續明紀事本末荊州・湖南の混乱(荊湘之亂(陝西附))
左良玉の反乱で武昌が空白化し湖北・湖南が動乱に陥る中、何騰蛟・堵允錫らが十三家営を糾合して抵抗を続け、湘潭で何騰蛟が殉節した後も李定国の反攻を経て、順治十五年(1658)の湖南陥落までを描く。崇禎十七年(1644)から順治十五年(1658)まで、湖広と陝西の戦況を併せ記す。
年表(9件)
- 崇禎十七年(1644年)左良玉が武昌に藩を開き楚全域を統制、王光恩が鄖陽を守り抜いた
- 宏光元年(1645年)左良玉が武昌を焼いて東進し反乱、阿済格が武昌を占拠し湖北の大半を制圧した
- 順治三年(隆武二年、1646年)何騰蛟が岳州で尚可喜軍を破るも内部対立、孔有德が長沙を陥し湖南省治が失われた
- 順治四年(永暦元年、1647年)孔有德が衡州・武岡を陥し何騰蛟は広西へ逃れ、堵允錫が忠貞営で衡州を回復した
- 順治五年(永暦二年、1648年)何騰蛟は湘潭で徐勇に捕らえられ節に殉じ、瞿式耜が後任の総督となった
- 順治六年(永暦三年、1649年)孔有德が湖南に再侵入し衡山・衡州を陥落、瞿式耜・焦璉が反撃するも及ばず
- 順治七年(永暦四年、1650年)孔有德が桂陽等を陥し、湖南の明勢力はさらに縮小した
- 順治八年(永暦四年・五年、1651年)~順治十年(永暦七年、1653年)孫可望が李定国を派遣し湖南反攻の頂点を迎えるが、清軍の反撃で大半が失われた
- 順治十一年(永暦八年、1654年)~順治十五年(永暦十二年、1658年)孫可望が降伏し武岡州も陥落、洪承疇の招降で湖南はほぼ陥落した
崇禎十七年(1644年)
- 春正月、総兵左良玉が監利・石首・公安・随州・棗陽・均州・房県・恵安を回復。三月、良玉は武昌の世鎮を命ぜられ、李自成・張献忠の隙に乗じ承天・徳安も回復。
- 夏五月、宏光帝は張応元を承天総兵とし、湖北巡撫何騰蛟が兵糧の窮状を上疏。
- 秋七月、良玉が襄陽諸邑を回復。八月、良玉は武昌に藩を開き楚全域を統制するが、部将らは蘄州・黄州を掠奪。
- 同月、副総兵孫守法・鄖陽総兵王光恩が李自成軍を興安州で破り平利・白河・上津を回復、光恩はさらに賊将路応標らを破る。
- 楊鶚を総督(実は無力)、丁魁楚を承天等巡撫に。李向中は荊襄防衛の重要性と何騰蛟の留任を説く。
- 九月、牟文綬・王允成が荊州・岳州の守備に。荊州は賊に陥落し文綬が奪回を図る。
- 十一月、良玉が華容・石首で賊を破る。何騰蛟が総督川湖雲貴広西軍務、高斗樞が湖北巡撫となる。
宏光元年(1645年)
- 春二月、賊が鄖陽を大攻するが王光恩が奇襲と伏兵で撃退、鄖陽は孤立無援ながら守り抜く。孫守法は終南山に入り豪格軍に対応。
- 李自成は陝西を放棄し湖北へ、承天が陥落(馬進忠逃走)。阿済格・呉三桂が追撃し、鄖陽も徐啓元・王光恩の降伏誘導により陥落。
- 三月、李自成が潜江を陥し、左良玉に危機迫る。戊申、左良玉は反乱し武昌を焼いて東進(何騰蛟を人質にとるが騰蛟は入水し漁舟に救われる)。武昌は空白となり賊が占拠。
- 夏四月、阿済格が鄖陽から承天・徳安・鄧州の賊を掃討。五月、何騰蛟が湖南から湖北奪回を図り、賊は武昌を放棄し通城で死す。
- 閏五月、阿済格が武昌を占拠し湖北の大半を制圧。
- 秋、馬進忠ら左良玉旧部の四将が湖南に流入、傅上瑞・章纊の招撫策で進忠は帰順。李錦も湖南へ侵入し岳州・常徳・澧州を荒らす。
