續明紀事本末東南各地の殉節(東南殉節)

北都・南都の陥落に際して節を守り死んだ人々を、北京での使団(左懋第ら)、北都陥落後の華北各地、揚州(史可法ら)、江南(皖・蘇南)各地、南京陥落時の順に地域ごとにまとめた篇。清への降伏や剃髪を拒み、処刑・自刎・自経・絶食・入水など様々な形で殉じた官民の事跡を列挙する構成で、年次を追った記述ではないため年表は作成していない。(訳文の `##` 見出しがすべて地域・出来事区分のラベルで、年を含む見出しが1つも無いため、年表の行は作成していない)

北京での殉節(左懋第の使団)

  • 左懋第(僉都御史): 母の喪中ながら北京への使者を自ら志願。清の朝見礼を拒み、国書も渡さず、三日間哭礼を行った。多爾袞に一度は帰国を許されるが、陳洪範の策謀で滄州で連行され太医院に幽閉された。南京陥落を知ってもなお剃髪を拒み続け、副将艾大選を杖殺してまで節を守り、最終的に多爾袞の詰問にも屈せず処刑された。絶命詞を残し、端座のまま刑を受けた。同行した陳用極・王斌・王廷翰・張良佐・劉統(「藍面将軍」)も皆抗節死した。

北都陥落後の華北各地の殉節

  • 泰安州: 治中蕭協中は井に身を投げ、挙人徐柟・生員王徳昌ら多数が城壁で罵り、あるいは巷戦・入水・自焚などで殉じた。
  • 厲必中(海豊教諭): 京師陥落を聞き絶食死。
  • 鞠鳴秋(長山の農民): 崇禎帝崩御を聞いて縊死(同じ頃、霸州の郷民は芝居見物を続けていたという対比が記される)。
  • 沈迅・迓兄弟(萊陽): 砦を築いて自守していたが、清軍の攻撃で一族全滅。
  • 阮泰(広霊知県、洛陽居住)・張崇垣(帰徳通判)・張国光(商城知県)・陳三益(儀封知県)・岳光奇(信陽の布衣)・牛億富・方芸(輝県の農民): いずれも北都陥落を聞き、拝礼・絶食・入水・縊死などで殉じた。
  • 凌駉(巡按御史): 満家集に籠もり招降を拒んで印を井に投げ捨て、豪格軍に降ったふりをして甥の潤生と共に夜に縊死。豪格に遺書を送り、江南への進撃自制と和議を求めた。
  • 徐州の王養心(諸生、絶粒死)・朱賢(遊撃、殉職)・邳州の陸台輔(劉沢清への抗議後、備蓄が尽きると縊死)・侯方岩(総兵、泗州で戦死し全軍壊滅)・王有年ら(贛楡都司、戦死)・李朝才(塩城諸生、絶食死): 各地でそれぞれ殉じた。

揚州・史可法の殉節

  • 史可法(督師太傅兵部尚書): 軍中で質素な生活を貫き、揚州で防戦。諸鎮が離反する中、総兵劉肇基・副総兵莊子固らと守り抜くが、多鐸の猛攻で城壁が崩れ陥落。「我は督師なり」と名乗り出て捕らえられ、降伏を拒んで処刑された。遺体は見つからず、多鐸が招魂して梅花嶺に葬った。
  • 劉肇基・乙邦才・馬応魁・何剛・呉爾壎・盧渭ら: 巷戦や自刎・自経・入水などでそれぞれ殉節。揚州知府任民育も緋衣のまま殺され、その血痕は長く消えなかったと伝わる。ほかにも塩運使揚振熙以下、武官・文官・義民・婦女など枚挙にいとまがないほど多数が殉じた。

