續明紀事本末永暦朝廷の党争禍(永曆黨禍)

順治三年(1646年)の永曆帝即位から順治十八年(1661年)まで、永曆政権内部の党争の推移を描く。王坤・馬吉翔ら佞臣の専横に始まり、朝臣は呉党・楚党に分裂して「五虎の獄」「十八先生の獄」など相次ぐ弾圧を招いた。瞿式耜・厳起恆・呉貞毓ら忠臣は孫可望・馬吉翔らに阻まれて志を遂げられず、緬甸幽閉期の「咒水の禍」で馬吉翔らも共に落命した。

年表(18件)

順治三年(隆武二年、1646年)冬十一月

  • 永曆帝が肇慶で即位。丁魁楚・呂大器を大学士に、瞿式耜を大学士兼吏部右侍郎とした。李永茂は喪に服すため辞退。王化澄・晏日曙ら擁立に功のあった者が次々昇進した。
  • 太監王坤が司礼監秉筆となる。宏光帝時代からの旧弊を持ち込み、賄賂によって人事が動くようになった。馬吉翔(元は都の遊民)も便佞さで信任を得て絲綸房を掌り、龐天壽・王坤と共に権勢を振るった。朱容藩が宗人府を掌ったが、これは楚宗出身を偽って世子を称した過去のある人物であった。

十二月

  • 内批(帝の私的な命令)で王化澄を督師に任じた。瞿式耜が「内批による人事は宏光朝の弊政」と諫めるが聞かれず、化澄はさらに兵部尚書に進んだ。
  • 起復した李永茂が推薦者十五人を上申するも、王坤が勝手に十四人を却下し劉湘客も黜けたため、永茂は憤然と辞去した。瞿式耜が「司礼監が人事の可否を専断するのはおかしい」と抗議するが、王坤も別途人材を推薦し対立が深まった。吏科都給事中劉鼒が坤を弾劾し永曆帝の怒りを買うが式耜が擁護し事なきを得た。方以智・劉湘客が経筵に用いられ、王坤はこれを不快に思った。

順治四年(永曆元年、1647年)春正月~二月

  • 梧州にて。丁魁楚は逃亡の末に降伏、王化澄らも逃走し、従うのは呉炳・方以智・朱天麟・呉貞毓ら少数のみとなった。
  • 二月、文安之・王錫兗を入閣させようとするが応じず。瞿式耜のみが防御・招賢に努め、丁時魁・王夫之らを登用した。
  • 給事中に登用された金堡が「朝政が衰微し、藩鎮が朝廷を軽んじ、内廷は貪汚、言路は調停に終始している」と切実な上疏をした。郝永忠の掠奪、陳邦傅の無功の封爵、馬吉翔の専横を名指しで批判し、李成棟からも「朝廷にこのような人物がいたのか」と評された。馬吉翔は激怒し永曆帝に讒言、金堡は疎まれたが厳起恆の庇護で難を免れた。堡はさらに各地の軍事戦略についても具体的な献策を行い、朝士の反感を買った。
  • 劉承允が武岡に驕慢に屯し、給事中劉堯珍と衝突するなど専横が続いた。式耜が留守として桂林に赴任、陳邦傅も恩平侯に封じられた。

夏四月~五月

  • 劉承允が郭承昊・馬吉翔・厳永従への封爵を求め、朝臣は承允に媚びる者が多かった。毛壽登だけが「軍功のない者への封爵は不可」と拒み、承允の怒りを買い杖刑に処された。
  • 周鼎瀚が大学士となり劉承允と共に朝政を執るという異例の事態となり、承允はますます専横した。

秋八月~冬

  • 厳起恆が東閣大学士となる。劉承允が永曆帝を清への投降に導こうとする事件が起き(未遂)、永曆帝は急ぎ逃走、馬吉翔らが従った(詳「奔亡」)。
  • 冬十二月、桂林入城。龐天壽が司礼監を掌り、瞿式耜・呉貞毓・王化澄・厳起恆と共に朝政に参与したが、是非の判断は付かなかった。馬吉翔が実権を掌握し、瞿式耜が朝政刷新を求めるが聞き入れられなかった。

