續明紀事本末広東・広西の混乱(兩廣之亂)
崇禎十七年(1644年)から順治十七年(1660年)まで16年余り、永曆政権の本拠地であった両広(広東・広西)の興亡を描く。丁魁楚・瞿式耜・焦璉らが広西を守る一方、靖江王朱亨嘉の自立、紹武帝との内訌、陳邦傅・劉承允らの専横が相次いだ。李成棟・孔有德の攻勢と焦璉・瞿式耜の防戦が繰り返され、順治七年(1650年)広州・桂林が相次いで陥落し瞿式耜・張同敞が殉節。李定国の一時回復もむなしく、両広は完全に清の手に落ちた。
年表(10件)
- 崇禎十七年(1644年)秋八月~冬丁魁楚が両広総督となるが貪欲無能で後の喪失の因となる
- 崇禎十七年(1644年)十一月~十二月楊鶚を召還し何騰蛟を総督、瞿式耜を広西巡撫に任命
- 宏光元年(1645年)春~秋靖江王朱亨嘉が自立し監国を称するが敗れ捕らえられる
- 順治三年(隆武二年、1646年。永曆帝がこの年広東で即位)春三月亨嘉一派が処刑され瞿式耜が召により肇慶へ赴く
- 順治三年(隆武二年)夏~冬永曆帝が監国となるが広州で紹武帝も擁立され両政権が争う
- 順治四年(永曆元年、1647年)春正月~李成棟が両広を席巻するも焦璉・瞿式耜が桂林を死守
- 順治五年(永曆二年、1648年)春~郝永忠が桂林で永曆帝を劫掠するが孔有德軍は撃退される
- 順治六年(永曆三年、1649年)李成棟・何騰蛟が相次ぎ死し兵力分散で朝廷統制が弱まる
- 順治七年(永曆四年、1650年)広州陥落・屠城、孔有德が桂林も陥し瞿式耜・張同敞が殉節
- 順治八年(永曆五年、1651年)以降李定国が一時回復するも再陥落を重ね両広は清に帰す
崇禎十七年(1644年)秋八月~冬
- 宏光帝が楊鶚を川・湖・雲・貴・広西軍務総督とし、丁魁楚を両広総督に任じたが、魁楚は貪欲無能で後の広東・広西喪失の因となった。広西総兵劉承允が右都督に加えられた。
崇禎十七年(1644年)十一月~十二月
- 楊鶚を召還し何騰蛟を川・広・雲・貴軍務総督、瞿式耜を広西巡撫とした。
宏光元年(1645年)春~秋
- 土賊が全州を陥落させ、靖江王朱亨嘉がこれを朝廷に報告。黄斌卿が広西鎮守の総兵に任じられたが赴任しなかった。
- 秋八月、亨嘉が反乱。楊国威・顧奕らを腹心とし広西四十五洞の狼兵を動員した。亨嘉は朱文正の子孫で靖江王を襲封していたが、宏光帝が捕えられたと聞き自立を図り監国を称した。隆武帝の詔にも従わず東進を企てたため、巡撫瞿式耜が梧州から書を送って諫め、陳邦傅らに亨嘉に応じぬよう命じた。亨嘉は梧州で式耜を拘束し印璽を奪おうとしたが式耜は屈せず、ついに桂林に幽閉された。式耜は絶食したが、部下の子が密かに粥を差し入れて命を保った。隆武帝は丁魁楚に亨嘉討伐を命じ、亨嘉は式耜を連れて逃亡したが陳邦傅の軍に敗れ、最終的に部将焦璉の内応により式耜が奪還され、亨嘉は捕らえられて福州に送られた。
順治三年(隆武二年、1646年。永曆帝がこの年広東で即位)春三月
- 亨嘉は誅を免れ庶人に落とされ、楊国威・顧奕らは処刑された。式耜は兵部侍郎に抜擢されたが辞退し、のち隆武帝の召により肇慶に赴いた。