江南(皖・蘇南)各地の殉節

  • 許徳溥(如皋の布衣): 腕に「生為明人、死為明鬼」と刻み抗節死、妻朱氏も殉じた。
  • 和州の張秉純・徐正夫、含山の張不二ら: 北都陥落を聞き絶食・縊死。
  • 安徽巡撫張亮: 左夢庚に連行される途中で入水死。参将孟振邦・同知王心詔も屈せず死んだ。
  • 懐寧の胡土恂とその子丹寅・紹虞、桐城の周日曜、劉世芳(済南僉事、英山出身): いずれも悲憤のうちに死去。
  • 鎮江・丹徒の知府・県令・推官・参将徐永春: 皆死んだ。侍郎葉廷秀は隆武帝没後出家し、憂憤のうちに没した。

南京(金陵)陥落の殉節

  • 光禄寺監管自修・右参議王若之・欽天監陳于階・錢敬忠(旧寧国知県)・董啓明ら: 北京陥落・南都陥落の報に接し、絶食・自経などで相次いで殉じた。
  • 劉成治(戸部郎中): 趙之龍を殴打して抗議し、壁に忠誠の詩を書いて縊死。
  • 黄端伯(礼部主事): 多鐸の招降を拒み「大明忠臣」を名乗って屈せず処刑された。刑者の刃が二度震えたという逸話が伝わる。
  • 呉嘉允・劉廷祥ら: 方孝孺の祠を拝し、あるいは橋から身を投げて殉じた。吏部尚書呉応瑞・刑部尚書高倬ら多数の高官、さらに橋の乞食までもが節義を全うしたと記される。
  • 湯南金(東甌王十三世孫)・常元亮(開平王裔)・王崇図ら(金壇)・馬純甫(六合)・馬嘉(祁門)・孫茂華(南陵)・陳公輔(貴池)・胡鯤化ら(銅陵)・陳九万(東流)ら: 各地でそれぞれ絶食・縊死・入水などにより殉じた。
  • 張慎言(吏部尚書): 宏光帝の恩賞を辞退し、国亡後は憂鬱のうちに背中の腫れ物がもとで没した(享年六十九)。
  • 覃天明(興安州同)・王徳明(太平訓導)・黄得功(靖国公、抗節死。夫人翁氏は軍資金を沈めて入水殉死)・翁之琪(総兵、入水死): それぞれ壮絶な最期を遂げた。

黄道周の殉節

  • 黄道周(督師大学士): 隆武帝の厚い信任を受けたが鄭芝龍に疎まれ、寡兵のまま出師。婺源で敗れ捕らえられ、南京で洪承疇の勧降を拒み、剃髪を求められても「穿心国から来たなら心を貫くのか」と一蹴。従容として著述を続け、東華門で高皇帝陵に近いことを喜び端座して刑を受けた。門人の蔡春栄・頼継瑾ら多数も殉節した。

江南(蘇州・常州・無錫)方面の殉節

  • 常州の文乗・震亨叔甥、無錫の厳紹賢、孫源文、華允誠(員外郎、南都陥落から四年後も剃髪を拒み殺された)ら: それぞれ節を守り死んだ。
  • 徐汧(少詹事): 蘇州降伏を聞き、子に遺書して入水死。名も知れぬ諸生も殉じてその義に感じた人々が共に葬った。
  • 常熟・太倉方面: 徐嶧(泮池に入水)、徐守質(母と妹の死を見届け井戸端で罵り死んだ)ら多数がそれぞれ壮絶な死を遂げた。
  • 華亭(松江)の睦永明・戴泓・徐念祖夫妻ら、金山衛の廖承祖・世祿父子(巷戦の末、父は四十本の矢を受けて死に、子も文廟で拝礼の後死んだ): いずれも殉節。
  • 黄銘丹(参謀): 崇明で募兵中に監国出航を知り、絶望して入水、妻施氏も殉じた。徐仁壽(定南伯)も後に鄭成功の崇明攻めで戦死。

