續明紀事本末貴州・雲南の混乱(黔滇之亂)

崇禎十七年(1644年)から康熙元年(1662年)まで、貴州・雲南(黔滇)の戦乱を描く。雲南では沙定洲が沐天波を襲い大乱となるが李定国により鎮圧され、貴州では孫可望が急速に勢力を伸ばし両省を制圧した。孫可望と李定国の内訌を経て清の三路軍が貴州・雲南に進撃、永曆帝はついに緬甸へと逃れ、雲南の明の残存勢力は消滅した。

年表(11件)

崇禎十七年(1644年)

  • 春、貴州で何兆仰が反乱を起こすが官軍が平定。
  • 秋、宏光帝が楊鶚を川・湖・雲・貴・広西軍務総督とした。
  • 冬十二月、雲南での募兵を命じた。

宏光元年(1645年)秋~冬

  • 八月、雲南土司呉必魁が反乱、楚雄を屠り武定・禄豊を掠奪。黔国公沐天波は龍在田・禄従命ら土司に討伐させ、必魁は大敗。この過程で鶴慶土司沙定洲の兵が力を得た。
  • 十一月、龍在田・禄従命が楚雄を回復し必魁を誅殺。しかし奸人余錫朋・饒希之が沐天波への借財返済を沙定洲の富に頼ろうとしたことが引き金となり、定洲は都司らと結んで雲南城内に伏兵した。
  • 十二月、定洲が天波を襲撃。天波は逃れたが母・妻は自焚死。定洲は沐氏邸を占拠し世鎮を求め、大学士王錫袞を拘束して自らの弁護の上奏を書かせた。定洲は妻万氏と結び沐氏の財宝を悉く奪い、雲南は大乱に陥った。

順治三年(隆武二年、1646年。永曆帝が広東で即位)春

  • 沐天波が楚雄から永昌へ逃れ、金滄副使楊畏知が留守して定洲軍を牽制。定洲は畏知を偽って和睦を装うが果たせず、各地を転戦して屠殺を重ねた。隆武帝は当初天波の反乱と誤認し官職を剥奪したが、後に誤解と知り復職させた。
  • 楊畏知は楚雄で堅守を続け、定洲軍の巨砲による攻撃にも動じず、機を見て反撃し損害を与えた。定洲は撤退し他地を掠奪したが、龍在田らの抵抗にも遭った。隆武帝は畏知を左副都御史・雲貴軍務総督に抜擢した。

順治四年(永曆元年、1647年)春~

  • 正月、孫可望が烏江を渡り貴州に侵入。総兵皮熊は都勻に敗走し、貴陽の防備は崩壊した。
  • 二月、可望が貴陽を陥落させ、貴陽及び諸邑を屠り、鎮寧・南安・普安・定番・永寧を次々に陥落させた。可望は雲南進攻を企て、沙定洲の乱に乗じて急行した。
  • 三月、皮熊が平越・貴陽方面を回復。苗賊藍工の乱も鎮圧された。
  • 可望は雲南に入り、龍在田が救援を求めていたことから沙定洲を各地で撃破。李定国が臨安を陥落させ死者七万八千に及んだと伝わる。可望は雲南城に入り、定洲一派の呉起元らを処刑、沐天波を降し人質とした。定洲は佴革竜に拠って抵抗を続けた。
  • 秋八月、劉承允配下の陳友龍が黎平を陥落させ何騰蛟の家族を拉致。

順治四年(永曆元年)九月~冬

  • 王祥が貴州へ侵攻するが皮熊が撃退、両者の対立は永曆帝の調停により烏江での盟約に至った。孔有德も黎平から撤退した。

順治五年(永曆二年、1648年)

  • 正月、朱宿垣が雲南土司に勤王を諭す使者として派遣された。
  • 二月、線国安が思南・石阡を掠奪し平溪も陥落。崇陽王某と苗兵の黎平攻めは失敗。郝永忠が黎平方面へ潰走(詳「遺亂」)。
  • 夏、陳友龍が黎平を回復し鎮遠・清溪も奪還。
  • 秋七月、李定国が沙定洲を阿迷で包囲、三ヶ月の対峙の末に定洲は降伏し処刑された。沙氏一族数百人も皆殺された。
  • 冬、皮熊が再び王祥を攻めるが逆に敗れ、貴州の郡邑の多くが王祥の手に落ちた。郝永忠が陳友龍軍を黎平で急襲し虐殺、友龍は単騎で逃れた。

順治六年(永曆三年、1649年)

