續明紀事本末各地の義兵(諸方義旅)
南京陥落後、直隷・山東・山西・陝西甘粛など各地で私財を投じて挙兵した義民・郷紳らの蜂起をまとめた篇。清の偽官を討つ、崇禎帝の仇討ちを図る、姜瓖の大同反乱に呼応するなどそれぞれの経緯を辿るが、いずれも清軍の鎮圧を受けて敗死・処刑に終わった例が大半である。地域別(直隷・山東・山西・陝西甘粛)に列挙する構成で、年次を追った記述ではないため年表は作成していない。(訳文の `##` 見出しがすべて地域区分のラベルで、年を含む見出しが1つも無いため、年表の行は作成していない)
直隷の義旅
- 孫大壯(順天): 城北で丁壮千人を得て崇禎帝の仇討ちを図ったが捕らえられ、腰斬に処された。
- 孫繁祉(昌平): 家財を投じて崇禎帝・周后を改葬し挙兵。推官王延受・挙人楊茂春と共に偽官を誅殺したが、まもなく消息を絶った。
- 郭珩・王拱辰(肥郷): 十余人と挙兵するも計画が漏れ、賊将張汝行に殺された。同郷の一諸生も別に挙兵し殺された。
- 殷淵(雞澤): 賊の科挙応試命令を拒み、兄岳・諸生黄恭祐と挙兵、広平の広羊山で殺された。
- 王延善・孫奇逢・惲日初(雄県): 王延善は子の餘恪・餘祐と容県・新城・雄県を攻略したが、豪格の軍に敗死。惲日初は福建へ逃れ、孫奇逢は蘇門山に隠棲して生涯を終えた。
- 滄州・天津の義民: それぞれ挙兵したが、まもなく敗死した。
- 涿州の張彪ら: 京師陥落を機に挙兵するも発覚し戦死。定州でも民が暴虐な偽県令を殺した。
- 直隷行都司の各地: 偽官を殺し明に復した者が多いが、事跡はほとんど伝わらない。
山東の義旅
- 劉孔和(長山): 相劉鴻訓の子。北都陥落を聞き私財で兵を集め長白山に屯し偽県令を殺す。劉澤清と合流したが、その無節操を非難して怒りを買い、澤清配下の力士に殺された。副総兵任命の命が下った時にはすでに死後三日であった。
- 馬元騄・謝陛(徳州): 偽防禦使関傑の暴政に憤り挙兵、関傑と偽州牧を殺し宗室朱師欽を済王に推戴。兗州・青州・登州・萊州が呼応したが南京は動かず、後に清軍に敗れ両者とも死んだ(謝陞と誤伝され厚遇された御史盧世㴶も後に清に降った)。
- 傅鍾秀・単崇(高密): 北都陥落を聞き号泣して挙兵するも捕らえられ屈せず死す。子の稟初も父を庇って死んだ。
- 衡王ら(青州・兗州・登州・萊州): 衡王・玉田王世子らが偽官を討ち南都への内属を求めたが応じられず、清軍に敗れて行方不明・敗死。義士たちも各地で挙兵したが南京が顧みず皆敗れた。巡撫王燮・登萊総兵黄蜚も名ばかりで赴任せず、事跡の多くが失われた。
- 祁八(鳳阿営、山東治): 将軍を自称し諸生楊鳳鳴を謀主、張三を先鋒として崇禎太子救出を掲げたが、清軍に敗れ皆殺された。
- 高桂・許来春(泰安州): 賊将の暴政に憤って挙兵し偽防禦使らを殺したが、賊将郭升に攻められ二人とも死んだ。
- 凌駉(臨清州): 兵部職方司郎中。わずか三百人で偽防禦使を殺し山東に檄を飛ばして勢力を広げ済寧を攻略。南京に上疏し北方との和議による防衛策を献じたが聞き入れられず、後に河南巡撫に転じた(「殉節」に詳しい)。
- 李允和(済寧州): 偽官を殺し降臣王世英を捕らえて南京に献じたが、まもなく敗死。
- 楊科(済寧、回民): 偽鎮道を殺し総兵を自称するも朱継宗に殺された。
- 李化鯨・李名驤・張学允(曹県): 曹県・定陶・東明・城武を攻略したが阿済格に敗れ皆死んだ。
山西の義旅
- 榆次・太谷・定襄・忻州の義士: 偽官を追い自守したが、賊将劉芳宇に太谷・榆次を屠され、定襄の民は太原に連行され皆殺しにされた。忻州・祁州の被害はさらに甚だしいが記録が乏しい。
- 劉遷(雁門): 代州・五台・繁峙・静楽・交城を攻略。降将姜瓖の大同反乱に呼応し万練と共に太原を攻めたが敗れ、黄香寨で死んだ。
- 万練(偏関): 寧武・保徳・岢嵐を攻略し太原を攻めたが祝世昌に敗れ自焚死。部将劉清も殉じた。
陝西・甘粛の義旅
- 李虞夔(平陸): 白璋・張万全と平陽・蒲州・解州を破り姜瓖に呼応したが、万練・劉遷の敗北後に孟喬芳に大敗(死者六千)。子の宏は投崖死、虞夔自身も陝西で捕らえられ死んだ。
- 朱鼎済(山陰王、毛壩関): 単一涵を将として挙兵したが降将張天福に敗れ、王・監軍・参将ら八十余人が死亡、単一涵も投崖死。
