續明紀事本末四川の混乱(四川之亂)

崇禎十七年(1644年)から康熙三年(1664年)まで20年にわたる四川の戦乱を描く。張献忠の屠殺、曾英・楊展・王応熊らの防戦、朱容藩の反乱、李国英ら清軍の侵攻が交錯し、四川は飢饉・疫病で「人肉食」が横行するほど荒廃した。楊展・王祥ら明の将は次々に非業の死を遂げ、劉文秀の一時的な反攻を経て、康熙三年に李来亨の自焚死をもって四川は完全に清に平定された。

年表(7件)

崇禎十七年(1644年)夏四月~秋

  • 参将曾英が忠州で張献忠の賊軍を水戦で撃破、以後忠州に屯した。莫大な軍資を得て精兵を募った。
  • 五月、宏光帝が趙光遠を四川鎮守に任じたが、賊の攻勢に趙栄貴らは各地で敗退した。曾英も江口で敗れたが辛くも脱した。
  • 六月、趙光遠は既に賊に降っており、龍文光がわずかな兵で守りを続けた。
  • 秋七月、賊将朱朝臣の保寧侵攻を郭献珂・張成が撃退。
  • 八月、楊鶚が川・湖等処軍務総督に任命される。王応熊が督師兵部尚書として川・広・雲・貴総督となり、便宜行事の権を得た。
  • 冬、王応熊が蜀の軍政を担うが、張献忠が成都で僭号し屠殺を繰り返し、姚天動・黄龍長ら土賊も跋扈。のち十三家営(袁韜以下)に分裂し各地を荒らした。朝廷の兵力は及ばず、遵義のみが無事だった。朱化龍が龍鸛山で賊を大破するなど各地で局地的な勝利もあった。
  • 十二月、楊鶚を召還し何騰蛟を川・陝・雲・貴総督とした。

宏光元年(1645年)春~夏

  • 賀珍が広元で敗退。劉道貞・朱化龍も小山関で大敗。
  • 二月、賀珍の漢中攻めは馬科に阻まれた。曾英は遂寧で塩を得て軍を養った。
  • 三月、王応熊が防衛態勢の再編を上奏し許可された。曾英の軍紀の悪さから重用されず。楊展が嘉定を奪還し、樊一蘅らと共に敘州を攻略。賊将馮双礼の反攻を退け、孫可望の大軍とも対峙。各地で四川の民が賊の官吏を殺害するなど抵抗が広がった。
  • 五月、王応熊が楊展を遵義に入れ永寧を回復。
  • 秋七月、楊展が納渓で賊を大破、姚黄賊も孟喬芳に破られ袁韜は川南へ逃れた。
  • 八月、甘良臣・楊展らが蔡壩で敗れるも各地で抵抗を継続。孫可望が羅永寨を陥落させ降兵を悉く坑殺。
  • 九月、李巽徳が西充で隆武帝号を奉じるが厳自明に敗れる。
  • 冬、賀珍・孫守法が漢中攻めに失敗(詳「義旅」)。馬科の漢中攻めも賀珍に大敗。
  • 十一月、郝孟旅が雅州で明に復すが花溪で敗死。
  • 十二月、賊が敘州を再攻略。楊展は伏兵策で防ぎ守勢を固めた。曾英が順慶降将殷承祚を招くが賊に捕らわれ耳目手を殺がれる惨事も。

順治三年(隆武二年、1646年。永曆帝が即位)春~

  • 正月、樊一蘅が福州へ朝貢の使者を送り、王応熊は隆武帝の璽書を得て便宜行事権を得た。犍為を回復。
  • 三月、楊展・馬応試らが川南を平定。曾英・王祥が成都攻略を計画。
  • 秋七月、賊が成都から撤退するも賈聯登を中江で破り順慶を陥落、死者五十万と伝わる。
  • 隆武帝は蜀の惨状の報告を聞き涙した。
  • 王応熊・樊一蘅らが成都を回復するが荒廃甚だしく、曹勲・楊展のみが留守した。楊展は屯田・撫民に努め民心を得た。
  • 豪格・呉三桂が漢中に入り賀珍が敗走。
  • 冬十二月、豪格軍が順慶に入り賊将劉進忠が降伏、孫可望らは南に敗走し重慶へ向かう最中に曾英が戦死(詳「李孫之兵」)。四川各地は清軍・賊軍・土豪が入り乱れる混乱状態となった。

順治四年(永曆元年、1647年)

  • 春正月、朱容藩が偽って川東督師を得て野心を抱き、永曆帝の不興を買うも太監への賄賂で赦された。
  • 孟喬芳が茂州を包囲し人肉食の惨状に至るが、朱化龍は最終的に降伏。
  • 孫可望が重慶を破壊して遵義へ逃走。呉三桂の重慶攻めで巡撫馬乾が戦死、重慶は再び陥落。
  • 三月、賀珍・李習達が夔州で明宗室徳陽王を擁立しようとした。呉三桂が遵義を陥落させ王祥を包囲するも祥は善戦し陥落を免れた。
  • 夏五月、李赤心が四川に入り建始県を陥落。
  • 秋七月、朱容藩が「楚世子」を自称し王光興らを誤って擁立、于大海・李占春を巻き込む。清軍の万県攻めを大海・占春が奇襲で撃退。
  • 八月、王祥が呉三桂を大破し永寧を回復、遵義も回復して人心を得た。
  • 冬、朱容藩が謀反を起こし忠州を大定府と称して官職を私に授けるなど僭越を極めたが、堵允錫・楊喬然・銭邦芑らの討伐により逃亡し、山中で捕らえられ処刑された。
  • 十二月、楊展の軍が成都を回復。趙栄貴が保寧を回復し四川はほぼ全復、朝廷は喜び李乾德らを総制に任じた。