  • 春、呂大器が四川から思南に入るが諸将の統制に失敗し都勻で病没。
  • 夏、陳友龍が楚西で兵を再興するも郝永忠に磔にされる。
  • 孔有德が永寧に侵入し胡一青が敗走。
  • 孫可望が安隆に封を求める(詳「李孫之兵」)。
  • 五月、雲南の鉄索橋義兵蜂起を孫可望が鎮圧し迤東八府を再び屠戮した。
  • 王祥軍の貴州掠奪が続く一方、白文選が安順を攻略し荒廃を深めた。
  • 冬十月、皮熊が匡国公に封じられ王祥と共に雲南防備の任を受けた。同月、済爾哈朗が黎平を攻め郝永忠は敗走(詳「遺亂」)。

順治七年(永曆四年、1650年)秋

  • 孫可望が再び貴州に侵攻、貴陽・平越が陥落し巡撫郭承汾・皮熊らが捕らえられ、貴州は全て孫可望の手に落ちた。以後、張光璧・馬進忠・胡一青らも孫可望に附属し雲貴に分屯した。
  • 冬、高必正らが貴州に入るが孫可望に撃退された(詳「遺亂」)。

順治八年(永曆五年、1651年)以降

  • 文安之が都勻で孫可望に捕らえられる(詳「李孫之兵」)。
  • 順治九年(永曆六年、1652年)、李定国が黎平を回復し降将郝効忠を処刑、湖南へ進軍。この年、孫可望は貴州にいた宗室を悉く殺害した。
  • 順治十一年(永曆八年、1654年)、劉文秀が貴州で孫可望と結び湖広方面へ出兵。
  • 順治十二年(永曆九年、1655年)、劉文秀が湖南で敗れ貴州に戻り雲南守備に転じた。
  • 順治十三年(永曆十年、1656年)、永曆帝が李定国に奉じられ雲南に入り、孫可望は貴陽に拠った。
  • 順治十四年(永曆十一年、1657年)、孫可望が反乱し雲南を攻めるが李定国に大破される(詳「李孫之兵」)。可望は貴州を棄て清に降伏、雲南攻略を清に献策した。

順治十五年(永曆十二年、1658年)

  • 夏四月、叛将関有才・王自奇が永昌で再叛、李定国が騰越まで追撃し誅殺。
  • この頃、清の洛托・呉三桂・卓布泰の三路が貴州へ進軍。険しい地形と豪雨に苦しみながらも清軍は貴陽に至り、明軍は各地で潰走した。呉三桂は水西の土司を次々に降した。
  • 秋七月、永曆帝が李定国を大元帥に任じ貴州救援を命じたが、要害の確保が遅れ苦戦。
  • 十月、清の鐸尼が貴陽に至り呉三桂と会し三路合撃の計を定めた。
  • 十一月、白文選が天生橋で敗れ、李定国も炎遮河で清軍に大敗し貴州は完全に失われた。清軍は雲南に迫り、李定国は永曆帝に雲南撤退を勧めた。永曆帝は年末に雲南の都を放棄して逃れた(詳「永曆奔亡」)。

順治十六年(永曆十三年、1659年)以降

  • 清軍が雲南全土を制圧、李定国・白文選も各地で敗退を重ね、永曆帝はついに緬甸へ逃れた(詳「永曆奔亡」)。
  • 順治十八年(永曆十五年、1661年)、清軍が滇の辺境の土司を次々降し、康熙元年(1662年)、呉三桂が永曆帝を緬甸から連れ戻し弑逆、六月に李定国も景線で病没し、雲南の明の残存勢力は完全に消滅した。

総括

  • 著者は貴州の険しさと悪路を「貴州には天理なく十里が五里に感じられる」という諺と、諸葛亮「五月に瀘水を渡り不毛の地に深く入る」の故事を引き、梁州(雲貴)が峭壁と豪雨の「天獄」であったと評する。
  • 貴陽を通り雲南へ、洱海(雲南)へと戦禍が波及し、多くの命が失われたことを嘆きつつ、呉起元・范礦のような臣が節を守らず賊に迎合したことを「廉恥地に落ちた」と厳しく批判する。
  • 李定国・孫可望の内訌が交水(雲南)で決裂に至った経緯を惜しみ、洪承疇・孫可望の降伏の罪は許されないとする。
  • 永曆政権が両省(雲貴)を跨ぎ十万を超える兵を有しながら、将帥は九公(無能な輩)に等しく、諸葛亮の「講武治戎」や費褘の「保民治国」の教えを失い自滅したと総括する。
  • 楊老堡での会戦の機、雞公背の潰走、天生橋の奇策など、天の時・地の利よりも人の謀の欠如が敗因であったとし、滇都放棄・緬甸行きの決断の軽率さを痛惜する。
  • 最後に、昆明再訪の望みも絶え、麦秀の詩(亡国の悲哀)を詠むほかなかった顛末を「天南の応え報われず」と結び、痛哭して筆を置く。