- 孫守法(興安): 副総兵。終南山に隠れ挙兵を誓い、王光恩と興安・平利・白河・上津を攻略。漢中王を奉じ賀珍らに檄を飛ばし西安を攻めるも孟喬芳に阻まれ転戦の末、興安攻略後に伏兵で戦死。弟の守全も後を継いで戦うが敗死した。
- 姚翀霄(郃陽)・康姫命(朝邑近辺)・王知禮・李世仁(朝邑): いずれも孫守法に呼応して挙兵するも孟喬芳に鎮圧され死んだ。
- 賀珍(漢中、総兵): 闖・献の残党や孟喬芳と転戦、蒲州・同州を落とし孫守法と西安を攻めるが敗退。鄖陽方面で転戦を続けたが病没。
- 劉文炳・郭金鎮ら(固原): 武大定に呼応して挙兵するも皆敗死。武大定は後に孫可望に降った。
- 王永強(延安): 同官・綏徳・臨漳を攻略し降臣らを殺したが、清軍に敗れ蒲城・延安・綏徳を失陥、最後は敗死。
- 劉登楼・任一貴(榆林): 榆林諸堡を攻略したが呉三桂配下に敗れ、劉登楼は降将に殺され任一貴も定辺陥落後に殺された。
- 温元春ら(安定): 挙兵し皆殉節。
- 謝汝貴(定辺): 王永強に呼応するも部将の裏切りで殺された。
- 周四ら(花馬池・寧夏・靖辺): 孫守法・王永強らと結んで挙兵したが記録が乏しい。
- 丁国棟・米喇印(蘭州、回民): 延長王朱識𨩴を奉じ岷州・洮州・河州・鞏昌を攻略。孟喬芳の反撃で一進一退の激戦を繰り広げ甘州を陥落させ降臣を処刑したが、最終的に食糧が尽きて敗北、丁国棟・米喇印とも殺され、延長王も捕らえられ死んだ。
河南の義旅
- 劉洪起(南陽、総兵): 流賊に抗して弟たちと自守し、左良玉に救援を求め奔走。李際遇らが自成に降っても独り従わず、河南巡按陳潜夫に推薦されたが総兵の任命は遅く、多鐸の南下後にようやく正式に総兵督河南となったが平頭寨の戦いで戦死。中州の義旅で最後まで節を全うしたのは洪起のみとされる。
- 楊汝経(甘粛巡撫、林県): 偽官を討とうとして殺害された。盛時隆ら複数の将が偽官を捕らえたが、南京は形だけの処遇に終わった。
- 長葛の義士: 偽官を討ち明に復したが、河南は結局清に制圧され、抗節した劉洪起・楊汝経以外はほとんど清に降った、と評されている。
南都・史可法の起兵
- 史可法(南都、兵部尚書): 高宏図・張慎言・呂大器ら諸臣と共に天地に誓い勤王の檄を発した。浦口に軍を進め北都陥落を聞いて痛哭し即時決戦を主張したが、群臣に先に新帝擁立を求められ引き返した。
南直隷(江南・皖南)の義旅
- 銭国華・謝琢(溧陽): 富者への献金要求を巡り謝琢は家財を投じて対抗するも敗北。捕らえられて自死。銭国華は瑞昌王を奉じ戦死。
- 楽安王誼石・瑞昌王誼泐(句容): 溧陽・金壇の郷勇と結び南京を襲おうとしたが密告され失敗。誼石は鎮江まで追われ処刑、弟誼臣・瑞昌王配下も洪承疇に殺された。
- 何成吾・何鳴吾兄弟(句容): 隆武帝の勅を受け金声と呼応して南京奪取を図るが失敗、集めた八千人も散った。
- 淮安の義士: 巡撫路振飛の下で活動したが、振飛の離任後に劉沢清が兵を吸収し勢力は消滅した。
- 酆某・司石磐(塩城): 捕らえられて屈せず、獄中で歌い罵り続け処刑された。
- 王翹林・繆鼎吉・鼎言兄弟(淮上): 新昌王を奉じ塩城・興化を攻略。鼎言は乱戦で戦死、鼎吉も奮戦の末捕らえられ死んだ。王と翹林も処刑された。
- 益王宗人某(廟灣): 隆武帝の名を借り史可法の名で淮安を攻めたが敗れ、行方不明のまま消息を絶った。
- 張明聖ら十四人(興化): 挙兵し敗れて死んだ。
- 趙雲(如皋): 戦って死んだ。
- 厲昭伯(無為州): 史可法の幕客で容貌が似ていたため脱出でき、無為州・巣県を攻略したが捕らえられ処刑された。
- 杜陽王某(和州・廬州): 洪承疇配下に殺された。
- 石城王統錡・周損ら(飛旗寨、六安): 各地の義士が集結して恢復を図ったが、洪承疇の攻撃で敗死。
- 樊山王常𣲂(英山): 王六姐と挙兵したが承疇配下の馬進忠に捕らえられ皆殺された。
- 王𤐣(六安州): 洧川の元知県。廬州を破るも守れず、五年にわたり転戦し兵部尚書にまで昇るが最後は捕らえられ屈せず死んだ。義師の中で最も長く戦った人物とされる。
- 馮宏図・侯応龍ら(霍山): 史可法生存の噂で兵を集め英山・霍山・六安を攻略。呉兆勝に敗れ宏図戦死、応龍・容図・国士も後に洪承疇に捕らえられ死んだ。
- 呉光宁・葉士章・戴移孝(無為・巣県・和州、内応計画): 計画が漏れ光宁・士章は死んだ。
- 皖北一帯: 英山・霍山・舒城・潜山・太湖・鳳陽から河南光固・湖北羅田にかけ多数の砦が存在したが記録が乏しい。張煌言の長江遡上時にも呼応する動きがあり、南都滅亡から十年後も抵抗が続いた。