杭州・紹興方面の殉節

  • 陸培(元通政司)・顧咸建(銭塘知県、大学士顧鼎臣の孫)・唐自綵(臨安知県)・王道焜・過俊明ら: 杭州陥落前後にそれぞれ抗節死。
  • 高宏図(大学士): 潞王擁立に関わるが絶食死。舉人高岱・葉汝蘅らも入水・絶食で殉じた。
  • 倪文徵・朱煒(会稽の布衣): 自ら墓に入り、あるいは遺志を示して入水死。
  • 「三先生」(山陰): 王毓蓍(諸生)は柳橋下に投身、潘集は劉宗周を弔って入河死、周卜年は薙髪令に憤り海に身を投げた。越人はそれぞれ「正義」「成義」「全義」の私諡を贈った。
  • 王之仁(興国公): 諸軍潰走の中、妻妾・子女を蛟門に沈め、自らは松江で洪承疇の招降を拒み処刑された。
  • 余煌(兵部尚書): 民を城外に逃がした後、絶命詩を残して入水死。
  • 陳函輝(礼部侍郎)・陳潜夫(太僕寺卿、妻妾と共に入水)ら: いずれも監国に従い最期を遂げた。

寧波・舟山方面の殉節

  • 趙景麟・趙天生(鄞県の諸生): 江上潰走を機に泮池に身を投げ、あるいは半年潜伏の末に明の滅亡を知り絶食死。
  • 婁文明(象山)・章有功(会稽の農民出身の指揮)ら: それぞれ壮絶な死を遂げた。
  • 張肯堂(大学士、舟山守備): 城陥落に際し妾・子・孫女ら一族を先に死なせ、自らも縊死。中軍の林志燦・林桂も戦死しつつ孫の茂滋を脱出させた。
  • 呉鍾巒(尚書): 文廟で位牌を守りながら自焚死。李向中(兵部侍郎)は自ら海に投げるよう遺言し処刑された。朱永祐(吏部侍郎)は剃髪を拒み脅の骨を斬られて死んだ。ほか鄭遵儉・梁隆吉一族、江用楫、董元ら多数の文武官・婦女が殉節し、「舟山の烈は嘉定・江陰に等しい」と評される。
  • 阮進(蕩胡伯)・張名揚・王朝相・劉世勲ら: 舟山再陥の際にそれぞれ戦死・入水した。

台州・温州方面の殉節

  • 沈履祥(御史、台州で殉節)・趙牧(総兵、林舞籥と共に戦死)・李東昇(臨淮王裔、監国入海を聞き発狂死)・盧若驥(盤山関、脱出後舟山へ)・楊文驄(侍郎、劉孔昭と衢州援軍に赴くが捕らえられ処刑)・王瑞柟(太僕寺少卿、温州陥落後に自縊)・葉向高(楽清の諸生、「洪武聖訓」のみを唱え続けて刑死)ら: 各地でそれぞれ抗節死した。

金華・衢州・厳州方面の殉節

  • 張季熊(厳州守将、張鵬翼の弟): 力戦の末に自刺し、遺体は三日立ったまま倒れなかったと伝わる(「張氏三忠」の一)。
  • 蔣若来(都督、金華陥落時に巷戦の末自刎)・張鵬翼(総兵、衢州で捕らえられ弟鵬飛と共に不屈死)ら: それぞれ殉節した。
  • 楊文驄・孫臨(監紀主事): 衢州援軍で捕らえられ処刑。