順治三年(隆武二年)夏~冬
- 丁魁楚が贛州救援の兵を派遣し(詳「江西之亂」)、広西土司儂国琦の乱を晏日曙が平定、寛大な処置をとった。
- 冬十月丙戌、両広で兵が及ばず、丁魁楚・瞿式耜らが永曆帝を肇慶で監国に立てた。
- 十一月、蘇観生が広州で紹武帝(唐王聿■〈金粵〉)を擁立。肇慶で永曆帝が既に立ったことに不満の丁魁楚に反発し、観生は「兄終弟及」を掲げて紹武帝を即位させた。永曆帝が使者を送り筋道を説いたが観生は使者を殺害。両者は互いに冊印を送り合うも和せず、双方が武力衝突に至った。永曆帝方の林佳鼎が緒戦で勝つが、十二月には紹武帝方の林察の偽降策により大敗した。
- 紹武帝方の観生は才略に乏しく、日々郊祀や学校の議論に耽り、部下の腐敗・海賊招撫の失策が続いた。降将李成棟が密かに広州を襲撃し、観生は自殺、紹武帝も捕らわれて自ら食を絶ち三日で死んだ。梁鍙が観生の死を偽って降伏。
順治四年(永曆元年、1647年)春正月~
- 李成棟が肇慶を陥れ丁魁楚・陳邦傅らを降し、丁魁楚は殺された。李成棟軍は西進し梧州・平楽・潯州を次々陥落させ、行在は大いに動揺した。
- 二月、永曆帝は桂林も棄てて全州へ逃げようとしたが、瞿式耜が強く諫めて桂林留守を願い出て許され、文淵閣大学士兼兵部尚書に任じられ焦璉軍を配された。永曆帝は劉承允に頼るが、承允は横暴で害を成した。
- 三月、李成棟が桂林に迫るが、焦璉がわずか三百騎で数万の敵軍を撃破し桂林を守り抜いた(激戦の詳細は原文に詳しい)。李成棟は敗走。
- 夏、劉承允の専横が続き何騰蛟排斥を図るなど内紛が絶えなかった。
- 五月、李成棟軍が瓊州を陥落させる一方、孔有德が桂林を攻めるも焦璉・瞿式耜の防戦により大敗し撤退した。式耜は少師兼太子太師・臨桂伯に進んだ。
- 秋、張家玉らが広東各地を回復するも、八月に李成棟が清遠を陥れ大学士陳子壮が戦死(詳「義旅」)。
- 冬、郝永忠が桂林に走り何騰蛟・瞿式耜がこれを撫した。柳州が土司覃鳴珂の乱で陥落。李成棟は張家玉を増城で敗死させた。何騰蛟は湖南の危急により黄沙鎮に退き桂林を守った。
- 十一月、孔有德・尚可喜・耿仲明が全州を攻めるが、何騰蛟・焦璉・郝永忠が血戦三昼夜の末に大破し、広西はようやく守りを固めた。一方、陳邦傅は潯州で李成棟の軍に驚き潰走、投降を乞うた。
- 十二月、何騰蛟の湖南進攻は諸将の観望で不発に終わり、郝永忠が水西四十八堡を屠るなど内紛が続いた。月末、郝永忠が突如南走し諸鎮が混乱、騰蛟は制御できなくなった。
順治五年(永曆二年、1648年)春~
- 正月、土司を招撫し何騰蛟・焦璉に進攻を命じるが、郝永忠が桂林に乱入し永曆帝を劫掠する事態となった(詳「奔亡」「遺亂」)。瞿式耜も裸のまま拘束されたが、何騰蛟の令を騙って脱出した。
- 孔有德が再度広西を攻め、桂林は大混乱に陥る。焦璉は式耜に籠城策を進言したが用いられず、全州も陥落。孔有德は興安の文武・宗室数百人を殺害した。
- 三月、瞿式耜・何騰蛟が桂林で防戦、焦璉・胡一青らが奮戦して孔有德軍を大破、潰走させた(激戦の様子は原文に詳しい)。永曆帝はこの捷報を喜び、瞿式耜に璽書・図書を、夫人邵氏にも銀幣を賜った。