- 徐淮(当塗): 句容諸県を攻略したが後に敗死。
- 呉応箕(池州): 義憤の士。建徳・東流を回復し金声と呼応。金声敗北後も抵抗を続け、捕らえられて処刑地でも節を曲げず斬られた(首は三日腐らなかったという)。
- 龐昌允(青陽): 九華山に隠れて挙兵計画が漏れ自死した。
- 東流・石埭・建徳一帯の義兵は多くが敗死。
- 呉源長・方明(広徳州): 源長は湖州で敗死。方明は朱盛濃を奉じ孝豊・臨安・寧国を攻略するも張天禄に敗走、匿われていた王は密告により処刑され、匿った潘文煥も一族で死んだ。方明も長興で捕らえられ殺された。
- 呉漢超・尹民興・趙浣初(涇県): 洪承疇軍と激戦、江陰に劣らぬ抵抗と評された。城陥落後、浣初は殺され民興は脱出。漢超は転戦を続けたが寧国襲撃に失敗し、最後は妻子ともども壮絶な死を遂げた(腹を裂かれてもなお胆の大きさが語られた)。
- 高安王常淇・邱徳祖ら(寧国): 金声に呼応し各地で戦うが多くが戦死・処刑された(麻三衡の絶命詩、七家軍の全滅など)。
- 金声・江天乙・温璜(徽州): 太祖像を掲げ挙兵、隆武帝から右都御史等に任じられ長期抗戦。降臣黄澍に欺かれ捕らえられ、洪承疇の勧降を拒み殺された。江天乙も舌を切られてなお罵り続けて死んだ。温璜は妻子を手にかけた上で自らも死んだ。
- 黄賡(歙県武解元): 鉄の鞭で奮戦した勇士、後に僧となった。
- 崇陽王ら(歙県): 攻城に失敗し捕らえられ死んだ。
- 林佳鼎(婺源): 金声と不和で黄道周に属し、後に広東で死んだ。
- 趙立言(休寧): 江山攻略で友軍の来援が間に合わず戦死、子も後を追った。
- 顧杲・張文龍・王謀ら(常州): 顧杲(顧憲成の甥、「留都防乱掲」署名者)は裏切り者を誤って処断され殺された。王謀は占いに凶と出ても挙兵し捕らえられて死んだ。他多数戦死。
- 盧象観(宜興): 中書舎人。茅山で挙兵し宜興を攻めるが苦戦、楽安王と南京を攻める計画も内通僧の裏切りで失敗。太湖に転戦の末、自ら入水して壮絶な最期を遂げた(兄象昇も真定で戦死、一族多数が殉国)。
- 陳明遇・閻応元(江陰): 剃髪令に抗して挙兵し、太祖の位牌を掲げて誓う。閻応元が指揮を執り厳格な軍規で守城、清軍の攻撃を数か月にわたり撃退。籠城の末、清軍の巨砲で城壁が崩れ陥落。陳明遇は力戦して死に、閻応元も脱出後捕らえられ屈せず処刑された。城内の多数の士民が自刃・自焚で殉じた。
- 黄毓祺(行塘): 隆武帝から兵部尚書に任じられるも密告により処刑。子二人は奴隷身分に落とされたが後に贖われた。
- 王聖風・徐珩(呉県): 南京側の禁令で挙兵を止められた。
- 朱集璜・陳宏勲ら(昆山): 降官を斬り故総兵王佐才を推戴して守城。清軍に敗れ多くが戦死・自刃。顧炎武は母の遺言により生涯仕官しなかった。
- 王佐才(福山): 昆山に入城し戦死、家族も殉じた。
- 徐宏基(呉江、中山王): 南京陥落後に挙兵するも内紛で殺害された。子の文爵も奮戦の末死亡。従子仁寿は魯王に従い崇明の戦いで戦死。
- 侯峒曾・黄淳耀・許士龍(嘉定): 剃髪令に抗して挙兵、清軍の猛攻を受け籠城戦を展開するが陥落。侯峒曾は子と共に入水自殺、黄淳耀は弟と縊死。多数の士人・女性が殉節した(張錫眉、龔用圓兄弟なども)。
- 王湛(太倉): 挙兵するも清軍騎兵に大敗し戦死。
- 項志寧ら(常熟): 力戦の末、力尽きて死んだ。
- 銭棅(震澤): 大学士銭士升の子。屠象美の挙兵に協力し、後に自ら兵を集めて李成棟と戦い戦死。
- その他同時期の殉節者多数(項嘉謨、張翃振、銭応鐙、銭澄之妻方氏など)。
- 陳亨・徐人龍・雷縯祚(松江): 勤王の檄を発したが南京の禁令で罷免された。
- 沈猶龍(華亭、両広総督): 李待問・章簡と守城、内応者を処刑し防戦するも清軍の偽装工作で敗れ戦死。守将らも殉節。
- 眭永明・徐念祖ら(華亭殉節者): 自縊・自焚などで殉じた。
- 陳子龍・夏允彝(松江): 太祖像を掲げ挙兵、呉志葵と結んで蘇州奪還を図るが敗退。允彝は自沈死、子龍は捕らえられ入水させられた(祖母・母・子も連座して死亡)。
- 楊廷枢・戴之雋ら: 陳子龍と共謀した嫌疑で捕らえられ、屈せず処刑された。
- 夏完淳(允彝の子、十二~十八歳): 「大哀賦」を模した文才で知られ、絶命詩を残し従容として死んだ。