- 九月、劉体純ら賊将多数が何騰蛟に降伏(十三家営の形成)。隆武帝は騰蛟を総督に任じ諸鎮を統率させるが、諸将の索餉・略奪は絶えず、岳州は防備放棄され荒廃。
- 冬十月、何騰蛟の北伐は堵允錫らとの連携不足で苦戦。十二月、孫守法が西安を包囲するが(翌年正月に解囲)。
順治三年(隆武二年、1646年)
- 春正月、何騰蛟が岳州を攻め尚可喜軍を大破するが、内部対立(張光璧・王允成の不和)で戦線が崩れる。堵允錫は常徳を攻略、荊州を包囲するも陥とせず。
- 二月、隆武帝は孫守法・武大定を伯爵に封じる。堵允錫が湖南巡撫となる。三月、傅冠の督師は機能せず罷免。
- 夏四月、劉体純らが襄陽・樊城を掠め、鄧州を囲む。五月、章纊が湖南巡撫となり実戦能力を発揮、覃遇春が新牆で大勝(南北用兵の緒戦)。楊么の投降を装った鎮圧など章纊の采配で戦線は一年持続する。
- 秋七月、何騰蛟は張光璧・郝永忠を隆武帝の福建救援に派遣するが両将は消極的(郝永忠は桂陽州を屠掠)。
- 八月、孔有德・耿仲明らが湖南に侵入するが黄朝宣が燕子窩で大勝、しかし軍紀の乱れは深刻。
- 冬十月、何騰蛟・堵允錫が永暦帝に勧進の疏を送る。
順治四年(永暦元年、1647年)
- 春、孫守法が退却を重ねる。孔有德の岳州侵攻に対する章纊の防戦も苦戦。
- 二月、章纊が湖南の指揮系統を再編するが、王進才らの内訌で騰蛟が負傷。有德が長沙を攻め、長沙知県の降伏により湖南省治が陥落。
- 三月、孫守法が寧州を回復。夏四月、孫守法が興安で敗死、賀珍は竹渓で敗れる。
- 有德が衡州を陥し、黄朝宣父子が車裂きにされる。何騰蛟は永州へ脱出、章纊が追いつき叱責するが陣容立て直しならず。
- 王光泰(王光恩の弟)が鄖陽で明に呼応し降臣らを討つ。
- 五月、章纊は衡州を攻めるが劉承允の妨害で協力得られず、有德が常徳・龍陽を陥し諸将は各地へ潰走。
- 六月、何騰蛟の攻勢は劉承允の伏兵事件(趙印選・胡一青の軍を殺害)で頓挫。堵允錫が大学士に加封され長沙の空城を守る名目に留まる。
- 秋七月、章纊は永明で憤死。八月、有德・可喜・仲明が寶慶・祁陽を陥し宗室数十人を殺害、武岡へ迫る。劉承允は陳友龍軍もろとも降伏し追撃を招く。
- 冬十月、耿仲明が永州を攻め、堵允錫らが敗走、武岡・寶慶・常徳・沅州・靖州・郴州・桂陽が相次いで陥落し何騰蛟は広西へ逃れる。
- 十二月、何騰蛟が湖南奪還の大挙を発令、堵允錫も忠貞営を率いて衡州を回復するなど反攻の兆し。
順治五年(永暦二年、1648年)
- 春、張光璧が沅州で敗れる。夏四月、賀珍が湖北で敗れ四川へ。陳友龍が辰州で降将を討ち再び明に帰属、武岡を回復。
- 六月、堵允錫が常徳・宜昌など諸郡を回復し忠貞営も荊門で戦果を挙げる。
- 金礪軍が湖南に迫るが馬進忠が麻河で大勝、多数の降臣・士卒を討つ。
- 八月、李成棟が郴州の田起鳳を招降。九月、何騰蛟が永州を包囲、胡一青の伏兵で孔有德の援軍を撃退、堅い籠城戦の末、
- 冬十二月朔、永州を回復。以降、衡州・東安・永明・江華・道州・寧遠を次々に回復し、寶慪・衡州の捷報が同日に届くなど反攻は成功する。
- しかし馬進忠と堵允錫の対立で常徳が焼き払われるなど内部の不和は続く。
順治六年(永暦三年、1649年)
- 春正月、何騰蛟は湘潭で徐勇に捕らえられ節に殉じる。馬蛟麟が常徳を再陥。