順治五年(永曆二年、1648年)春~

  • 三月、南寧行幸。厳起恆・王化澄が入閣。周鼎瀚が劉承允に附随していたことを瞿式耜に弾劾され罷免された。式耜は外にありながら朝政の欠陥を絶えず疏で指摘し続けた。
  • 朱天麟が入閣し、その子弟も官職を得るなど縁故人事が横行。天麟は陳邦傅とも通じ、邦傅の広西世鎮の要求を巡り式耜と対立した。
  • 夏四月、李成棟が広東で明に復帰し、朝臣は東行を勧めるが瞿式耜は反対(詳前)。
  • 六月、陳邦傅が広西の世鎮を求め永曆帝を面詰する事件が起きた(詳前)。
  • 秋八月、李成棟が入相を望む式耜を忌み、また袁彭年を左都御史に任じ功を賞した。以後、実権は李成棟・李元允父子に集中した。

秋~冬(党争の形成)

  • 朝臣は次第に党派化した。厳起恆・朱天麟・王化澄・堵允錫・呉貞毓ら患難を共にした一派、曹燁・耿獻忠・洪天擢・袁彭年ら降臣派、呉憬・劉湘客・丁時魁・蒙正発・金堡ら各地から集った一派、陳世傑・楊邦瀚ら広東出身官僚の一派、と分立し、やがて「呉党」(朱天麟・王化澄・呉貞毓ら、馬吉翔・陳邦傅と結ぶ)と「楚党」(金堡・劉湘客・丁時魁・蒙正発・袁彭年ら、瞿式耜・李成棟と結ぶ)の二大派閥に集約された。
  • 瞿式耜が経筵を開き劉湘客を講官とするが、湘客は権謀に長け影響力を持った。金堡が陳邦傅の十罪を弾劾し、馬吉翔・王化澄・厳起恆・龐天壽にも累が及ぶ疏を上げ朝廷は動揺した。太后の介入で沙汰止みとなるが両党の対立は激化。虎丘の仮山図に擬えられ、袁彭年・劉湘客・金堡らが風刺の対象となった。
  • 冬十月、李元允が禁旅を掌握し勢威を増大。文武の官職を求める者が殺到し、章服も乱れる腐敗ぶりであった。李成棟の入朝を巡り馬吉翔が「董卓の如し」との流言で妨害するなど疑心暗鬼が広がった。呉其雷の粛正を求める疏は袁彭年・李元允の恨みを買った。厳起恆が親征を議するが馬吉翔が妨げた。
  • 十二月、李元允が南陽伯、馬吉翔が文安侯に封じられた。

順治六年(永曆三年、1649年)春

  • 李成棟が宣明伯王承恩を忌み謀殺。永曆帝が任じた朱由藝も成棟に誣告され獄死。
  • 陳邦傅が金堡を疎み、堡を弾劾する疏を上げた。朱天麟の票擬(帝への奏答文)を巡り丁時魁ら十六人の科道官が閣に押しかけ大騒動となり、天麟は辞職した。何吾騶・黄仕俊が新たに入閣するが人望を欠いた。
  • 李成棟の敗死後、呉貞毓らが朝権の一元化を求める疏を上げるが袁彭年が不遜な発言をし物議を醸した。
  • 賀全業が袁彭年の専横と陳邦傅の跋扈を弾劾し迫害を受けた。

  • 孫可望の封王要求を巡り金堡が強く反対(詳「李孫之兵」)。陳邦傅は可望と結び金堡排除を画策、王化澄らも賄賂を受けた。厳起恆のみが反対を貫いた。
  • 六月、袁彭年が母の喪に服さないという不孝が問題となるも結局処分を免れた。
  • 堵允錫が忠貞営(李赤心軍)撫恤の任に就き、李元允との対立が深まる。金堡が允錫の忠貞営との結託を面と向かって批判し激論となった。允錫は瞿式耜に密敕と偽った書を送り李元允誅殺を求めるが、式耜は偽物と見抜き取り合わなかった。

冬(五虎の獄)