- 侯承祖・李君禧・熊飛遠(金山): 侯承祖は李成棟に激戦の末捕らえられ屈せず死亡(子世禄も奮戦)。熊飛遠は内応に失敗し戦死。李君禧も後に浙江で捕らえられ殺された。
- 呉之蕃(江東): 父を流賊に殺された恨みから挙兵、降将喩嘉猷に敗れ捕らえられて屈辱の中で罵り死んだ。
- 陸世鑰・魯之璵ら(太湖): 蘇州攻略に失敗し多数戦死。
- 朱旦・徐雲龍(太湖): 胥門攻撃で戦死。
- 呉易・孫兆奎(長白蕩): 太僕寺卿呉易は隆武帝から尚書に任じられ長期抵抗を続けたが、清軍の猛攻を受け大敗し落水、脱出後も抵抗を続けるが最終的に周瑞と共に捕らえられ処刑。孫兆奎も敗れて捕らえられ、洪承疇に皮肉を言って処刑された。
- 朱某(南潯、朱国楨の孫): 呉易死後も挙兵を続けたが捕らえられ屈せず死んだ。
- 呉景亶・葛麟(西山): 通城王盛瀝や呉志葵と連携し長興・青浦を攻略。葛麟は盧象観救援中に自沈死。
- 荊本徹・張士儀・沈廷揚(崇明): 義陽王を奉じ最も早く挙兵。李成棟の攻撃で崇明陥落後も浙江で抵抗を続けたが、荊本徹は黄斌卿に射殺され、沈廷揚は洪承疇の勧降を拒み処刑された。
浙江の義旅
- 屠象美・鄭宗彝(嘉興): 象美は乱民に殺され、宗彝は海に身を投げて死んだ。妻妾も殉じ、徐石麒(吏部尚書)も朝服のまま縊死した。
- 馮京第・厳啓隆・戴重(湖州): 京第は日本への援兵要請に失敗、王翊軍で戦い最後は捕らえられ処刑。厳啓隆・戴重も敗戦後、戴重は絶食死、王元震は抗節死。
- 茅瀚(帰安): 黄宗羲と共に寧波山中に屯するが焼き討ちに遭い死んだ。
- 趙毅(平湖): 「趙百足」と呼ばれた勇将、砲弾で首を失っても戦い続け、最後は落馬して死んだ。
- 姚志卓・方元章ら(長興): 隆武帝から仁武伯に封じられ活動するも、最終的に崇明沙の戦いで戦死。
- 金有鑑ら(長興): 通城王を奉じ湖州・長興を攻めるが敗死。
- 劉宗周(紹興、都察院左都御史): 北都陥落後歩いて杭州へ赴き巡撫に挙兵を促すが動かず、南都陥落後は祁彪佳・熊汝霖と潞王擁立を図るが潞王が降伏を選択。紹興陥落後、江に身を投げるも救われ、絶食を貫いて餓死した。
- 于穎・祁鳴孫ら(山陰): 于穎は銭塘江を扼して紹興の義軍を支えた最大の功労者とされるが、方国安の逃亡後は乗る舟もなく道士となって没した。祁鳴孫は敗死。
- 孫万良・沈羽箙(山陰): 徳清を守り抗節死。
- 劉穆(山陰): 監国の下で威北伯に封じられ、子肇勣・肇勷ともに奮戦。肇勷は騎馬で敵陣を突き刺し数百人を斬るが戦死。
- 祁彪佳(応天巡撫): 紹興陥落後、清側の招きを拒み、庭園の池に身を投げて端座のまま死んだ。
- 李桐(山陰): 子文昹・文昱と共に舟山の戦いで殉じた。
- 劉翼明(山陰、本名劉光世): 褚九如の軍を統率し軍規厳正で民に慕われたが、内応者の裏切りで軍が崩壊、単身脱出した。
- 陳国宝(山陰の裨将): 劉翼明に仕え、王翊死後も少数で挙兵し捕らえられ死んだ。
- 王善長(会稽山): 鄭遵謙の部将、王翊・陳天樞と山中を転戦。捕らえられた際に守卒を欺いて脱出し、後に張名振軍で崇明の戦いに勝利するも間もなく病没。
- 鄭遵謙・章正宸・沈光文(会稽): 浙東義旅の魁である鄭遵謙は招撫使を殺して挙兵、興義侯に封じられるが鄭綵に謀殺された。章正宸は敗戦後出家。沈光文は台湾に渡り姚啓聖にも厚遇された。
- 張煌言(会稽): 銭粛楽の挙兵に応じ、監国魯王を奉じて各地を転戦。父を人質にとられても屈せず、崇明・長江遡上作戦を主導し永暦帝から兵部尚書に任じられる。鄭成功没後は孤軍で戦いを続けたが最終的に捕らえられ、絶命詩を残して従容と刑死した(享年四十五。「明史」に伝が立てられなかったことを識者は惜しんだ)。
- 羅子木(張煌言の従者): 鄭成功に決起を促すも失敗、以後張煌言に従い最期まで共に死んだ。
- 章欽臣(会稽): 孫嘉績の部将、後に単独で挙兵するも捕らえられ処刑。妻金氏も辱めを拒み屈せず殺された。
- 陳天樞(会稽): 少数精鋭を率い王翊と並び称された。田雄軍を撃退するも最後は敵中で戦死。
- 王化龍(会稽): 敗死。
- 章憲夫妻(会稽): 章憲は捕らえられ妻余氏と共に屈せず殺された。
- 寧靖王朱述桂: 長陽王・寧靖王に封じられ各地を転戦、鄭氏政権下でも節を保ち、台湾陥落に際し一族の妃妾と共に整然と自死した(明の最後の殉節者とされる)。
- 熊汝霖・孫嘉績ら(余姚): 汝霖は偽県令を斬り挙兵、監国から東閣大学士に。海上の軍で活躍するも鄭綵の陰謀で子と共に海に投げ込まれ殺された。孫嘉績も舟山で発病し死去。