- 二月、孔有德らが湖南に再侵入。三月、李赤心が衡州・永州・郴州を掠める。
- 堵允錫が衡州守備を試みるが、済爾哈朗の追撃で堵正明が戦死するなど苦戦続く。
- 瞿式耜が何騰蛟の後任として総督諸軍に任ぜられる。
- 夏四月、孔有德が衡山・衡州を陥落させる。堵允錫は各地を転戦するが曹志建との内紛で大敗し捕らえられかけるが脱出(広西へ)。
- 秋七月、焦璉・趙印選が永州を攻め、済爾哈朗の軍が寶慶・馬進忠らを退ける。
- 冬十月、馬蛟麟が道州で曹志建を破るが、馬進忠は武岡・寶慶・靖州を回復するなど一進一退。
- 十一月、瞿式耜・焦璉が湖南三路へ進むが、孔有德の反撃で長寧諸邑が陥落。
順治七年(永暦四年、1650年)
- 春、線国安・孔有德が新田・新寧・武岡を攻略、馬進忠は敗走。
- 三月、張同敞が永州を包囲するが克たず。孔有德が龍虎関・郴州を攻め曹志建は広西へ敗走。
- 夏六月、孔有德が桂陽を陥す。秋八月、牛萬才・線国安が降伏。九月、永明諸県が陥落し湖南の明勢力はさらに縮小。
順治八年(永暦四年・五年、1651年)~順治十年(永暦七年、1653年)
- 湖南は沅州以西の数県、靖州・郴州・桂陽等のみ残存。白頭・紅頭・梅獠の賊も跋扈し混乱が続く。
- 順治九年、孫可望が李定国・馮双礼を湖南へ派遣し寶慶・靖州・辰州を回復。李定国が衡州の戦いで清の大将尼堪を斬るなど大勝を収める(湖南反攻の頂点)。
- 順治十年、屯斉らの反撃で寶慶等が再陥、湖南は大半が清の手に帰す。
順治十一年(永暦八年、1654年)~順治十五年(永暦十二年、1658年)
- 劉文秀・李定国らが辰州・常徳方面で攻防を繰り返すが決定打を欠く。順治十四年、孫可望が降伏し武岡州も陥落、李定国は沅州・靖州の守りに専念。
- 順治十五年、洪承疇が沅州・靖州を招降し湖南はほぼ陥落。湖北の一部(十三家営の拠点)のみ抵抗が続く。
史論(地の文)
- 武昌・漢陽は中原の要衝、偏沅・膏■は黔滇の屏藩であった。左良玉の離反で全楚は瓦解し洞庭以北は廃墟と化し、李赤心らの侵入で施州・宜昌も賊窟と化した。何騰蛟・堵允錫は残兵を集め群盗を帰順させ軍府を立てたが、これは実質的に寇を忘れたに等しい。
- 唐末の温韜、後漢の銅馬の故事のように瑕を匿い用いることは史上例があるが、指揮は一貫し金石の心を持たねばならない。歸・巫から河洛を窺い、袁・瑞から江皖を目指し、汀・韶から澎台に接する三方面作戦こそ恢復の道であったが、実現しなかった。
- 十三家営の乱立、寧南(左良玉)の乱に続く忠貞営の専横など統制を欠き、贛州の危機を救えず、湯陰(隆武帝の福建)も回復できなかった。堵と何の不和、賊と兵の相剋により、新興政権の臣は和して奮うべきであり弱に流れてはならず、軍は簡にして厳であるべきで、驕奢と烏合は避けねばならなかった。
- 章纊・張同敞・蕭曠・陳友龍のような心腹の臣、爪牙の士も少なくなかったが、軍紀を正し功罪を明らかにすることができず、逃亡将を罰せず民を虐げても誅されず、郝永忠・張光璧が耿仲明・賈似道級に扱われる一方で兵の実質は劣るという矛盾を抱えたまま、羽書が乱れ飛び師相(何騰蛟)が捕らえられるに至った。
- 李定国・劉文秀の再攻でも内訌が敗因となり輕進が援けを失う結果となった。郴・桂の流民、沅・靖の山間に隠れた者たちの苦難は四川に劣らぬものであり、その罪なき民の犠牲を思えば、ああ痛ましいことである。