韋世康を吏部尚書とする。元袞を廓州総管、衞玄を淮州総管とする。岐州より帰還。高麗王高陽の使者が朝貢し陽に大将軍・遼東郡公を授ける。太子太保柳敏卒去。
開皇二年(582年)
- 正月、上柱国王誼邸・安成長公主邸に行幸。陳宣帝が没し子の叔宝が立つ。河北道行台尚書省(并州、晋王広を尚書令)・河南道行台尚書省(洛州、秦王俊)・西南道行台尚書省(益州、蜀王秀)を設置。陳が講和を請い胡墅を返還。高麗・百済の使者が来貢。賢良の挙用を詔す。
- 二月、高熲らに班師を詔す。晋王広を左武衞大将軍、秦王俊を右武衞大将軍とする。趙国公独孤陀邸に行幸。京師に土が降る。
- 三月、渠を開き杜陽水を三畤原に引く。
- 四月、竇栄定を左武候大将軍とする。韓僧寿が鶏頭山で、李充が河北山で突厥を破る。
- 五月、長孫平を度支尚書とする。旱魃により上が親しく囚徒を省み、その日大雨。高宝寧が平州に侵攻、突厥が長城に入る。皇甫績を都官尚書とする。太尉于翼薨去。伝国璽を受命璽と改称。
- 六月、蘇孝慈を兵部尚書、衞王爽を原州総管とする。陳国に弔問の使者。李充が馬邑で突厥を破る。叱李長叉を蘭州総管、尒朱敞を徐州総管とする。
- 丙申の詔、王公大臣の建言により長安に新都を営むことを決定、高熲・劉龍・賀婁子幹・高龍叉らに新都の創造を命じる。
- 秋八月、竇栄定を秦州総管とする。
- 十月、皇太子勇が咸陽に屯兵し胡に備える。上の病が癒え百官を観徳殿で饗す。賀婁子幹を工部尚書とする。
- 十一月、高麗の使者が方物を献ず。
- 十二月、上が後園で講武。竇毅卒去。新都を大興城と命名。虞慶則を弘化に屯させ胡に備える。突厥が周槃に侵攻し行軍総管達奚長儒がこれを撃つも敗れる。国子生の経明者に束帛を賜う。上が親しく囚徒を録す。
開皇三年(583年)
- 正月、新都入りを前に大赦天下。大刀長矟を禁ず。高麗の使者来朝。
- 二月、日蝕。北道の勲人を饗す。陳使来聘。突厥が辺境を侵す。涇陽で毛亀を得る。李礼成を右武衞大将軍とする。
- 三月、謝慶恩卒去。達奚長儒を蘭州総管とする。新都入り。京師に醴泉が湧く。天下に遺書を購求する詔。百僚を饗す。榆関を築城。
- 夏四月、于義卒去。吐谷渾が臨洮に侵攻し洮州刺史皮子信戦死。高麗使来朝。趙煚が内史令を兼ねる。滕王瓚を雍州牧とする。衞王爽が白道で突厥を破る。陰寿が黄龍で高宝寧を破る。旱魃に上が雨師を祀る。天下に勧学行礼を詔す。梁遠を汶州総管とする。陳の郢州城主張子譏の降を上は和好を理由に受けず。薛舒らを陳に遣わす。上が親ら雩を行う。突厥使来朝。
- 五月、李晃が摩那渡口で突厥を破る。高麗使来朝。梁太子蕭琮が遷都を賀す。靺鞨が方物を貢す。幽州総管陰寿卒去。方沢に祀る。竇栄定が涼州で突厥・吐谷渾を破る。黄龍の死罪以下を赦す。
- 六月、衞王爽の子集を遂安郡王とする。突厥が和を請う。梁遠が爾汗山で吐谷渾を破り名王を斬る。燕栄を青州総管、河間王弘を寧州総管とする。安成長公主邸に行幸。
- 秋七月、周搖を幽州総管とする。済陰太守杜猷を助けた范台玫を大都督・仮湘州刺史とする詔。日蝕。
- 八月、靺鞨貢。李礼成を襄州総管とする。高熲・虞慶則を行軍元帥とし胡を撃つ。太社を祀る。
- 九月、城東で稼穡を観る。大赦。
- 冬十月、河南道行台省を廃し秦王俊を秦州総管とする。
- 十一月、使者を遣わし風俗を巡省し賑恤・人材登用を命ずる詔。陳使来聘、陳主は上の異相を聞き画像を持ち去らせる。天下の諸郡を廃す。
- 閏十二月、曹令則らを陳に遣わす。竇栄定を右武衞大将軍、蘇威を民部尚書とする。
開皇四年(584年)
- 正月、日蝕。太廟・南郊を祀る。梁主蕭巋来朝。北苑で大射(十日間)。斉州が水害。渝州で一角同蹄の獣を得る。新暦を頒布。
- 二月、梁主を霸上で餞別。靺鞨貢。突厥蘇尼部一万余人来降。隴州に行幸、突厥可汗阿史那玷が来降。