- 邵一梓(余姚): 四明山で戦うが捕らえられ屈せず処刑された(兄弟も皆戦死)。
- 石仲芳(蕭山): 「石家軍」と呼ばれる一隊を率いたが敗死。
- 李長祥(上虞): 略奪をしない軍規正しい部隊を維持し、日本への援兵要請にも関与。密告により大敗するが逃れ、後に捕らえられるも脱走して没した。
- 黄宗羲(黄竹浦): 「世忠営」を率い、崇明救援・海防策を提言するが容れられず。舟山没落後は学問に専念し、後年李中孚・孫奇逢と並び「三大儒」と称される。
- 黄宗炎(宗羲の弟): 銭塘の戦いで家財を投じ挙兵、後に馮京第の残党と再挙を図るが捕らえられ、隠棲して没した。
- 兪元良・査継佐ら(海寧): 元良は県事を代行し防戦するが力尽きて死亡(兄元礼も殉死)。他は皆敗死。
- 孫奭(崇徳): 挙兵するも救援得られず敗死。
- 董志寧ら「六狂生」(寧波): 浙西の危機を訴え挙兵を提唱、銭粛楽と結ぶ。謝三賓の裏切りを暴くなど活動したが、舟山陥落時に自刎。仲間の華夏・王家勤・陸宇𤐣・毛聚奎・張夢錫・杜懋俊らもそれぞれ捕らえられ、あるいは戦死し、多くは屈せず殉節(毛聚奎のみ天寿を全うした)。
- 施邦炌・杜懋俊・杜兆苮(管江、寧波近郊): 私財を投じ兵を集め、清軍の猛攻を三日耐えるも全滅、邦炌は自刎、兆苮も首を斬られた(「管江三烈」と称される)。
- 魏耕(寧波): 鄭成功に北伐を促し、張煌言の内陸脱出も導いたが、最終的に捕らえられ屈せず死んだ。
- 銭粛楽・莊元宸ら(鄞県): 寧波陥落を聞き絶食で抗議し挙兵。監国を迎えて重用されるが鄭綵に妨げられ憤死。一族(弟の粛図・粛範・粛遴・粛典ら)も相次いで殉節。駱国挺は家財を投じ義旅を助けたが、後に貧困のうちに死んだ。
- 楊瑤仲兄弟(鄞県): 江上での戦いに敗れ、兄弟・姨姒六人が共に抗節死。
- 沈荃宸・王玉藻・王翊・王江ら(慈渓): 王翊は少数精鋭の「大蘭軍」を率い、王江と共に東西軍として寧波周辺を掌握。厳格な軍規と善政で慕われたが、田雄・金礪らの猛攻の末に捕らえられ、耳や首を斬られても屈せず壮絶な死を遂げた(享年三十六)。従者二人も屈せず死んだ。娘は貞節を守り自刎。王江も後に流れ矢に当たり死去。
- 徐啓睿(慈渓の諸生): 僧となっていたが銭粛楽挙兵を聞き還俗し従軍、清軍陣地に単身突入するなど活躍するも捕らえられ屈せず殺された。
- 呉奎明・袁応彪(奉化): 田雄軍に敗れ共に戦死。汪涵は黄宗羲軍で焼き討ちに遭い奮戦の末死んだ。
- 兪国望・金湯(新昌): 兪国望は鉄砲に長け田雄軍を破るなど活躍したが最後は流れ矢で戦死。金湯も同時に挙兵し敗死。
- 張国維(吏部尚書、義烏): 北都陥落後挙兵、監国魯王を奉じ江上で防戦。方国安の敗走後、渡海できず義烏に戻り再挙を図るが陥落し、絶命詞を残し入水死(子世鳳も呉易の事件で死亡)。
- 朱大典(兵部尚書、金華)・傅巌・王之拭: 大典は金華に籠城し方国安の掠奪も乗り越え防戦。清軍の猛攻に耐えるが最後は妾・子と共に火薬庫で自爆し壮絶な最期を遂げた。傅巌・王之拭も殉節。
- 陳世亨・鄧藩理(温州): 瑞安を回復するが援軍間に合わず捕らえられ死んだ。
- 陳潜夫(御史、臨海): 方国安の逃亡後、監国に合流できず、妻孟氏と共に入水自殺(享年三十七)。
- 朱輝: 討賊の檄文を起草、その激烈さで知られた。
- 傅雲龍・陳函輝・張廷綬(台州): 函輝は魯王監国擁立に尽力、紹興陥落後は入水自殺。廷綬も屈せず処刑された(このとき知州は宋騰熊とも伝わる)。
- 浙江の義師は大小六百余起にのぼり、事跡の多くは失われた。
- 屠献宸・董徳欽・楊文琦ら(翻城の獄): 内応計画が発覚し多数処刑。楊文瓚・文琦兄弟や妻たちも殉節し「楊氏四忠」と呼ばれた。欽浩(南海の諸生)も連座して死んだ。
- 朱金芝: 黄道周に易学を学び各地の義軍を渡り歩いたが、最終的な消息は諸説あり定かでない。
江西の義旅
- 洪日昇・李維樾・李光泰(江西各地): いずれも勤王の兵を起こすが南京の詔で罷免された。
- 蔡観光ら(南昌): 孔徹元の死を憤り挙兵するも敗死。
- 郭賢操・桂登魁・胡戒登(徳安): 金声桓の明復帰に呼応し挙兵するが敗れ一族多数が死んだ。
- 李含初(琅山): 九江陥落を機に挙兵し徳化・瑞安を破るが内応者の裏切りで敗死。
- 胡定海・董某・掲新(徳興): 清軍を阻むが最終的に敗死。