- 魯可藻が梧州を回復。陳邦傅・その子禹玉は南寧の私鎮化を図り、瞿式耜らが争った。
- 夏四月、何騰蛟・瞿式耜が再度榕江・興安方面で孔有德軍と激戦し勝利を重ねた。
- 一方、広東の李成棟は佟養甲の統制下に置かれたことを恨み、清への不満を強め、密かに明への復帰を画策。閏四月、成棟は反正し広東は全て明に復した。永曆帝は成棟を恵国公に封じ諸将にも爵位を与えた。陳邦傅はこれに嫉妬し功を誇張、瞿式耜は永曆帝の広東行幸が成棟に制されることを憂慮して疏を上げた。
- 五月、孔有德が全州で大敗を喫し、全州・灌陽が回復された。
- 秋八月、李成棟は大将軍として江西援兵を命じられたが、贛州で降将に誑され功を挙げられなかった。広州では成棟軍の乱暴狼藉が絶えなかった。
- 冬十月、李成棟が再び贛州救援に赴くも兵は戦わず潰走(詳「江西之兵」)。
- この頃、広東十府は李成棟、南寧・潯州は陳邦傅、桂林・平楽は瞿式耜、柳州・慶遠は焦璉がそれぞれ分割統治し、朝廷は軍政に関与できない有様であった。
順治六年(永曆三年、1649年)
- 春正月、李成棟が信豊で敗死。何騰蛟・金聲桓も相次いで死に人心は動揺した。給事中金堡が各地の兵力配置の急務を上疏したが用いられなかった。
- 二月、成棟軍は杜永和が引き継ぎ広東総督となった。堵允錫は富川へ逃れ、瞿式耜の使者の抗議により免れた。
- 夏五月、張同敞(張居正の曾孫)が兵部侍郎総督軍務に任じられ、勇猛な指揮で軍の信頼を得た。趙印選は胡一青に合流し瞿式耜のもとへ走った。印選軍の乱暴を焦璉の部下が咎め殺傷事件も起きた。
- 六月、堵允錫が梧州で督師大学士となり忠貞営(李赤心ら)以下諸軍を統括したが、湖南・両広の西境には号令が及ばなかった。
- 秋、楊大福が李赤心の来襲に驚き四会・懐集を掠奪、後に処刑された。杜永和の江西援軍も敗退。
- 八月、瞿式耜が全州・海洋埠へ出兵させるが、焦璉配下の勇将劉起蛟が伏兵にかかり戦死するなど戦力が弱まった。
- 冬十月、劉遠生を兵部尚書兼戎政総理に、金堡を羽林軍監に任じ親征を計画するも取りやめとなった。
- 尚可喜が江西から広東を窺い、南雄が危機に陥るが羅成耀は進軍せず中寨に留まった。
- 堵允錫が病没。忠貞営は広東から黔・川方面へ移動した(詳「遺亂」)。
- 冬十一月、王永祚らが永州で敗れるが、張同敞の急派により孔有德は撤退。
- 十二月、郝尚久が潮州で尚可喜に降伏し庾関へ進んだ。李建捷が肇慶へ戻り安粛伯に封じられた。
順治七年(永曆四年、1650年)
- 春正月、尚可喜が南雄を陥落させ、羅成耀は敗走中に掠奪を働いたため処刑された。総兵呉六奇は韶州で降伏し、可喜軍は潮州にまで及んだ。
- 潮州の流賊出身の総兵張達・蘇利らは寝返りを繰り返し、住民に対する暴虐が絶えなかった。李元允が肇慶を死守すべしと訴え永曆帝から都督を任された。
- 二月、尚可喜が広州を包囲。総兵吳文獻・張月・李建捷らが防戦し、龍眼洞の民との衝突も起きた。降人李士璉の手引きで惠州が陥落し、趙王ら宗室が殺害された。