順治五年(永曆二年、1648年)

  • 春正月、樊一蘅・銭邦芑・詹天顔らが加増封爵された。
  • 朱容藩が自ら「楚王」「呉王」と称し反乱、忠州を占拠したが最終的に討伐され処刑された。
  • 二月~三月、李国英が保寧・順慶を相次いで陥落させた。
  • 三月、王応熊が病没、呂大器が代わって督師に任じられた。
  • 潼川・綿州・達州が相次いで清に降る。
  • 秋、四川各地の抵抗勢力が孤立を深め、王祥・皮熊の内紛も再燃した。
  • 八月、朱容藩の乱の余波で王光興ら諸土司に大封が行われ人心が乱れた。呂大器が現地に赴き諭旨、容藩は最終的に討伐され誅殺された。
  • 冬十月、堵允錫が李赤心の軍を湖南に招く(詳前)。
  • 皮熊・王祥の抗争が続く一方、四川各地は飢饉・疫病・盗賊・土暴子の跳梁に苦しみ、餓死・人肉食が横行する未曾有の惨状となった。人口稀少の敘州でも山中に逃れた民が「毛人」と化すほどであった。

順治六年(永曆三年、1649年)

  • 春正月、豪格軍が龍安を攻め趙栄貴が敗退。呂大器は諸将の質を憂い病没。
  • 夏四月、楊展が孫可望の秦王僭称を弾劾、保寧攻めは呉三桂に阻まれ失敗。
  • 秋八月、李乾德が楊展を謀殺(王祥との怨恨と袁韜・武大定の讒言による)。展の死後、四川の軍事は大いに衰えた。王祥も遵義で孫可望に圧され、貴州を掠奪するなど混乱を深めた。
  • 冬、永曆帝が王祥を忠国公に封じるが実力不足であった。

順治七年(永曆四年、1650年)以降

  • 清の李国英・張勇らが四川北部を攻略。楊展配下の遺臣が抵抗するも次第に劣勢に。
  • 秋九月、孫可望が遵義を攻め王祥は烏江で防戦するが、内部の裏切りにより敗走し自刎して果てた。樊一蘅も落胆のうちに病没。
  • 劉文秀・白文選が金沙江を渡って建昌・雅州方面を制圧、曹勲を捕らえた。
  • 順治八年(永曆五年、1651年)、文安之が督師として起用されるが孫可望に阻まれた(詳「李孫之兵」)。劉文秀が嘉定を攻略し袁韜・武大定を降す。李乾德は自死。文秀は成都・雅州・嘉定に守備を配し雲南へ帰った。
  • 順治九年(永曆六年、1652年)、呉三桂が成都を攻略、劉文秀が反攻して一時奪還するも王復臣が保寧包囲戦で戦死し失敗(詳細な戦況は原文参照)。
  • 順治十二年(永曆九年、1655年)、清の李国英が四川平定策を上奏、成都・重慶・夔門の順で攻略する方針が定まった。
  • 以後、順治十三年(永曆十年、1656年)から順治十八年(永曆十五年、1661年)にかけ、四川の各地の明の残存勢力(十三家営など)は次々と降伏または討滅され、康熙三年(1664年)、李国英らが茅麓山を攻め李来亨が自焚死し、四川は完全に平定された(十三家営の詳細は「遺亂」参照)。

総括

  • 著者は、曹操が漢中に苦しみ諸葛亮が八陣の跡を残したように、四川の要害は剣閣ではなく漢中にあり、両川のみならず忠州・涪州・雲陽・万県も含めて考えるべきだと説く。
  • 明末、西の長安が傾き成都で内乱が起きた際、要路の防備が機能せず、蚕叢(古蜀)の険しさも頼みにならなかったと指摘。
  • 王応熊・樊一蘅は地の利に応じて兵を治め、呂大器・文安之も才略に劣らなかったが、虎口に生を託し敗軍の中で命を受ける境遇にあった。将帥は跋扈し兵は土寇と化し、賊軍は臥榻の傍らに割拠する有様で、孫可望・劉文秀のような偽りの擁立者や漢中・保寧の敵軍にも挟撃される苦境にあったとする。
  • 加えて戦乱による荒廃が凄惨を極め、澤潞(比喩、四川各地)で十年も炊煙が絶え、一斗の米が黄金に匹敵する飢饉が続いたことを述べ、伏波将軍・諸葛亮のような英傑が現れても再興は困難であったろうと評する。
  • それでも楊展の屯田策や李国英の重慶・成都攻略の順序立てなど、時勢に応じた戦略があったことを評価しつつ、胡林翼(清末の名臣、比喩として引用)のような統治があれば違ったかもしれないと惜しむ。
  • 最後に、重慶が髑髏で埋まり、成都の木々が拱(両手で抱えるほど)に育つまで人跡が絶え、敘州の民が「毛人」と化すに至った惨状を「天が岷蜀を毒した」と痛嘆して結ぶ。