續明紀事本末江西の混乱(江西之亂)

清の江西侵入に乗じた金声桓の南昌陥落から、黄道周・楊廷麟ら義兵の蜂起と贛州陥落、金声桓の明への反正とその崩壊、順治十五・十六年(1658-1659)の陳九思の最終抵抗までを描く、江西における攻防の全過程。宏光元年(1645)夏から順治十六年(1659)まで約14年間。

年表(9件)

宏光元年(1645年)夏六月 - 金声桓の江西侵入

  • 阿済格が九江に入り左夢庚が降伏、その部将金声桓が江西攻略を進言。降将王体忠(元流賊白旺の部下)を伴い出兵、江西巡撫曠昭は防備なく降伏を強いられ、王得仁の軍が南昌に迫ると官吏民は迎え入れ、南昌・臨江・瑞州・袁州・饒州・吉安が相次いで陥落。声桓は南昌で略奪を恣にし民心を失う。隆武帝即位の報に呼応の動きが広がる。

宏光元年秋七月 - 黄道周の江西出師と義兵蜂起

  • 隆武帝は黄道周を督師大学士として江西へ出師させるが、兵餉なく門人千人の「扁擔兵」で進軍。益王由本が建昌を回復するなど各地で義兵が蜂起(劉士楨・曾応亨・張述載ら)。楊廷麟は贛州で「忠誠社」を組織し義兵を糾合、江西義兵は大いに興る。しかし声桓側の反撃で建昌は再陥落。
  • 永寧王が撫州を回復するなど一進一退が続くが、声桓は王得仁ら諸将を用いて各地の義軍を撃破し、寧都・吉安を陥す。允茂は贛州で防衛を固める。声桓は王体忠を猜疑し誅殺、部隊は動揺するが得仁の軍功で持ちこたえる。

宏光元年八月~十二月 - 義軍と声桓軍の攻防

  • 万安の兵変、白之裔の叛降により袁州・吉安が陥落し曠昭が殺害される。広信では解立敬・周寅生が固守。蘇観生・林蘭友が江西支援に乗り出すが効果は限定的。
  • 楊廷麟・劉同升が万安・泰和・臨江を回復するなど義軍は盛り返すが、黄道周軍は各地で敗北を重ね(王嘉封・李瑛・倪彪の敗死)、隆武帝への援軍要請も方国安の浙軍のため実現せず。
  • 鄭綵の広信駐屯は消極的で、江西各地の土寇の掠奪も加わり大乱状態となる。
  • 冬十月、金声桓が吉安を攻め徐必達が戦死。楊廷麟が樟樹鎮で再敗。万元吉が贛州総制として着任し楊廷麟と固守にあたる。
  • 十二月、贛州巡撫劉同升が没し万元吉が兼務。黄道周軍は潰滅し張天禄に追撃される。金声桓が撫州を陥すが、張家玉が伏兵策で撫州を回復(江西戦功第一と称される)。

順治三年(隆武二年、1646年)

  • 春正月、江西巡撫劉広久・楊廷麟が土寇を招撫。隆武帝の贛州行幸が計画されるが実現せず。張安の軍紀の乱れに元吉は苦慮。
  • 声桓が寧州を陥し吉安を攻めるが撃退される。元吉と声桓は旧知の間柄で、元吉は密かに反正を勧めるが実らず。
  • 三月、督師傅冠は無能で進軍せず、揭重熙・傅鼎銓が代わって指揮。声桓が奉鄉・吉安を陥し、元吉は皂口・贛州へ後退。城中は動揺し元吉の妾を斬って士気を保つ。
  • 夏四月、鄭綵が博托の江西侵攻を機に広信・杉関を放棄。永寧王の撫州も声桓に囲まれ陥落。声桓は鉛山・貴溪・広信を次々に陥す。新城では張家玉・徐伯昌・李翱が力戦するが陥落(張家玉負傷)。
  • 贛州も進庫の攻撃で危機に陥り、劉遠生の反撃も失敗続き。楊廷麟は雩都で籠城。隆武帝は郭維経・姚奇允に募兵を命じ、揭重熙が湖東の師として活躍し銅鋪隘などで大捷。
  • 六月、広東からの援軍で贛州の囲みが一時解けるが再び包囲され「忠誠府」と嘉名を賜るほどの籠城が続く。
  • 秋八月、揭重熙が撫州を回復するが、贛州救援の水師(羅明受ら)が声桓の焼き討ちで壊滅、諸軍潰走。
  • 冬十月、内通者の手引きで贛州が陥落、万元吉は東関で死し、楊廷麟以下多数が殉節(殉節詳述)。声桓は贛州を屠り、南安府も陥落。

順治四年(永暦元年、1647年)