- 呉江(星子): 金声桓に呼応するが内通者に裏切られ捕らえられ死んだ。
- 金志達・僧了悟(九江): 万余の兵を集め鄱陽・彭沢間で戦うが敗死。
- 曾益・曾応亨ら(臨川): 益王に呼応して挙兵。応亨は捕らえられ、投降を拒み処刑(子筠も同様)。応亨の弟応和は父を守り抜いた後に入水自殺、一族に「曾氏五節」と称された。
- 郭応銓・応衡・応煌兄弟: 大小十余戦を戦うが敗れ、それぞれ壮絶な最期(切歯断臂、抽腸)を遂げた。
- 掲重熙: 転戦を続け後に死去(詳細は「江西之乱」参照)。
- 陳宗勉(南豊): 敗死。
- 益王由本・夏万亨ら(建昌): 益王を主に三十六将・七、八千の兵で挙兵するが金声桓配下に大敗。夏万亨は捕らえられ絶命詞を残し死亡、妻子も入井死。丹竹(僧)は最後まで勇戦し清軍撃退に貢献したが戦死。
- 鄧思銘(儀賓): 益王に決起を勧め、後に矢を射られながらも罵り続けて死んだ。
- 永寧王慈炎・瑞昌王統鑑ら(瀘渓): 永寧王は撫州・進賢を回復し隆武帝から高く評価されたが、王得仁に追われ死亡。統鑑も殉節。
- 魏一桂(瀘渓): 建昌で五か月籠城の末に陥落し死亡。
- 羅川王・艾命新・艾南英(貴東): 羅川王は南昌攻略の際に流れ矢で死亡。艾南英は文才で知られ、汀州陥落時に殉節。
- 傅潜龍(東鄉): 王得仁との戦いで敗死。
- 余応柱(都昌): 「先帝への一死」を掲げ挙兵、子と共に戦死。
- 由㯆(饒州): 洪承疇に滅ぼされた。
- 趙祖・舒奇(余干): 敗死。
- 徐孝伯(湖東): 敗死。
- 徐徳・洪士邦(安仁): 敗死。
- 倪大顕(楽平): 弟大恢・大登と共に王得仁軍と激戦、力尽きて自刎。
- 詹兆恒・胡奇偉ら(広信): 兆恒は玉山で長期にわたり抵抗を続けたが最後は流れ矢で死亡。夢泰夫婦は自縊、奇偉は自刎、定礽も死んだ。
- 時敏・文・克升(広信九仙山): 永暦帝から真定侯に封じられるが砦陥落と共に死亡。
- 黄英ら(瑞州): 王得仁に敗れ全滅。
- 陳志明・魯国琦ら「七家軍」(上高): 王得仁に敗れ、志明は陣没、他は死亡・逃亡・出家。
- 陳泰来(新昌): 隆武帝の命で江西義軍を督したが、姻戚の勧告で益王への合流を控え、後に金声桓に敗れ再挙するも最後は自刎。
- 許文龍・曾嗣宗(寧州): 三か月の籠城の末に食糧尽き捕らえられ死んだ。
- 徐伯昌・彭焜・金簡臣(寧都): 伯昌は長期籠城を保った末、絶命の辞を壁に書き縊死。彭焜も家族と共に整然と自死。
- 陳其綸(大相山): 鄭成功に頼るも敗れ死んだ。
- 陳輝・汪碩画ら(貴渓): 死亡。
- 王寵・鄒文鼎(吉水): 王寵は変装や奇策で金声桓軍を翻弄したが、最終的に山中で消息を絶った。
- 鄧武泰(峡江): 戦死。
- 傅鼎銓・鄔見正(宜黄): 鼎銓は詩才で知られ、捕縛後も屈せず処刑(「浴仏詩」を残す)。鄔見正も屈せず獄死。
- 宋献忠(楽安): 戦死。
- 陳文魁: 南豊で捕らえられ死んだ。
- 劉淑英(節婦): 揚州太守劉鐸の娘。夫の死後、家僮を集めて一軍を組織し、後に憤死。
- 李陳玉(信豊): 敗死。
- 劉士楨(龍泉): 泰和・廬陵を破るが贛州陥落後に転戦、絶食して死んだ(子稚升も戦死)。
- 楊廷麟・劉同升ら(贛州): 贛州で二年にわたり堅守し「忠誠府」の名を賜るが、最終的に陥落し楊廷麟は自沈死。
- 由植(宗室、贛州): 降将馬国棟に滅ぼされた。
- 陸継望・陸洪基(南城): 詳細不明のまま死んだ。
福建の義旅
- 斉巽・張份・僧不空(閩州): 曹学佺の資金援助を得て挙兵するが降将の密告で潰滅。
- 朱継祚・曾世兗(莆田): 継祚は興化を攻略するが城陥落後捕らえられ自縊。世兗は憂憤の末病死。
- 李長蛟(延平): 徳化王を奉じ険阻な地に拠って抗戦したが清軍に攻め落とされ戦死。
- 蒋芬(建寧知県): 崇禎帝崩御を聞いて挙兵を誓うが用いられず、後に興化で殉節。
- 鄖西王常潮ら(建寧): 各地の義士が集結し一時建寧を制圧するが清軍の総攻撃で王は一族と共に焼身自殺、部将王祁も自焚死。
- 毛明卿・李尚賢・范恩印: 各地を転戦し敗死。
- 統錩(宗室、光沢): 部下の裏切りで滅ぼされた。
- 林質(徳化): 敗死。
- 陳希友(長楽): 鄭綵の横暴を弾劾するが用いられず出家した。
- 林汝翥・林垐(福清): 垐は矢傷がもとで死亡、汝翥も除夜に服毒自殺。
- 林永聚(永春州): 州城を襲撃し一時は勢いを得るが敗死。