- 夏四月、総管・刺史の父母子を任地に伴うことを禁ず。虞慶則を尚書右僕射、楊尚希を兵部尚書、劉仁恩を刑部尚書とする。叱李長叉を信州総管とする。突厥・高麗・吐谷渾の使者を大興殿で宴す。賀婁子幹を榆関総管とする。
- 五月、契丹主莫賀弗が降を請い大将軍を拝す。馮昱を汾州総管、呂仲泉を延州総管とする。
- 六月、囚徒を降す。乙弗寔を翼州総管、豆盧勣を夏州総管とする。渭より河に至る渠を開き運漕を通す。秦王俊来朝。
- 秋七月、陳使来聘。
- 八月、十使を天下に巡省させる。衞王爽来朝。秦王俊の納妃を祝い百官を宴す。竇熾薨去。秦王の官属を宴す。陳使を饗す。陳将夏侯苗の降を通和のため受けず。
- 九月、襄国公主邸に行幸。霸水で漕渠を観て督役者に帛を賜う。囚徒を親録。契丹が内附。関内の飢饉により洛陽に行幸。太白昼見。
- 冬十一月、薛道衡らを陳に遣わす。賀婁子幹を雲州総管とする。
開皇五年(585年)
- 正月、新礼の施行を詔す。
- 三月、高熲を左領軍大将軍、宇文忻を右領軍大将軍とする。
- 夏四月、契丹主多弥が方物を貢す。王誼が謀反し誅される。山東の儒者馬栄伯ら六名を徴す詔。洛陽より帰還。
- 五月、義倉を置く詔。梁主蕭巋が没し太子琮が嗣ぐ。元契を突厥阿波可汗に遣わす。
- 秋七月、陳使来聘。宇文慶を涼州総管とする。突厥沙鉢略が上表し臣と称す。
- 八月、沙鉢略可汗の子庫合真特勤来朝。河南諸州の水害に蘇威を遣わし賑給。流星数百が四散して落下。栗園に行幸。
- 九月、栗園より帰還。鮑陂を杜陂、霸水を滋水と改称。陳将湛文徹が和州に侵攻するも儀同三司費宝首がこれを捕らえる。李若らを陳に遣わす。
- 冬十月、楊素を信州総管、吐万緒を徐州総管とする。
- 十一月、源雄を朔州総管とする。晋王広来朝。
- 十二月、囚徒を降す。達奚長儒を夏州総管とする。
開皇六年(586年)
- 正月、党項羌が内附。突厥に暦を頒布。韋洸を安州総管とする。蘇威を山東に巡省させる。
- 二月、山南荊・淅七州の水害に長孫毗を遣わし賑恤。刺史上佐の毎年入朝・考課を制定。丁男十一万で長城を修築(二旬)。崔弘度を襄州総管とする。大赦。
- 三月、洛陽の男子高徳が上を太上皇として太子に伝位するよう上書したが、上は「近代の帝王のように子に譲位し自ら逸楽を求めることはしない」と拒む。突厥沙鉢略の使者来貢。
- 夏四月、陳使来聘。
- 秋七月、河南諸州水害。京師に馬の鬣尾のような毛雨が降る。
- 八月、関内七州の旱魃に賦税を免ず。陳への使者。李穆薨去。
- 閏月、段文振を蘭州総管とする。皇太子が洛陽を鎮する。晋王広・秦王俊来朝。梁士彦・宇文忻・劉昉が謀反により誅され、宇文善は事に坐し除名。
- 九月、上が素服で射殿に御し百官に射を詔し梁士彦の三家の資物を賜う。元景山卒去。李詢を隰州総管とする。大象以来の死事の家を賑恤する詔。
- 冬十月、晋王広を雍州牧、楊尚希を礼部尚書とする。山南道行台尚書省を襄州に置き秦王俊を尚書令とする。駱平難を疊州刺史、周法尚を黄州総管とする。甘露が華林園に降る。
開皇七年(587年)
- 正月、太廟を祀る。諸州の歳貢三人を制定。
- 二月、朝日を東郊に祀る。陳使来聘。醴泉宮に行幸。丁男十万余で長城を修築(二旬)。
- 夏四月、晋王第に行幸。揚州に山陽瀆を開き運漕を通す。突厥沙鉢略可汗が没し子雍虞閭(都藍可汗)が嗣ぐ。青龍符を東方の総管・刺史に、西方は騶虞、南方は朱雀、北方は玄武を頒布。楊同らを陳に遣わす。蘇威を吏部尚書とする。
- 五月、日蝕。武安・滏陽間に石が十余里にわたり降る。
- 秋七月、衞王爽薨去。
- 八月、源雄を朔州総管とする。梁主蕭琮来朝。
- 九月、梁の安平王蕭巌が国を掠め陳へ奔る。梁国を廃し江陵を曲赦。蕭琮を柱国・莒国公とする。
- 冬十月、先帝の旧居であった同州に行幸し囚徒を降す。蒲州に行幸。父老を宴し「この地の人物は衣服も鮮麗、容止も閑雅で仕官の郷ゆえだ」と言う。
- 十一月、馮翊に行幸し故社を親祀。父老が対詔で失旨し県官を免じて去る。馮翊より帰還。