  • 何吾騶・王化澄が相次いで罷免。朱天麟が復召されるも辞退し、堂々たる直言を残した。
  • 十一月、堵允錫が潯州で憤死。遺言で李元允・劉湘客・丁時魁・蒙正発・袁彭年を「腹心とすれば必ず国は危うい」と警告した。
  • 順治七年(永曆四年、1650年)正月、李成棟の死を悼み李元允が南陽伯に封じられる。馬吉翔が李元允排除を狙い、永曆帝を梧州へ移すことを画策。李元允は肇慶留守を志願し許可された。
  • 二月、李元允弾劾派(呉貞毓・郭之琦・程源ら)が袁彭年・丁時魁・蒙正発・劉湘客ら(いわゆる「五虎」)を朋党の罪十ヶ条で弾劾。金堡らは獄に下され拷問(廟の中で夾具・鞭打ちなどの過酷な取り調べ)を受けた。堡は足を折られながらも二祖列宗を叫んで屈しなかった。金堡・丁時魁は戍刑、劉湘客・蒙正発は贖罪の配流とされ、袁彭年は罪を免れた。瞿式耜は繰り返し疏を上げて刑の緩和を求めたが聞かれなかった。

夏~冬

  • 厳起恆が党争の中で罷免されるが、高必正の取りなしで復職。太后・永曆帝からの詰問に李元允が弁明を試みるも果たせなかった。金堡は清浪衛への配流の途上、馬宝の援助や瞿式耜の招きを固辞して出家し僧となった。
  • 陳邦傅と高必正の私闘、張孝起・李用楫らの対立も続いた。魯可藻・呉貞毓らが各鎮に取り入り、曹志建・胡一青・焦璉を国公に封じるなど、党争の副産物として爵位の乱発が進んだ。
  • 六月、文安之が入閣。厳起恆が首輔となるが党人に掣肘され続けた。
  • 秋八月、孫可望の真の秦王封を巡り朝議が紛糾(詳「李孫之兵」)。
  • 冬十一月、瞿式耜が桂林で殉節(詳「殉節」)。陳邦傅は逃亡し、李元允は行在に走った。曹燁・李綺・耿獻忠・丁時魁らが相次いで清に降伏。王化澄も永曆帝を見捨てて逃走した。

順治八年(永曆五年、1651年)

  • 呉貞毓は厳起恆との対立を抱えつつも「上を捨てるよりは死を選ぶ」と忠誠を語った。
  • 閏三月、厳起恆が孫可望の手により殺害された(詳「殉節」「李孫之兵」)。
  • 夏五月、朱天麟が雲南行幸(孫可望への依存)を求めるが容れられず、土司経略に転出した。
  • 秋九月、陳邦傅が反乱ののち降伏。

順治九年(永曆六年、1652年)

  • 春正月、孫可望が永曆帝を安隆に連行。馬吉翔・龐天壽が可望に諂い、永曆帝の禅譲を画策する陰謀(受禅の議)が進行した。呉貞毓がこれに抵抗するが、冷孟飪ら可望一派に弾劾された。可望の腹心張虎が強権を発動し、朝政を戎政・勇衛営(吉翔・天寿の管轄)に集約しようとしたが、胡士瑞・徐極ら忠臣の告発により陰謀は露見し、太后の介入で処分は保留された。

冬(李定国迎立の密謀)

  • 永曆帝が可望の専横を憂い、内侍の全為国・張福祿を通じて密かに李定国への迎立要請を計画。外廷の徐極・張鐫・蔡縯・林青陽・王朝瑞らが協力し、林青陽が密敕を携え定国軍へ向かった。

順治十年(永曆七年、1653年)

  • 夏、永曆帝が再度督促の使者を送る。馬吉翔が事態を察知し、孫可望に密告。可望は林青陽を捕らえた。
  • 冬十二月、馬吉翔・龐天壽が事態収拾を図るが、逆に林鍾・趙賡禹ら十数名の忠臣が吉翔・天壽の欺瞞を弾劾する疏を提出。両名は先に安隆へ逃れ孫可望に訴えた。

順治十一年(永曆八年、1654年)春(十八先生の獄)