  • 春三月、詹兆恆が敗死、林質・郭応銓も敗死。楊廷麟の残軍は湖中に潜伏。
  • 声桓の暴虐は激化し、王得仁が樂平・餘乾・浮梁を屠掠、降臣李鳳翔・孫之獬・董学成の圧政も加わり江西は荒廃。劉武元が贛南諸邑を攻略。

順治五年(永暦二年、1648年)- 金声桓の反正

  • 春正月、金声桓が江西を挙げて明に帰順(永暦に降る)。声桓は功に対する処遇(総兵にとどめられる)に不満、王得仁も抑圧され、客の胡以寧・胡澹・陳大生・僧德宗らの勧めで反正を決意。
  • 章于天らの索賄・侮辱が引き金となり、声桓・得仁は董学成を斬り剃髪を解いて明に帰順、姜曰廣を軍主に迎える。永暦の号を用い、九江・南康・饒州を攻略し江西諸邑がほぼ明に帰す。
  • 二月、胡澹の「南京急襲」策を得仁は用いず、内部(声桓・得仁の東西府対立、新旧客の確執)も乱れる。高進庫の抵抗が続き、清軍(譚泰)の大規模な反撃が始まる。
  • 三月、清の譚泰が「囲魏救趙」策で直接九江を攻める方針を採り、大軍で江西へ侵入、各地で虐殺を伴う侵攻を行う。
  • 夏四月、九江・南康が陥落。五月、南昌が包囲され宋奎光・黄天雷らが固守するが、外部からの救援は届かず(何騰蛟の援軍も進めず)城内は飢餓に陥る。
  • 秋七月~冬、譚泰による南昌包囲はさらに強化され、水源を断たれる。李成棟の援軍も贛州で撃退され自滅的な敗走を喫する(董大成の偽情報事件)。
  • 城中は草木尽き人肉を食う惨状となるが声桓は降伏を拒否し続ける。

順治六年(永暦三年、1649年)

  • 春正月、大雨で城壁が崩れ、湯執中の内応により南昌が陥落。金声桓は一族を焼身自殺させる。王得仁は包囲を突破するも行方不明となる。譚泰は南昌を屠る。
  • 二月以降、江西各地(撫州・建昌)も陥落し、諸将は湖南方面へ退く。張自盛・洪国玉ら「四家軍」が各地に拠る。
  • 揭重熙が総督江西軍務となり残存勢力をまとめ、四家軍と連携して広東・福建・江西境を転戦。

順治七年(永暦四年、1650年)~順治十三年(永暦十年、1656年)

  • 江西の抵抗は徐孝伯(寧都固守、順治八年に陥落)、揭重熙(順治九年に捕らえられる)、曹大鎬らが各地で持ちこたえるが徐々に清軍(劉武元・馬蛟麟ら)に鎮圧されていく。
  • 順治十二年、張煌言が蕪湖に至り楊廷麟の残軍との連携を図るが実現せず、廷麟の子弟も離散。

順治十五年(永暦十二年、1658年)~順治十六年(永暦十三年、1659年)

  • 陳九思が江西で最後まで抵抗を続けるが、朱成功の長江遠征失敗の報を受けやがて降伏し、江西の明勢力はほぼ尽きる。

史論(地の文)

  • 江西は湘楚に通じ、閩・皖・浙・粤に接する要衝の地で、山水の険が多く民は文才と勇気を兼ね備える。左良玉の反乱で袁継昌の志は実現せず、金声桓は俘掠を志とし南朝の無防備に乗じたが、その反正も長続きせず鄱陽の地は鼎沸するに至った。
  • 劉同升・楊廷麟は忠誠を結び歳月を重ねたが、贛州を守るのが精一杯であった。郭維経・万元吉は督帥として力を尽くしたが、義旅としては客兵に過ぎず、守臣としては余燼を収めるに過ぎなかった。黄道周・傅冠もそれぞれ徒手の号召、書生の悲歌に終わった。
  • 傅鼎銓・揭重熙、徐孝伯・余応柱らは往来して奮戦し、山寨に号令をかけて志気を失わなかった点は評価される。
  • 金声桓・王得仁の反正は李氈の宋帰参、姚萇の晋附に類する好機であったが、姜曰廣の忠憤も時機を得ず、李成棟・堵允錫の援軍も遠く及ばず、南昌陥落とともに諸郡も相次いで失われた。三藩(済爾哈朗・孔有德、耿仲明・尚可喜)の南進を許した萌芽はここにあった。
  • その後も撫州での再挙、鄱陽の義旅、張煌言の来援企図など「百折不撓」の精神は絶えなかった。贛州の役で謚を得た者二十余人、義兵の砦を主宰した者数十輩に及び、その忠義は匡廬・廬陵・文山の伝統を受け継ぐものであった。