江西の殉節

  • 殷国楨(新建の諸生): 各地の反正工作に奔走するが捕らえられ処刑。
  • 姜曰広(大学士): 南昌陥落に際し絶命詞を残して入水、従う者二十余人も殉じた。
  • 傅鼎乾・楊時秀・黄英ら(常山・餘干・広信方面): それぞれ戦死・抗節死。
  • 周定礽(巡撫)・胡甲桂・李士奇・畢士貞ら(広信): いずれも屈せず死んだ。
  • 呉錫玉(南康通判): 単騎で賊軍に突撃し壮絶に戦死。
  • 黄克善(東湖守備): 流賊の閻・羅・宋三家を亀磁で撃つが落馬して捕らえられ、髭を撫でて「我が血で汚すな」と言い残して死んだ。
  • 袁継咸(九江総督): 左良玉の死後、清軍に捕らえられるが文天祥を範として節を貫き、幾度も自死を試みるが果たせず、北京に連行され宏光帝・太子と同時期に処刑された(享年四十九)。
  • 孫大華・郭之麟・余士偉・彭永春・徐可行ら(九江): それぞれ壮絶な死を遂げた。
  • 陳六韜(給事中)・王興允(監察御史)ら(新城・南昌方面): いずれも抗節死。
  • 万元吉(兵部侍郎、贛州総督): 自ら妾と子を先に死なせた上で入水死(「精忠」と称された)。郭維経(吏部尚書、自焚)・彭期生(太常寺卿、自経)・姚奇允(文廟で自縊)・楊文薦(絶食死)ら贛州の多数の文武官が殉節。
  • 江西の里居・流寓・士民の殉節者: 明溯中兄弟、盧観象一族、謝纘一族、涂君鼎一族ら数十家が入水・自焚・自縊などで死んだ。
  • 徐伯倡(監察御史): 寧都で長期籠城の末、壁に「但知守経、不知有権」と書いて縊死。
  • 曹学佺(兵部尚書、福京留守): 前兆の夢に応じて自ら壁に絶命の句を書き縊死。

福建の殉節

  • 鄧文昌(懐遠侯): 妻の後を追い自ら喉を突いて死んだ(享年十九)。
  • 陳其礼(知閩県)一族十五人、熊緯(給事中)、胡上琛(都督僉事、妻と共に毒を仰いだ)ら: いずれも福京陥落時に殉節。
  • 蒋徳璟(大学士)・呉聞礼(巡撫)ら: 各地の防戦に努めるが力尽き、絶食死・戦死。
  • 傅雲龍・金麗澤・涂世名(漳南): 博托軍の攻撃で同日に死んだ。
  • 楊履園(漳浦)・李大載(諸生)・洪有文(知県)ら: それぞれ処刑・殉節。
  • 掲重熙(兵部尚書): 崇安で捕らえられ、屈せず刑死。楊文忠(巡撫)も同様に抗節死。
  • 倪懋熹(兵備道)・毛協恭(提学道)・朱喬秀(建寧、朱熹の裔)・黄鳴駿(大学士、浦城で殺害): 建寧方面でそれぞれ殉じた。
  • 鄭為虹・黄大鵬(給事中): 剃髪を拒み、罵り続けて処刑された。
  • 王士和(延平知府): わずか一月の在任で城と運命を共にすると決め、従容として縊死。
  • 傅冠(大学士): 李成棟に捕らえられるが清操を貫き、最終的に処刑された(「断頭宰相」文天祥を引いて節を語った)。
  • 周之藩(福清伯): 隆武帝を守って奮戦し、自ら「我即隆武皇帝也」と叫んで敵を引き付け、矢を受けて死んだ(隆武帝最期の場面)。閔時・熊緯・宮嬪某氏らも護衛の中で死んだ。曲陽王ら宗室も相次いで殉節。
  • 姜一洪(尚書)・陳若水(汀州衛人)・李魯(職方主事、丁甲の裏切りで捕らえられ憤死)ら: 隆武帝を追って各地で殉じた。
  • 劉中藻(大学士、福安籠城の末に飲金自殺。子恩沛も殉節)・顔昌儒ら(永春州): いずれも殉節。
  • 曾櫻(大学士、廈門で縊死。門人陳泰が遺体を三十里運んで葬り、自らも三日絶食して死んだ)ら: 廈門でも多数が殉じた。
  • 甘輝(鄭氏部将)・張進(鄭氏部将、忠匡伯、裏切り者を火薬で道連れにして自焚死)ら: 鄭氏軍でもそれぞれ壮烈な最期を遂げた。
  • 節を守り僧・道士として生涯を終えた者: 倪俊明・張若化・林蘭友・許瑾ら多数が、死なずとも心は明にあったとして記される。