  • 孫可望の腹心鄭国が呉貞毓ら関係者を安隆で拷問、獄に下した。裴廷模(呉貞毓の妻の父)は屈せず、蔡縯が「今日この獄を受けるのは臣子の報国の心を示すためだ」と自ら罪を認め、他の者も追随した。
  • 可望は永曆帝に諸臣の裁可を迫り、詔の形で呉貞毓ら十八人に死罪を宣告させた(永曆帝の本意ではなかったとされる)。三月、呉貞毓が処刑され、張福祿・張鐫は磔、鄭允元・林鍾・趙賡禹・蔣乾昌・李元開・徐極・周允吉・朱議昹・胡士瑞・朱東旦・蔡縯・易士佳・任斗墟・李頎及び内臣全為国ら十八人が刑場で処刑された。彼らは辞世の詩を作り、顔色を変えず刑に臨んだという。三日間屍を晒され、顔色は生けるがごとくであったと伝わる(「十八公」または「安隆十八忠臣」と呼ばれる)。林青陽も後に捕らえられ処刑された。可望の受禅の企ては、この事件により立ち消えとなった。

順治十三年(永曆十年、1656年)以降

  • 李定国が永曆帝を雲南に迎えると、馬吉翔は定国の側近金維新・龔銘に取り入り復権、再び朝政の実権を握った。定国・劉文秀を諫めた高勣・鄔昌期は逆に杖刑に処されるなど、吉翔の専横は続いた。
  • 順治十四年(永曆十一年、1657年)、李定国が安隆十八忠臣の顕彰を上奏し許可された(詳「殉節」)。
  • 順治十五年(永曆十二年、1658年)、錢邦芑・程源が要職に就くが、馬吉翔の妨害で実権は振るえなかった。

順治十六年(永曆十三年、1659年)以降(緬甸幽閉期)

  • 緬甸への使者選定を巡っても馬吉翔の私心が働き、鄧凱・任国璽の派遣が妨げられた。沐天波らの緬甸脱出計画も吉翔に阻まれた。
  • 順治十七年(永曆十四年、1660年)、馬吉翔・龐天壽・李国泰が朝政を独占し、李定国・白文選からの疏を悉く握りつぶし、緬甸への滞在を既成事実化しようとした。
  • 順治十八年(永曆十五年、1661年)、太子擁立による吉翔・国泰排除の計画が発覚し関係者が処刑された。任国璽の諫言も無視され、吉翔・国泰らの放縦は極まった。呉三桂の緬甸攻めの計が進む中、朝臣は成すすべもなかった。
  • 秋七月、緬甸の「咒水の禍」で従臣多数が殺害される中、馬吉翔・龐天壽・李国泰らも共に落命した。吉翔の娘は「父が何をしたか知らないが、死してなお人に罵られている」と嘆いたという。

総括

  • 著者は、東林党の壊滅から南京陥落に至る明末の党争の宿痾を振り返り、永曆政権もまた旧習を引きずったと評する。王坤・馬吉翔・李国泰が錦衣衛・司礼監を握り、陳邦傅・劉承允と結託した様を、北斉の高歓や唐の藩鎮に例え、権臣の専横が朝局を蝕んだと指摘する。
  • 広東出身の官僚が加わって以降、楚党(劉湘客・金堡・袁彭年・丁時魁・蒙正発)と呉党(呉貞毓・王化澄・朱天麟・郭之琦)の対立が先鋭化し、印を投げ捨てる、宰相を面罵するなど朝廷の体をなさなかったと嘆く。
  • 五虎の獄について、李成棟の死・広州陥落という国難の最中に党争に明け暮れたことを「積年の怨みが噴出したもの」とし、獄の不公正さを流賊の悍将にすら劣ると批判する一方、事の是非は両党とも大差なかったとも評し、閩・浙の勢力の方がなお忠誠に篤かったとする。
  • 呉貞毓の罪は瞿式耜・厳起恆を見殺しにした点にあり、李元允の過ちは「四虎(馬吉翔ら)を養った」点にあるとし、いずれも取り返しのつかぬ過ちであったと断じる。
  • 瞿式耜・厳起恆・張孝起らの忠誠と、朱天麟・王化澄・馬吉翔・龐天壽らの腐敗は明白であったにもかかわらず、正しく用いられず、陳邦傅・劉承允のような専横者と結託させてしまった永曆帝の判断力の欠如を、東漢末の宦官政治や南宋の汪伯彦・黄潜善の故事になぞらえて批判する。
  • 「進退を先んじることも遠ざかることもできぬ者は天下の大戮(大恥)である」との孟子の言葉を引き、永曆帝の懦弱さを痛惜しつつ、賀全業の直言や任国璽の憂憤に一縷の節義を見出して結ぶ。