- 曹志建配下の乱暴を焦璉が咎め軍紀の混乱が拡大。瞿式耜が兵屯田を提案するも実現せず、財政難が続いた。
- 夏五月、李元允が広州防衛に入り、水陸の攻防が続いたが、清遠・三水の失陥が相次ぎ広州は孤立を深めた。
- 秋、瞿式耜が大学士厳起恒に危機を訴える書を送り、両者とも涙した。
- 九月、孔有德が灌陽を陥れ、焦璉が救援に赴くが馬進忠の軍が敗れ全州も再び陥落した。
- 十月、蘇利が惠来を陥落、鄭成功が南澳に入った。
- 十一月、清軍が広州を包囲し続け、水師総兵梁清標の寝返りにより守りが崩れ、ついに広州は陥落・屠城となった。同月、孔有德も桂林を陥落させ、瞿式耜・張同敞は殉節した(詳「殉節」)。
- 十二月、両広の省治がすべて失われた。焦璉は平楽で恢復を図るが果たせなかった。
順治八年(永曆五年、1651年)以降
- 孔有德軍が梧州・柳州・象州など次々に陥落させ、陳邦傅・禹玉父子は降伏の代償に焦璉を誘殺して潯州を明け渡した。
- 順治九年(永曆六年、1652年)秋、李定国が全州・桂林を奇襲で回復、孔有德を自焼死に追い込んだ(詳細な戦況は原文参照)。定国は西寧王、馮双礼は興国侯に封じられ、広西は一時全復した。
- しかし線国安・全節・馬雄らの反攻により、梧州・潯州・平楽・桂林が次々と再陥落した。
- 順治十年(永曆七年、1653年)以降、李定国は広東方面で肇慶攻めを続けるが尚可喜の防戦に阻まれ、再三の攻防の末に敗退。潮州でも郝尚久が明に復したが包囲の末に敗死した。
- 順治十一年(永曆八年、1654年)、李定国は新会包囲戦で大敗(象兵の潰走、多数の将兵を喪失)。
- 順治十二年(永曆九年、1655年)以降、清軍の反攻が続き、広東・広西の諸府州県が次々陥落。
- 順治十五年(永曆十二年、1658年)以降、清の卓布泰軍が広西各地を席巻し、南寧などが陥落。
- 順治十七年(永曆十四年、1660年)、王興が文村で節を守り死し、周金湯が捕らえられ、鄧耀は交趾へ逃れて両広は完全に清の手に落ちた。
総括
- 著者は、尉陀(南越王)の自立や碙山(南宋末)の逃避行を引きつつ、永曆政権が両広を拠点とした点を南漢政権になぞらえ評する。永曆即位当初は名分も土地も十分にあったが、靖江・紹武の内訌、丁魁楚・李成棟らの相次ぐ変節により機運を損なった。
- 広州・肇慶という要地を確保しながら馬吉翔・杜永和らが救援を怠り、于元煜・趙印選・焦璉ら将帥の不和が国力を消耗させたことを厳しく批判する。
- もし東方の軍が統率され平楽が救援に間に合っていれば南天の半壁を保てた可能性を惜しみ、武岡・新会での度重なる危機、桂林・横江での大敗を経て、内訌が国運を決定的に傾けたと総括する。
- 陳邦傅・劉承允のような悪逆な者が非業の死を遂げた一方、李元允・李建捷のような忠義の者もあったことを対比し、峒寨・山海の群雄が興亡した様を「千古の跡」として結ぶ。桂海(広西)・滇雲(雲南)が相次いで陥落し、宜中(南宋の陳宜中)のように海外に隠れ、九江(永曆帝を指す)が朝堂で捕らえられた顛末を、天災にも似た必然として嘆いている。