- 劉中藻・李向中(福寧): 中藻は七か月の籠城の末、飲金自殺。子恩沛も殉じた。向中も最終的に海に身を投じる覚悟を示し処刑された。
- 朱成功(鄭成功、海上): 三代にわたり抗戦を続け、最終的に鄭克塽の代で降伏(詳細は「閩海遺兵」)。
- 洪有楨・楊淶(漳浦): 有楨は文人ながら挙兵し降臣を殺したが捕らえられ処刑(首を晒しても顔色変わらず)。
- 沈佺期・林橋升・郭符甲・諸葛斌(泉州): 符甲は全身傷を負いながら戦い続け斬られてなお死ななかったと伝わる。斌は内応計画が漏れ全滅。
- 郭必昌・顕父子(内応計画): 一族十三人が死んだ。
- 林忠(南安): 八年にわたり海上を転戦するが最後は敗死。
- 田闢(僉都御史): 冤罪で投獄されるも赦免後も抵抗を続け、最終的に殉節。
湖南の義旅
- 周師文(興国山中): 金声桓に呼応し何騰蛟の下で戦うが敗死。
- 郭金召(湖潭): 何騰蛟の招きにも応じず隠棲し、自ら墓碑に「遺民」と刻んだ。
- 余鯤・李春甲(宝慶): 何騰蛟死後、桂林陥落を機に絶食死。
- 邱式■(黔陽): 団練を率い抵抗するが捕らえられ、自ら祭文を書いて刑死。
- 貴渓王常彪(永寧): 苗族の兵と共に戦うが城陥落とともに一族戦死。
- 榮王由楨(辰州): 敗死。
- 謝炤・龍尚可(耒陽): 孔有徳軍と戦うが敗死。
- 聞大成(酃県): 挙兵直後に捕らえられ、獄中でも慷慨として刑死。
- 唐誠(永州): 父の遺命で兄と挙兵し瞿式耜を助けるが、母を人質に取られ自ら囚われて母を贖い、後に隠棲。弟の唐訪も出家した。
- 崇陽王(苗地): 黎平攻撃で捕らえられ死んだ。
- 興化土司某: 崇陽王配下として最後まで戦い死んだ。
- 湖南全体: 義師が数多く蜂起したが記録に乏しく、多くは苗漢混成のまま鎮圧された。
広東の義旅
- 陳子壮(大学士、広州): 蘇観生の紹武帝擁立には反対したが、永暦帝から東閣大学士に任じられ広州を攻略しようとするが失敗。捕らえられ処刑され(磔)、その母も自縊した。永暦帝から番禺侯・文忠の諡を追贈された。
- 星一・璜(肇慶): 敗死。
- 張家玉(広東巡撫、東莞): 隆武帝から巡撫に任じられ潮・恵で兵を募り東莞を攻略。祖母・母・妹・妻がそれぞれ壮絶に殉節。後に増城を攻略するが力尽き、諸将を拝礼して自ら池に身を投げた。永暦帝から少保大学士・増城侯を追贈された。
- 林洊(家玉の師): 刑死に際し詩を残した。
- 朱四維・指揮某(東莞方面): 陳子壮に呼応するが城陥落後に死んだ。
- 阮大年・李子俶ら(新会): 黎遂球の下で戦い、贛州陥落時に共に戦死。
- 春栄・興(新会): 李成棟の招きを拒み敗死。
- 王興(虎賁将軍、文村): 険阻な地に拠って十数年抵抗を続けたが、食糧尽き永暦帝の訃報を聞き、妻妾らと共に自ら火を放って焼身自殺した。
- 陳耀・林賢挙・蘇来・劉子葵(恵州): 広州攻略に失敗し多くが死亡。
- 頼其肖(潮州): 降将を斬るが敗死。
- 趙王某(山寨): 陳子壮の蜂起に連座して縊殺された。
- 霍師達(胥江): 陳子壮・陳邦彦と連携するが清水軍に敗れ戦死。
- 陳順簡(韶州): 敗死。
- 頼熊(建陽): 敗死。
- 光山廠の義民: 険阻な地形を頼りに長く抵抗、清軍もついに攻め落とせなかった。
- 白常燦(清遠): 陳邦彦を守り矢が尽きるまで戦って死んだ。
- 陳邦彦(給事中、高州): 永暦帝の信任篤く、桂林救援のため広州奇襲を計画。数万の軍を集め清遠を拠点に激戦を続けるが陥落。捕らえられて刑死する際、絶命歌を残し従容として死んだ。同志の崔良檟(一説に崔良先とも)も高州で死んだ。
- 黄公輔(湖南巡道): 挙兵するが敗死。
- 麦而炫(高明): 捕らえられ処刑された。
- 周金湯(漳平伯、雷州・廉州): 尚可喜に敗れ捕らえられ死んだ。
- 黄海如(雷州): 鄭成功との連携を図るが失敗し死んだ。
- 張孝起(廉州): 妻妾が入水自殺、後に本人も絶食死。
- 鄧耀(龍門): 交趾に逃れるも土司に殺された。
- 蕭図隆ら(恩平など): 尚可喜に鎮圧され死亡。
- 陳武(瓊州): 黎族の支持を得て抵抗するが清軍に鎮圧された。
- 陳志良ら(海南): 最後まで抵抗し焼身自殺、他は海上に逃れた。
広西の義旅
- 方震儒(広西巡撫、桂林): 勤王の兵を送るが交代となり潰える。
- 朱盛濃(宗室、富川)・李茂先: 猺・獞の兵を集め最も長く抵抗を続けたが、康熙元年に至りついに捕らえられ抗節死。