湖南(湖広)の殉節

  • 黄卷(呈貢知県、鍾祥の人)・王喬棟(興国州)・鄒允孝(蘄水教諭)ら: 北都陥落・左良玉軍の乱で殉じた。
  • 夏大武(黄州諸生): 献賊に強いられた官職につくも、博浪の一撃を志して密告され磔にされた。
  • 洪淯鰲(湖広総督): 郝永忠らの略奪を諫めた廉直の士。永曆帝の命で諸軍を統べたが敗れ、屈せず処刑された。
  • 周二南(長沙知府)・呉愉(参謀)・龍孔蒸(挙人)ら: 郝永忠・黄朝宣らの兵に遭い殉じた。
  • 何騰蛟(督師大学士): 湘潭で捕らえられ、旧部将徐勇の説得にも屈せず、絶食七日の末に処刑された。所居の井戸の魚が生前満ち、死後空になったという逸話が伝わる。
  • 楊進喜(副総兵)・呉学植(副総兵、羅錦繡の尋問に大喝して自ら柱に頭を打ちつけて死んだ)ら: 何騰蛟に殉じた将たち。
  • 夏汝弼(衡陽諸生): 湖南陥落後、九嶷山に入り絶食死。
  • 呉炳(大学士)・傅作霖(兵部尚書、劉承允を面罵し、屈服を拒んで処刑)ら: 武岡方面で殉節。
  • 熊興麟(巡按御史)・李芳先(主事)ら: 孔有徳の勧降を拒み処刑された。
  • 黄祖順(巡撫)・朱俊臣(巡撫、単騎で敵陣に突入し戦死)ら: 郴州で殉節。
  • 惠延年(副総兵)・謝復栄・王景熙(永曆帝を護衛して追撃を防ぎ、五百人の部隊もろとも死んだ。「二人がいなければ永曆帝は禍を免れなかった」と評される)ら: 湖南義軍の中でも特筆される。
  • 李瑋興(臨武知県): 五昼夜にわたり孤軍で防戦し、捕らえられて屈せず刑死。
  • 王夫之(行人): 顧炎武・黄宗羲と並ぶ学者。猺峒に身を潜め、髪を保ったまま生涯を全うした稀有な例として記される。

広東の殉節

  • 蘇観生(大学士、紹武帝擁立に関わり自ら縊死)・霍子衡(太僕寺卿、家族一同を先に死なせた上で入水死): 紹武政権の崩壊に際して殉節。
  • 彭燿(給事中)・盧爵(鄭成功の部将、恵来で戦死)・李元允(南陽侯、永曆帝を護り最後まで抗戦した後、処刑): 広東各地で殉節。
  • 毛鳳池(大理寺卿): 出仕を強要されるも子孫の恥を思い絶食死。
  • 陳彝典・陳其策(呉川)、王道光(廉州)ら: 各地で殉節。

広西の殉節

  • 瞿式耜(留守大学士、桂林): 永暦帝から「国家の事は先生に一任する」と託されるほど信頼が篤く、諸軍潰走後も逃げず、孔有徳の礼遇と勧降を拒み続けた。同僚張同敞と共に詩を作りながら投獄され、最終的に処刑された。処刑時に大雷電が起き、遺骸の目が三日後も動いたという逸話が残る。
  • 張同敞(兵部尚書): 瞿式耜と最後まで行動を共にし、孔有徳を面罵、腕を折られてもなお節を曲げず、絶命の詩三十余首を残して処刑された。
  • 龍韜(義寧伯)・龍之虯(巡撫)ら: 柳州陥落時に殉節。
  • 陳象明(湖南副使)・巫知衡(蒼梧知県、旧印を守り処刑された): 梧州陥落に際し殉節。
  • 堵允錫(督師尚書): 諸将の不服従に憤り病没直前に自ら入水を図るが従者に止められ、その夜に没した。
  • 焦璉(宣国公): 永曆帝を城壁から救出した功臣。軍規厳正な将であったが、陳邦傅の謀略で捕らえられ、屈辱を拒み自刎して死んだ。
  • 厳起恆(大学士): 孫可望の封爵要求を拒み、賀九儀に殺害された。遺体を虎が運んだという逸話から「虎墳」と呼ばれる。
  • 桂林・柳州・梧州方面のその他多数の武官・文官が抗節死した。