- 何復図: 曹志建に攻められ磔死。
- 広西全体: 諸勢力の争奪の中で忠節の士が数多く出たが、多くは記録が失われた。
四川の義旅
- 賈鍾斗・劉士愷・龍明新(仁寿): 力戦して死んだ。
- 雷応奇(井研): 賊軍を撃退するが最後は戦死。
- 呉宇英(新都): 賊の官職を拒み三千の兵で立て籠もるが食糧尽き一族自縊、兵も全滅。
- 曾英(重慶): 貢金を軍資として大軍を組織するが後に戦死。
- 劉長麟(涪州): 曾英と共に戦い、英の死後まもなく死んだ。
- 侯思恂・王芝瑞: 相次いで挙兵、思恂はまもなく病没。
- 董克治(合州): 峒を守り抜くが賊の火攻めで三千人が誰も降らず死んだ(田横に例えられる)。
- 蒋士鉉(永川): 捕らえられ屈せず磔にされた。
- 刁化龍(江津): 敗死。
- 葉可緒・史覲宸ら(順慶): 覲宸は捕らえられ罵って死んだ。
- 樊明善(南充): 巡按に決起を促し、自ら賊に抗して死んだ。
- 李含乙(広安): 賊将を撃退するが捕らえられ、部下の裏切り疑惑を晴らそうと共に死んだ。
- 熊兆桂・李師武・魚嘉鵬(叙州): 兆桂・師武は捕らえられ皮を剥がれ晒された。嘉鵬も磔にされた。
- 王啓歳(安岳): 戦死。
- 石泉王聿鏘(叙州・馬湖): 城を攻略するが永暦帝滅亡後まで戦い続けた最後の義兵とされる(聿鏘は聿鋡とも記される)。
- 馬乾(達州巡撫): 賊軍を破り重慶を回復するが後に殉難。
- 朱化龍・万文相(龍安): 詹天顔と共に長年抵抗するが最後は捕らえられ屈せず死んだ(馬も悲鳴をあげて死んだという逸話が残る)。
- 詹天顔(松潘): 龍安府を回復するが石泉での戦いで捕らえられ死んだ。
- 高明(建昌衛): 劉文秀に敗れ自焚死。
- 范文光・劉道貞ら(雅州): 蜀王を奉じ挙兵するが、楊展の死後に文光は服毒死。道貞の妻王氏は賊に体を裂かれても屈せず、道貞の子揆度も戦死。
- 葉大賓(賊に強制された県令): 密かに賊酋を殺し民衆を率いて脱出。
- 王懋烈(松陽): 一族もろとも敗死。
- 曹勲(黎州): 宗室平檙を奉じ賊を撃退するが、楊展の死後に勢力を失い捕らえられた。
- 楊展(犍為、武進士): 成都で捕らえられるも縄を断ち脱出、犍為で再挙し川中随一の名将となるが、味方の李乾徳の讒言で殺された。
- 王万春(瀘州衛): 一族もろとも死んだ。
- 黎応大(夾江): 密謀が漏れ体を裂かれ、子三人も死んだ。
- 周鼎昌(鎮安): 劉文秀の橋を断ち多数を溺死させるが、後に不意を突かれ敗れた。
- 廖佐・楊世泰(羅徽堡): 峨眉を守るが敗死。
- 余登皞(眉州): 五千人を虐殺された民を集めて義旅を組織し二年抵抗するが、最後は向成功に殺された(成功も後に呉三桂に討たれる)。
- 朱盛濃(巴東): 転戦の末、小尖寨で捕らえられ死んだ。
- 余飛(花溪): 劉文秀軍を伏兵で破るが再侵攻時に力戦の末死んだ。
- 中江・射洪の民寨: 偽の藩王子に欺かれ全滅した。
- 王祥(遵義): 曾英と並ぶ名声を得るが後に死んだ。
- 僧晞容(豹子峒): 五百の義勇で賊を撃退するが最後は殺された。
- 楊之明・朱統𨥠・鄭廷爵(天全): 雅州で敗死。
- 馬京・李華宇(黎州): 土司の兵を率い長年賊を寄せ付けなかったが、劉文秀の再侵攻で相次いで死んだ。
雲南・貴州の義旅
- 李若星(雲貴総督): 勤王の兵を送るが交代となり、後に雲南で死んだ。
- 顧人龍(定番): 土兵で孫可望軍を撃退。
- 呉子麒(新寧知州): 挙兵し賊を破るが、後に捕らえられ屈せず死んだ。
- 段伯美・余継善・耿希哲(晋寧): 李定国に敗れ自刎。
- 夏訓祖(呈貢): 敗死。
- 周柔強(江川): 李定国に敗れ戦死。
- 席上珍・金世鼎・何思大(姚安): 賊将張虎に敗れ、金世鼎は自殺、上珍・思大は捕らえられ屈せず罵り続けて死んだ。
- 張倫(鉄索営): 孫可望に殺された。
- 那嵩(沅江土知府): 永暦帝を厚遇した忠義の士。李定国の緬甸退避後も抗戦を続け、呉三桂の包囲を受け一族もろとも焼身自殺した。
- 龍吉兆・龍吉佐(馬乃土司): 七十余日守り抜くが陥落、呉三桂に舌を切られ殺された。
- 道人梅某・尹士表・張琦(寧州): 沐天波の遺児を担ぎ蜂起を計画するが発覚し全員死亡。沐天波の遺児(新保)も後に呉三桂に殺された。
- 水西の安坤: 総兵として抵抗を続けたとされる(詳細不明)。