四川の殉節

  • 龍文光(四川巡撫): 成都陥落時に浣花溪に投身。劉之渤(前巡按御史)は屈せず罵り続けて磔にされた。
  • 張継孟(按察副使)夫妻、陳其赤・張孔教(兵備道)ら: 成都陥落時にそれぞれ抗節死。
  • 蜀王至澍とその一族: 井戸や川に身を投げて多数殉節。
  • 成都・崇慶・新津・漢州・綿竹・什邡・資陽・仁壽・内江・綿州など各州県で、知県・訓導・諸生・婦女が城の陥落ごとに絶食・自刎・入水・自焚などで殉節。特に綿竹の楊国柱一家、什邡の李愛芳姉妹、綿州の劉宇亮一族の女性たちの節義が特記される。
  • 尹伸(在籍湖広布政司): 井研で捕らえられ罵り続けて処刑(妻妾も殉じた)。
  • 樊一蘅・劉之綸の妻妾ら: 賊を罵り凄惨な処刑を受けた。
  • 建昌・松潘・雅州・嘉定方面: 范文光(服毒死)・朱儀(嘉定知州、妻胡氏と共に自焚)ら多数が殉節。特に嘉定は舟山・江陰に比肩する激しさだったと記される。

貴州の殉節

  • 張耀(貴州布政司): 秦人であることを理由に降伏を勧められるが罵って拒み、一族十三人と共に処刑された。
  • 郭承汾(巡撫、貴陽再陥時に不屈死)・楊畏知(大学士、孫可望の下で節を貫き杖殺)ら: いずれも孫可望政権下で殉節。
  • 冷孟飪(巡撫)・唐勲(按察使、定番で防戦の末戦死)・曾異撰(知州、一族自焚)・黄応運(清威道、孫可望に反駁し馬に踏み殺された)ら: 貴州各地でそれぞれ壮絶に死んだ。
  • 安龍十八公: 賊に殺された忠臣たちで、孫可望没落後に朝廷から相次いで追贈・祭祀を受けた。
  • 皮熊(匡国公): 永曆帝が捕らえられたと聞き絶食、その後も屈せず処刑された。

雲南・緬甸(永曆帝最期)の殉節

  • 王錫袞(大学士): 沙定洲に脅迫され上疏して祈死し、数日後に没した。
  • 朱寿琳(僉都御史): 孫可望の招降を拒み、従容と詩を残して処刑された。
  • 薛大観(昆明諸生): 永曆帝の逃避を嘆き、一家で黒龍潭に投身。
  • 龔彝(旧戸部尚書): 呉三桂に捕らえられた永曆帝を訪ね、酒を勧めた後、柱に頭を打ちつけて殉死した。
  • 雲南各地(呈貢・晋寧・曲靖・大理・楚雄・永昌・蒙化など): 陳昌裔・冷陽春・王承憲・祿従命・羅国瓛ら多数の官吏・土司・士民が城の陥落ごとに抗節死した。特に太和県では一族揃っての殉節が相次ぎ「太和節義為盛」と評される。
  • 白文選降伏に際し、永曆帝妃某氏が自ら死を選んだ。
  • 緬甸での永曆帝一行: 松滋王某・楊士廉・楊在・金簡ら侍臣多数が緬人の襲撃で殺され、沐天波以下の従者も奮戦して死んだ。命婦の吉安王妃・松滋王妃らも殉じ、沐天波の侍妾夏氏も長く節を守った末に縊死した。
  • 朱蘊金(通政司)ら: 永曆帝と別行動を取っていた一団も阿瓦で緬軍に囲まれ、多くが自縊・処刑された。
  • 王錫(吏部左侍郎)・鄭延爵(浙江司主事): 雲南で先に死んだ。